好き
ある日残業して帰ったら高瀬くんが家にいなかった。
(とっくに自主練は終わってる頃なのに……)
LINEも既読がつかない。
練習に夢中になって時間を忘れているのかもしれない。迎えに行こうか迷ったが、あまり過保護すぎるのも高校生には良くないだろう。
(もう少ししたら迎えにいこう)
高瀬くんが読んでいたのだろう、本棚から出しっぱなしの『闘魂』を開いて夢乃はだらしなく頬を緩ませる。
第二巻。高瀬くんが入学してきた頃の話だ。
◇
「高瀬直人! 日本一速いショートになる男です!」
腰の後ろで手を組んで、腹から声を出した。先輩たちがぎょっとした顔をしていたけれど、事実なのだから関係ない。
「お前ー! 生意気だぞー!」
先輩の一人に頭をぐりぐりされて、高瀬は人懐っこい笑みを浮かべて頭部を守る。
「さーせん! でも事実なんで!」
持ち前の明るさなのか、適応能力の高さからなのかは分からないが、高瀬が先輩にいびられることはなかった。
しかし現実は甘くない。
血反吐を吐くほどの練習量、身体を作るための多すぎる飯、スマホも禁止の寮生活。どれも慣れるには時間がかかった。
(そうだよねえ……! 大変だったよねえ!
このときの高瀬くん、自信家なところと初々しさがあって可愛かった……!)
うんうん、と頷きながら夢乃はページをめくる。お気に入りシーンに付箋が山ほど貼ってあるのですぐ見返せるのだ。
そんな高瀬の努力が報われたのは、一年生の夏だった。甲子園へ出場を決めた青葉高校は、ピンチに陥り代打に高瀬を起用した。
あまり緊張しない高瀬も、さすがに手汗が止まらなかったのを覚えている。
(うん、あのときは驚いたなあ……試合が決まりかねない場面での一年生起用! そこで言うんだよね)
「高瀬、大丈夫か?」
監督の言葉に、片頬を上げて返す。
「大丈夫です。日本一速くてバッティングもいい、ショートなんで」
そして高瀬は有言実行、結果を出し、『闘魂』随一のホームラン王になってゆくのだった。
しかし。
二年生の夏。自慢の足を痛めてしまった高瀬は、準決勝ではホームランを放ち逆転勝利するも、決勝戦ではいまひとつ成果を残せず、押し出しサヨナラ負けという悔しい結果となる。
あのときの悔しさは、やるせなさは、高瀬の中で生涯超えることのないものだ。
自分にはもう一年時間があっても、先輩たちは引退だ。
自分が怪我などしていなければ。もっとバットで中西を援護できていたら。
そう思うと涙が溢れて、高瀬の喉から嗚咽が漏れた。けれど、整列しなければならない。一番ショックを受けているだろう中西の背中を叩きにいかなければならない。
高瀬はすぐさま顔を拭い、痛みを訴える足を踏ん張って中西の肩を抱き締めた。
「先輩、すみませんでした!」
同じように中西を慰めている先輩に、高瀬は頭を下げる。
「そんな顔するなよ高瀬。日本一速いショートになるんだろ」
自分よりもっと酷い顔をしている先輩が、高瀬の頭をぐりぐりと押した。そう、初対面の頃のように。
さすがに耐えられなくなって、高瀬は初めて人前で、子どものように泣きじゃくった。
◇
本棚から出ている巻はこれで全てだ。夢乃の中に嫌な予感がよぎる。
(もしかして、高瀬くん……これを読んで)
二年生編の地区大会決勝戦は、読者にとってもトラウマの回である。
(探しにいかないと!)
