高瀬の日常
(そろそろ集まる頃か……)
時計は午後三時を指している。汚れてもいいTシャツとズボンに履き替えて、高瀬は外に出た。小学校高学年の子どもたちが、放課後に少年野球をしているのに混ぜてもらうことがあるのだ。
「直兄ちゃーん!」
「おー」
公園にまで行けば、駆け寄ってくるちびっこ達の頭を全員撫でてやる。高瀬に弟はいないが、いたらこんな感じなんだろうな、と思った。
少年たちとの出会いは、素振りでもしようかと思い少し遠い公園にまで足を運んだのがきっかけだった。少年たちが楽しそうに野球をしている声が聞こえて、高瀬はその一人によっ、と声をかける。
(俺が小学生のときは、じっちゃんが連れていってくれたっけ)
「お兄ちゃんも混ぜてくれよ」
そんな懐かしみを込めてかけた声は、訝しげに返された。
「いいけど、野球できんのかよぉ」
「言ったなー? 俺は速いし打てるぜ。どんな球でも」
元来面倒みのいい高瀬である、少年たちに馴染むのは時間がかからなかった。それ以来、彼らの一員として野球に混ぜてもらっている。
今日も今日とて快音を鳴らしつつ、少年たちを立てつつ、アドバイスをしていたらあっという間に解散の時間になっていた。
「お疲れ。かーちゃん達待ってっだろーから寄り道せず帰れよ」
「ありがとう兄ちゃん!」
「次も勝つぜ」
「ぜってー負けない!」
悔しがる少年の頭を、かつて自分が先輩にされたように触っていれば、他の少年が目を輝かせて言った。
「そういえば、兄ちゃんの高校ってどこ!? 俺ら、全力で応援する!」
高瀬は一瞬固まる。そしてそれを取り繕うように破顔してみせた。
「あー……ありがとな。気持ちだけもらっとく」
「ええー。直兄なら日本一になれるのに」
日本一、という言葉が高瀬の心に引っかかる。
『高瀬直人! 日本一速いショートになる男です!』
高瀬の夢は今も昔も変わっていない。けれど。
(今はそれだけじゃねえけどな)
夢乃の笑顔が頭に浮かぶ。彼女の笑顔を守りたい、という高瀬の新たな夢は、きっと叶わない。だからこそ野球で結果を出して、次元越しに彼女を笑顔にすることが、自分の役目だと思っている。
「……じゃあ絶対に誰にも内緒にできるって誓うか?」
自分が大田選手に受けたようなものを、この少年にも与えられる気がして、高瀬はしゃがんで声をひそめる。
同じショートのポジションであるこの子になら言ってもいいかもしれない、そう思ったのだ。
「うん! 誓う!」
少年は真剣な顔と幼い声で小指を立てる。そんな少年に、少しの期待と九割の誤魔化しを考えてから告げた。
「お兄ちゃん、漫画の世界から来てんだよ」
「……は?」
「だからすんげー強えの。読んで応援してくれよな」
高瀬のウインクに、少年がむくれる。冗談だと思ったのだろう。
「……何言ってんだよ! 兄ちゃんのバカ、すげえ身構えたのに!」
「悪ぃ悪ぃ、冗談だって。またやろうな、野球」
その「また」が本当に来るかはわからないけれど、叶えられるといいな、と思いながら、高瀬は未来の自分のような少年の頭を優しく撫でたのだった。
◇
その後、夢乃から残業の連絡があったため、素振りを規定量こなしてから、夕飯の買い出しに向かう。
最近の夢乃は忙しそうだ。だから疲れが取れる、もしくはスタミナがつく献立がいいだろう。
さっぱりしたものがいいか、と思えばむね肉が安い。高瀬は圧倒的もも肉派だが、二度揚げしてチキン南蛮にすると美味そうだ。さっぱりしているかは分からないが。
さて玉ねぎを、と野菜コーナーに戻ったところで叫び声が聞こえた。
「ひったくりよ! 誰か助けてー!」
振り向けばおばさんが自転車ごとひっくり返り膝をついている。手を差し伸べている人がいるのを視界の端で確認してから、高瀬はカゴを置いて走り出していた。
(明らかに女性物のカバン……! アイツか!)
