推しと暮らす!?
夢乃がいかに普通かというと。
キラキラ系女子ではないが、干物ほど枯れてもいない、ほとんどの女性が属しているタイプだ。
インスタグラムのアカウントはあるが投稿はしない。
お金が無限にあれば、自炊なんて面倒なことはしない。
美容院が面倒くさいという理由だけで黒髪のセミロングを貫いている。
つまり、自虐できるズボラもなければ、SNSに投稿できるほどオシャレでもない、そんな生活だ。
高瀬直人の存在以外は。
『闘魂』は今年で連載十周年を迎える、高校野球を題材にした少年漫画だ。続刊四十五巻発売中である。
高瀬直人が一年生の頃からの話で、投手・中西一生が主人公の作品だ。キャラの感情や努力がリアルに描かれており、涙するシーンも多い。
アニメ化した際に女性人気に拍車がかかり、今ではプロ野球選手が帯にコメントを寄せるほどだ。
最近、高瀬直人らの三年生編が始まったことで話題を呼んでいる。
そんな高瀬直人は、作中で一番の人気キャラクターだ。
高校三年生、強豪野球部の副キャプテン。
ホームラン王と呼ばれるほどの打率を誇る、俊足ショート。その実力ゆえドラフト確実との噂だ。もちろん、公式の設定で、だが。
1Kの中に軒並み広げられた高瀬グッズが、彼女が公式に費やした額を表している。
その部屋……つまり自分の顔だらけの部屋で、高瀬くんが呟いた。
「いや気絶したいのは俺の方なんですけど」
一通り説明して差し出した原作『闘魂』の二巻を読みながら、高瀬くんが呟く。
「本当にすみません……」
頭を下げようとして、何かが落ちてきた。見たことがないハンドタオルはほんのり濡れている。
「ああそれ、濡らすのにキッチン借りました。すんません」
「え……介抱してくれたの?」
「介抱ってほどのもんはできないすけど……目の前で倒れられたことないんで」
どれくらい気を失っていたのだろう。
異世界で知らない女にぶっ倒れられて、その場で佇むしかなかった高瀬くんを思うと本当に申し訳ない。
にもかかわらず彼は、自分のポケットに入っていたハンドタオルで夢乃の額を冷やしてくれていた。
なんて優しい人なのだろう。推しが優しい。解釈一致。世界が優しすぎて、もはや切腹を命じられても応じるレベルだ。
「本当に、本当に申し訳ございません……!」
「まあ、なんともなくてよかったです」
知らない女性と接する程度の声色に、少しだけ優しさを滲ませて高瀬くんが言う。
そんな彼はこの現状を重く受け止めているようには見えない。高瀬くんはあぐらを掻いて『闘魂』のページをめくる。
「うわー、俺かっけえ。なんか不思議だなあ」
(うわあ、キャラブックの通りだ……!)
高瀬くんの座右の銘は「何とかなるだろ」だ。それゆえか、こんなトンデモな状況も意外と受け入れている。
「しかしどうすっかなあ。ええと、お姉さん? この辺りで未成年が泊まれるところ、ある? いや、あります?」
原作では口が悪い高瀬くんが、丁寧語に変えて尋ねる。自分の名前と、敬語のイメージがないからタメ口でいいことを伝えると、思案する様子なくオーケーされた。
(推しの適応能力、高すぎる!)
さすか我が推し。最高。
と拳を握って悶えた後、夢乃はようやく考えた。
(え、泊まれるところ?)
◇
元の世界に帰れるまで一緒に住むことになった高瀬くんは、胡座をかいて『闘魂』を読み続けている。
(高瀬くんが、家に、住む? 一緒に?)