外は雨が降りだしていた。彼の分の傘も持って、真っ先に公園へと向かう。夢乃の想像通り、彼はそこにいた。
雨が降っているのにも気がつかない勢いで、バットを振っている。その姿には、声をかけるのもはばかられるほどの焦りがほとばしっていた。
(けど、このままじゃ風邪引いちゃうし……)
しかも、出会った頃に夜中に抜け出して練習していたときとは違う。やみくもだし、フォームも乱れていた。
意を決して止めようと近づいた夢乃はハッとする。右手にチラリと赤が見えたからだ。駆け寄って手を開けば、マメが潰れて血だらけになっている。
「なにしてんの高瀬くん! 血だらけじゃない!」
夢乃が慌ててその手を止める。夢乃が視界に映っていないかのごとく虚ろな目で高瀬くんが呟いた。
「不安なんだ……」
あの前向きで太陽みたいな彼が、原作では見たことのないくらいの焦燥ぶりを全身で表していた。
「あと少しのところで、届かなかった。ピッチャーの調子は悪くなかったんだ。それでもあんな結果になっちまった。俺が怪我なんかしたせいで……」
靭帯の損傷、そこから準決勝での足の酷使が加わって、高瀬くんの足の怪我は競技に復帰するまで随分と時間がかかった。高瀬くんが続ける。
「あの試合を思い出すと、どれだけ努力しても足りない気がする。終われば即引退だ。なのに俺は知らない土地でバット振ることしかできねえ。こんなんで最後の夏、本当に優勝できんのか……とか考えちまって」
情けねえだろ、と自嘲的に笑む彼。
ううん、と首を横に振る。夢乃の目には自然と涙が浮かんでいた。
(どうして気づかなかったんだろう)
どれだけ精神的に大人びて見えても、彼は高校三年生だ。野球漬けの中、いきなり異次元に飛ばされて、大好きな野球もろくにできず、チームメイトもおらず、元に戻れるか分からない日々。
センバツで甲子園に立つ高校球児の姿に、センバツに選ばれなかった悔しさもあっただろう。それに加えて原作の『闘魂』、これらを見て、不安で押し潰されないほうがおかしい。
夜更けに抜け出して素振りをしていたあの日から、気づくチャンスは何度もあったはずなのに、彼の持ち前の明るさゆえ、苦しみに気づくことができなかった自分が情けない。
(高瀬くんのそばにいたのに)
何が推しだ。護るべき存在だ。同じ次元にいて、隣にいても、暗記するほどキャラブックを読んでいても、夢乃は高瀬くんのことをなにもわかっていなかった。
「情けなくなんかない。気づかなくてごめんね。でも、血が出るほどの無茶はやめて」
雨が二人を濡らす。冷たさは不思議と感じなかった。
「この手はバットだけじゃないでしょ。ショートとしてのグラブさばきにも、副キャプテンとして皆の背中を押すときにも使う大事な手なんだよ」
「松崎さん……」
「だから、大切にして。苦しいときは話して。私は高瀬くんの味方だから。高瀬くんのためならなんだってするから」
傷口に当たらないように、手に触れる。こんなにも雨に打たれているというのに、手首はびっくりするほど熱がこもっていた。何千、何万回バットを振っていたのだろう。夢乃はその手をそっと撫でて、胸元で抱きしめた。
「松崎さん、服が汚れる」
「いいの」
白いレースのカットソーに、高瀬くんの血が滲んでいく。でもそんなことはどうでもよかった。
このままでは風邪を引いてしまう。分かっているのに、すぐにはその手を離すことができなかった。二つ分の傘の横で、夢乃と高瀬くんは数分の間、触れ合っていた。
帰って応急処置をしている間、高瀬くんは何も喋らなかった。そんなことは今まで初めてだったけれど、夢乃は特に気にならなかった。
「先にお風呂入って。しみるかもしれないけど」
「……ん」
高瀬くんは頷きだけ返して、シャワーへと向かっていく。
寝る準備を終えて、ソファに寝転ぶ。高瀬くんはまだ無言だった。
「電気消すね」
リモコンを片手に夢乃が言うと、高瀬くんは帰ってきてから初めて、いや、公園から初めて口を開いた。
「なあ」
「ん?」
「手、握ってて。怪我してない方」
高瀬くんが左手を差し出す。夢乃は目を見開いて彼を見た。握るっていったって、ソファとベッドでは距離がある。それは自然と一緒に寝るということで。
でも、高瀬くんの目が、声が、全力で不安を訴えていたから、拒否することなんてできなかった。
夢乃はゆっくり高瀬くんの元に近づく。シングルベッドの狭い布団の中に腰掛けた。そして、おそるおそる潜り込む。
高瀬くんは一度夢乃を見たあと、顔だけ寝返りを打つ。差し出された手が宙を舞っていた。
包み込むようにその手を握る。高瀬くんの手はマメだらけで硬かった。それがとても愛おしくて、夢乃は両手で自分より一回り大きい手を覆った。何よりも大切な宝物を壊さないように。
(ねえ、高瀬くん)
一向に寝息を立てない彼に心の中で声をかける。心拍数は死にそうなくらい早かったけれど、やましい気持ちは起きなかった。
(私、高瀬くんの夢を叶えたいって思ってるよ。そのためならなんだってするよ。本当だよ。でもね)
こうやってこの先、彼が弱ることがあれば、今日のように手を握って励ましたいのに、その頃にはもう、彼は夢乃のそばにいない。
なんて苦しいのだろう。そばにいたい。離れることがちぎれるほど辛い。
(好きだ、高瀬くんが)
神様。推し。護るべき存在。好きになっちゃいけない人。
けれど、この気持ちにもう抑えは効かなかった。