黒いキャップに黒いTシャツ姿の男性が人にぶつかりながら走っている。夕方の混雑した時間帯だからか、まだ目視できる距離にいた。
高瀬は盗塁を決める時のスタートダッシュを切ってひったくりを追いかける。
「泥棒ですどいてください!」
と語弊のある言葉を大声で叫んだおかげで、人が退いて細い道だがコースができた。
(これならいける!)
自慢の俊足でぐんぐんと距離を詰めていく。ひったくりが慌てて角を曲がろうとしたところで、息一つ乱していない高瀬が引っ捕まえた。とりあえずぐい、と腕をひねりあげる。
(ケンカしたことねえから、捕まえ方分かんねえけど!)
周りの人に「泥棒を捕まえたので110番して下さい」と頼んで、鞄を奪い返す。幸い近所に交番があったため、数分で警察官がやってきた。
「君が捕まえてくれたのかい? お手柄だったね」
「いえ。おばさんに返してくるんで、失礼します」
身分証などを求められたら厄介だ、早々に切り上げようと高瀬が頭を下げれば、被害者のおばさんが自転車を押しながらやってきていた。
「あなたが取り返してくれたのね! ありがとうございます。なんてお礼をしたらいいかしら……まあイケメン! 家で夕飯でもいかが?」
ひっきりなしに言葉を紡ぐおばさんは、膝を擦りむいてはいるものの元気そうだ。
「うちの息子もね、あなたくらいの年で……あら? そういえば、あなた息子が見てるアニメのキャラにそっくりね」
高瀬は話を続けるおばさんに苦笑いを浮かべながら、「じゃあ美味しい玉ねぎの選び方を教えてください」とお願いしたのだった……。
◇
「ごめんね、待たせて。いつもお迎えありがとう」
朝の姿に薄手のカーディガンを羽織った夢乃が、高瀬の元へ走ってくる。
「んーん、俺こそ残業終わりに素振り付き合わせるから」
「それは大人の役目ですから」
「なら一緒に振る?」
「絶対いや」
「意思固すぎんだろ」
そんなやり取りをしながら公園に向かう。
「今日仕事でこんなことがあったんだけど、高瀬くんは今日何かあった?」
途中で夢乃がそう切り出したので、高瀬は一日を振り返って苦笑した。
「聞いても絶対信じねえと思う」
「高瀬くんの言うことならなんでも信じるよ」
「ほんとかよ」
「推しは絶対・真理・天理」
拳を握って目力を強める夢乃は、完全にヲタクモードだ。
「松崎さんてたまに怖いよな」
慣れたやり取りに自然と力が抜ける。一日中一人でいると、足りない練習量への不安や、残された部員のこと、じっちゃんのことなど、考えても仕方ないことを考える。
それに相反して、この世界や夢乃への愛着が強まっていくとなると、いくら精神力の強い高瀬でも気持ちが崩れそうになるものだ。
けれどこうやって一日の終わりに夢乃の顔を見ると、全身から力が抜けるのだ。
(いまは考えなくていい。いまはこの日常を楽しんでもいいんだ。松崎さんのいる、この世界を)
そう思ったらなんだか言いたくなって、高瀬は今日起きたことを挙げていく。
「ランニング途中に仲良くしてくれてるお爺ちゃんと犬に会って、野球少年に漫画の世界から来たって言ったら信じてもらえなくて」
「なにしてるの」
夢乃が呆れを声に含ませる。
「おばさんがひったくりに遭ってその泥棒を追っかけて捕まえて」
「えっほんとに?」
「昼は松崎さんからの返事早く来ねえかなってずっとそわそわしてた」
「……ねえ、嘘でしょ」
訝しい目をこちらに向けてくる。十センチほどある身長差は、夢乃のパンプスのせいでほとんどない。
(あ、抱きしめてえな)
「で、いま邪なこと考えてた」
「邪なことって?」
「言えねえようなこと」
指先で夢乃の鼻をつん、と触る。さすがに察したのか、夢乃がさらに眉間を寄せた。
「さっきから嘘ばっかり!」
「推しの言うことは絶対真理じゃなかったのかよ」
「それとこれとは別! 素振り追加ね」
「はーい」
(叶わない恋でも、叶えてみせる。)
そんなことを思いながら、高瀬は口を尖らすふりをした。