日給五分
今日も悪い天気だ。
雲一つない青空を見上げながら僕は小さく舌打ちをした。
近頃、ずっとこの暑さが続いている。最近では蝉も鳴き始めて、本格的に夏が始まろうとしていた。
首にかけておいたタオルは汗でべっとりと濡れていて使い物にならないし、多めに持ってきた筈のペットボトル飲料の束も全て空っぽになってしまっていた。
「宮尾!手が止まっているぞ!」
「は、はいっ!すみません!」
膝についていた手で木箱の中の釘を掴み、素早く作業に戻る。
喉が潤いを求めていたが、唾液を飲み込んで我慢することにした。
*
夏は嫌いだ。
この蒸し暑さといい、蝉の五月蝿さといい、何故こんなにも夏は嫌な事ばかり起きるのだろう。
ペットボトル飲料を買った分だけ生活費が消えていくのも辛い。
それに──
「宮尾先輩っ!」
そんな夏だというのに、溌剌とした声。こんな元気な奴は職場にたった一人しかいない。
振り向くと、やはりというべきか水原璃夏が笑いながらペットボトル飲料を僕に差し出していた。
「水原は気が利くね、ありがとう」
僕が手を伸ばすと、微妙な沈黙が流れ、思わず手を止める。
「え、あげるなんて一言も言ってませんよ……?」
見ると水原は真顔である。僕が「えっ……」と戸惑っていると、水原は大声で笑いだした。
「っはは!いやー、信じちゃいました?冗談ですよ、じょ、う、だ、ん!」
呆れ顔のまま、差し出されたペットボトル飲料を受け取る。暑さのせいか水滴が付いていた。
僕は余程喉が乾いていたらしく、酒を呷るように一瞬で飲み干した。
水原はというと、何故か缶コーヒーを飲んでいた。
「水原お前さぁ、よくこんな暑いときに缶コーヒー飲めるよな」
「暑いかどうかは関係ありません!美味しければ良いんですよ、美味しければ」
僕はまた呆れ顔をするしかなかった。
「ちなみに、宮尾先輩は今日の日給どうするんですか?五分、何に使います?」
水原が僕の呆れ顔から逃げるように話題を変える。
「んー、まだ決めてないなぁ。水原は?」
この職場では日給五分制を採用している。出勤すると一日五分の自由が与えられるのだ。例えば、億万長者になりたいと申し出れば五分間だけ億万長者になれるし、死んだ母に会いたいと申し出れば五分間だけ会うことができる。
端的に言えば自分の妄想をそのまま具現化した世界に五分間だけ留まることができる、ということだ。
たしかに日給五分制は金銭面に問題があるように思えるが、アルバイトなどで補えば最低限の生活はできるし、何よりこの制度は大きなストレス発散効果がある。
五分だけでも、なりたい自分になれる。幸せな気持ちになれる。
それが、日給五分制だ。
沈黙。怪訝に思った僕は「水原?」と声をかける。
見ると水原の頬が紅潮していた。
「せ、先輩と、五分、だけでも、デートに行きたいなぁ、と……。」
頬が熱くなる。夏の暑さとは少し違った熱。
「ご……五分じゃ、足りないだろ」
「えっ……?」
水原の目が丸く開かれる。
「今度行こう。……デ、デート。」
水原の顔が、嬉しさで飽和して、
「先輩っ……!嬉」
失くなった。
*
目の前には、小太りの上司が立っていた。
「はい、今日の日給ね。お疲れ様」
事務的な対応。
後ろを振り向く。
茜色の空に烏の歌声が響いている。
工事現場。
そこに僕だけが、呆然と立ち尽くしている。
「あのさ、宮尾。現実ってのを見ろ」
僕は黙ったままでいる。
「明日も朝から仕事だ、さっさと帰って休め」
『ちなみに、宮尾先輩は今日の日給どうするんですか?五分、何に使います?』
水原の言葉がフラッシュバックする。
五分じゃ、足りない。
足りないよ。璃夏。
「宮尾、早く帰れ!」
その怒声に返事もせず歩き出す。
いつものように僕は墓へ向かう。