祐介の想い
梅雨の時期は髪の毛が広がるから嫌いだ。朝つけたオイルも夕方になると効果が消えていて、夢乃は肩より少し長い髪を一本に縛る。
(んー、今日は残業かな)
早く帰って高瀬くんの顔が見たいのに、現実はシビアだ。井上さんがお疲れ様でェす、と帰っていくのを笑顔で見送って、再びパソコンに向き直ったとき。
「おーい、顔疲れてんぞ」
冷たい何かが頬に当てられた。ひやりとした冷気が顔を涼めていく。のは、いいのだけれど。
「むーすげー!(祐介!)」
むぎゅうと音がするほど押し付けられ夢乃はその男を睨む。こんなことをするのは、祐介しかいない。
「睨むなって。ほら、差し入れ」
「……ありがとう」
夢乃の好きなメーカーのブラックコーヒー。さすが長い付き合いである。
「どうして残ってるって分かったの?」
「さっき井上さんとすれ違って言われた」
「言われたって、なにを?」
「それは……まあ、いいだろ。付き合うよ」
「営業部のエースに事務仕事させられないよ」
「はいはい、素直じゃないんだから」
本当に大丈夫だって、と押さえる夢乃の頬を今度は指で摘まれる。
「昔を知ってる俺としては、無茶しないか心配なんだよ。任せろって」
パワハラ時代、その会社はおかしいと真っ先に言ってくれたのは祐介だ。その彼に言われては夢乃も引くほかない。
「ありがとう……」
「いーってことよ」
祐介は長い足を組んでパソコンの操作を始める。部署の違う祐介に頼めるのは打ち込みくらいだが、それでも十分ありがたかった。
「学生時代からずっと助けてくれたよね、そうやって」
「そうだったか?」
「うん。『いーってことよ』、何回聞いたか……」
「はは」
夢乃が祐介と出会ったのは、サークルの新歓コンパだ。隣に座った男がやたらと酒をついでくるタイプで、どれだけ断ってもしつこく飲まされ、結果、酔わされた。
その男の狙いは明白だった。
そしてそれを見事に阻止したのが祐介である。
『すみません……送って…もらっひゃって……』
呂律の回っていない夢乃に肩を貸しながら、祐介はぱっちりした二重まぶたを柔らかく細め言ったのだった。
『いーってことよ。途中で気づいてやれなくて、ごめんな』
そんなこんなで、祐介と夢乃が親しくなるのに時間はかからなかった。ブラック企業に勤めたおかげで交流の少なくなった夢乃としては、祐介は親友と呼べる存在だ。
「この会社を紹介してくれたこともだけど、なにより祐介と同じ会社で働けてよかった。いつもありがと」
「いーってことよ」
祐介がわざと同じ言葉で締めて笑った。
◇
二人だけのオフィスに、キーボード音が響く。
祐介が缶コーヒーを一口含んでから口を開いた。
「あのさ、」
「ん?」
「社会人野球の件、なかなか集まんなくて悪いな」
「そんな……あのときは助かったよ、ありがとう」
「夢乃が最近忙しいのって、あの高野ってやつのせい?」
「んー、まあそうなるのかな」
「どういう関係? 遠縁ってのは嘘だろ」
聞きづらそうに祐介が問う。夢乃が聞かれて一番困る質問だった。そして嫌な質問でもあった。
高瀬くんとの関係。
神様に近い推しと、ただのヲタク。
それだけのはずだった。
けれど、今は違う。神様とテレビを観ながら膝枕なんてできないし、推しと一緒に眠ったりできない。
高瀬くんの気持ちはわからないけれど、夢乃の中では少なくとももう、ただの推しではなかった。
「……分からない」
打ち込みを終えたタイミングで、質問に答える。ログアウトしたパソコンを落として祐介を見た。
祐介はとっくに入力を終えていて、夢乃をまっすぐ見つめていた。
「ありがとう。手伝ってくれて」
「なあ。お前は俺が昔から助けてくれるって言ったけどさ」
「うん?」
「親切だけでこんなことしてると思うか?」
「どういうこと?」
深い二重まぶたとはっきりした涙袋。社内でも人気なだけある祐介の見慣れた美形を見つめ返して夢乃は問うた。なにが来るのかなんとなく予想がついていてしまい、夢乃の声が低くなる。
「夢乃。お前が好きだ。ずっと前から」
祐介の漆黒の瞳が夢乃を捉えた。
「お前の、内心で羨んだり比べたりしても、人のことを悪く言わないところが好きだ。そのせいで自分が傷ついてしまうところも、全部」
好きだ、と祐介が再び上擦った声を上げた。
(ああ、)
甘いはずの告白に、夢乃は心が沈んでいくのを感じた。そして苦しくて涙が出そうになる。大切な友人を、自らの手で傷つけなければならないことに。
「ごめん、なさい……」
答えるまでの間は、悩んだからではない。祐介をなるべく傷つけずに断る言葉を探しただけだった。
もしこれが高瀬くんがこの世界にやってくる前だったら、夢乃も検討したかもしれない。
(それくらい、祐介は優しくて、ずっとそばにいてくれた。でも……)
浮かぶのは、綺麗な顔をくしゃっと潰して笑う男の子で。
「夢乃、」
「ごめんなさい!」
大切な人だからこそ、これ以上向き合うことが怖くて、夢乃はバッグを取り、走って会社の外に出た。