どのワードも信じがたくて硬直する。
「おーい、お姉さん?」
高瀬くんの声も今の夢乃には届かない。
「あの、本当に? これ、死後の世界とかじゃないですよね……」
「多分」
「じゃあ夢だ!」
何度つねってもも目を覚ます気がないらしい自分の頬を、夢乃は勢いよく引っぱたく。
ぱぁん! といい音が響いて、高瀬くんが切れ長の目を見開いた。
「ちょっ、大丈夫!?」
心配するその瞳には自分が映っていて、またも気を失いそうになる。
あまりに都合のいい展開に夢乃が再び腕を振り上げたところ、高瀬くんに止められた。
「いやいや。お姉さん……松崎さん、Mなの? 痛いからやめろって」
美しい顔を一切崩さぬまま手を掴まれて、夢乃は
鼻血を吹いた。
◇
ヲタクには色々種類がある。
推しを拝む尊い系、キャラクター同士を脳内でくっつけて妄想するカップリング系。
そしてキャラクターに恋愛感情を抱く、いわゆる夢女子系。
他にもあるのだろうが、夢乃はこの三つしか知らない。
夢乃は、推しを拝むヲタクだった。
彼に会えるのなら全財産投げうってもいい。だが自分が隣に立つ想像はできない、という厄介なタイプ。
「で、俺のファン? なの?」
「はい……とても……」
それはもう、全身全霊全銭にて応援させて頂いております! と心で返す。
「だろうな」
高瀬くんが呆れた顔をする。そりゃそうだ。気絶して鼻血を吹いた女にする顔としては、最適解である。
彼はその見た目と努力家な性格が相まって、原作でもモテている。
が、野球にしか興味が無いと告白を断った、という描写があった。キャラクターブックの五十四ページ目。
だからさぞウザがられるだろうな、としょげていたのだが。
高瀬くんはその呆れを引きずる様子はなく、一瞬で表情と話を変えた。
「じゃ、野球好きなんだ」
素晴らしすぎる推しのコミュ力と優しさに、心で感涙しながら、身は萎縮したまま答える。
「す、好きになりました。この作品見るまで詳しくなくて」
「へえ! じゃ、俺がきっかけかあ」
嬉しそうに笑う高瀬くん。原作通りの、形のいい目を無くすほどの満面の笑み。
(ああ、好き。死んでもいい)
「ちなみに、元々は野球どれくらい知ってた?」
「えと、ホームランは全て、四点入ると思っていました」
その笑顔のせいで、ついうっかり口にしてしまった。
「嘘だろ!?」
そんなことある!? とゲラゲラと笑う高瀬くん。
(あ、これはチームメイトと下らない話をしている時のキャラデザ……!)
なんてときめいてる場合ではない。
「すみません本当に!」
不快にさせてしまったらどうしよう、と必死で頭を下げる。高瀬くんに嫌われたら生きていけない。
(既にマイナス五千点くらいの印象を何とかしなければならないのに……!)
が、彼は特に気にした素振りもなく、むしろ楽しそうだ。
「もしそうなら、俺一人で二十点くらい取れるな」
原作でも随一のホームラン王が親指を立てて言った。
(神様……)
あまりの尊さに涙した。
(って待って!?)
推しこと神様こと、高瀬くんとの逢瀬に感激していた夢乃だが、「練習してえなあ」という彼の一言で我に返った。
「高瀬くん、今何歳?」
「え、十七だけど」
「高校三年生になったところ?」
「だな」
つまり、この高瀬くんは、原作最新刊の時系列の高瀬くんということになる。『闘魂』を読んで未来を知る……なんて事態は防げるわけだ。しかし。
未完だが、『闘魂』では十七歳の夏に彼は大会に出場するはずだ。
あわててキャラクターブックから年表を探す。西東京大会の開幕は、七月初め。
今は三月の末だ。
「た、高瀬くん。この世界に来たきっかけとか分かったり……」
「しねえな」
「デ、デスヨネー」
気を失っていたせいで、日付は跨いでしまっている、つまりこれは夢でも、時が過ぎれば解決することでもない。
このままでは高瀬くんの最後の夏が始まってしまう。
あと三ヶ月で、何としてでも彼を元の世界に戻さなくては……!
こうして夢乃の、夢の世界が始まった。