彼氏がヘルシーハンバーグを作ってくれると言ってきた
ハンバーグは正義。
私がそのことに気づいたのは最近のことだ。
何故なら、私は無意識のうちにハンバーグを拒否していた。お店に行っても絶対に食べなかった。それが、直樹に無理やり勧められて食べてから好きになった。
今思えば、その喫茶店のハンバーグは手作りではなかった。
でも、私はそんなことに気にしていなかった。ハンバーグにナイフを入れると肉汁が垂れる。デミグラスソースをつけてから口の中に入れる。火傷をしそうなくらいの熱さ。舌の上で転がしながら噛むと肉の柔らかさと、甘みが凝縮されたデミグラスソースの味が口の中に広がった。
くううぅ、美味しいっ!
バナナやパイナップルでも使われているんじゃない?
そう言いたくなるほどのデミグラスソースの甘みが肉の味をより引き立たせている。ちょっと濃い味だけど、ライスを一緒に食べる分には相乗効果を生み出していた。
ハンバーグだけじゃない。ポテトも美味しかった。ごぼうのように細いポテトではなく、ふっくらとボリュウムのあるポテトは、カリッとした食感が最高。それに、ジャガイモの甘みを調和させる塩の味が心地よい。
赤い彩りの十分に調理された人参は、柔らかいだけではなく、人参ってこんなに甘かった? と感じさせられる。女性にとっては少し多めのボリューム。それでも、苦もなく食べきり、後から頼もうと思っていたデザートがもう少しでお腹に入らないところだった。
数日後、どうしてもその喫茶店のハンバーグが食べたくなって、一人でその喫茶店に行ったことがある。でも、何故か美味しいとは思えなかった。いや、違う。美味しかったんだけど、一番初めに食べたときのような感動はなかった。理由はわかっている。一人で食べたからだ。直樹と一緒の食事だったから二倍の美味しさを感じたんだ。
直樹はどことなく陰りのある男性だった。ちょっと、口が悪いところがありオタクであり奥手ではあったが、頭もよく、ルックスも私好みだった。何より一緒にいるだけで、突如湧き上がってくる不安や恐れが消えていく。心の安心感を与えてくれる。そんなイケメンなのに、男子校出身でメーカー勤務ということもあり女性っ気が全く無かった。どうしてこんな人が放っておかれたんだろう。そう思いながら、私は自画自賛する。デートに誘ってみて良かったって
直樹と付き合い始めてからあまり時間が経っていない。一番幸せな時期かもしれない。彼といると、全てが素晴らしいことに見えてしまう。だから、レンズが歪んで何でもよく見えてしまって無いか確認をしたくなる。
「例の喫茶店。この間、一人で行ったら、美味しくなかったんだよね」
「ハンバーグが?」
「一人だったからかなぁ。どう思う?」
「ま、俺がいたら何でも美味しくなるんじゃない?」
「ふふ、言うね。じゃあ、直樹がハンバーグ作ってみてよ。美味しく食べてあげるから」
私が冗談のつもりで言うと、直樹は平然と頷く。
「ハンバーグ作れるの?」
「意外と簡単だよ。一人暮らしは長いからね」
「じゃあ、作って」
「いいけど、ちょっと変わったハンバーグで味は保証しないけど、いい?」
「おけおけ」
「あと、食材を買ってきてもらえると助かる」
「りょーかいっ」
味なんてどうでも良い。直樹が作ってくれるだけで十分。今までの結果ならそれだけで満足できるはず。金曜日の夕方、まだ暗くなる直前。私は直樹のアパートの近くにあるスーパーに立ち寄る。スマホに送られてきたレシピを確認する。
ーーーヘルシーハンバーグーーー
ひき肉500g
玉ねぎ 1個
おから 1袋
卵 1パック
調味料とかはあるから不要。あと、飲みたいものとかあれば。
ーーーーーーーーー
私は材料を見て疑問に思った。ハンバーグとはこんなに簡単にできるものなのか。買い物カゴにポイポイ材料を入れながら、これなら私にも出来るんじゃない? ハンバーグマスターになれるんじゃない。などと考えていたら、突然違和感に襲われた。何気なく取ったおからの袋を見ていると心臓の鼓動が早くなる。ドクドク音を立てているのがわかる。
そうだ。思い出した。私がハンバーグを忌避していた理由を。
★ ★ ★
私は小学校に入る前、どっかの施設で暮らしていたことがある。児童相談所とかかもしれないし、何らかの宗教施設だったのかもしれない。兎に角、私は父親に虐待されたのが原因で施設に入っていた。虐待から逃れられて幸せになったか。と言うとそうでもなく、その施設もかなり酷い場所だった。
本来、一日三食与えられるはずの食事が、何故か二度だった。それだけだったらまだしも、出される料理がとてつもなく不味かった。痩せ細った女性職員は、料理が嫌いみたいだった。だったら、他の人に作って欲しいと思わなくもなかったが、その職員は妙に職務と規律にこだわりを持っていた。
冷静に考えれば、二度の食事ってだけで規律もなにもない。と言いたいのだが、彼女には彼女なりのルールがあったのだろう。全く興味ないが。その女性職員の得意の料理が、おからハンバーグだったのだ。普通、料理を作ろうと考えた場合、メニューに対して材料を用意する。もしくは、材料を見てからメニューを考える。のが普通だ。
だが、彼女は違う。あるもので料理を作る。材料とレシピが一致しない料理を。どう考えてもおかしい。うどんの麺でそばは作れない。そんな当たり前のことを完全に無視していた。
ハンバーグを作ります。でもひき肉が足りない。あ、おからがある。健康にもいいし、量も増やせる。そんな理由でおからハンバーグは出来上がった。いや、違う。おからハンバーグなどではない。あれは単なるおからの塊で、普通の人間が食べられる料理ではなかった。
ある時は、鮭が出されることもあった。塩鮭。今でも塩鮭に苦手意識があるのは、この時期のせいだ。塩鮭と彼女が呼んだ何かは、焦げた塩の塊だった。普通ならば、塩抜きをするはずなのに、そのまま料理したから辛くて食べられなかった。もっとも、塩抜きをしていたとしても、焦げていて食べれなかっただろうけど。
そんな出される料理の中で、唯一食べれたもの。美味しいと呼べたもの。それは、ご飯だった。白米は甘くて柔らかくて、これだけは大好きだった。それなのに、女性職員はご飯に余計なものを混ぜることを好んだ。どうして美味しい白米のご飯があるのに、おからご飯にする? 意味がわからない。
こんな状態だったから、私はいっつも食事を残した。けど、彼女は食事を残すことを認めなかった。お腹が空いているのに残すなんて許せません。確かに、お腹はいつも空いていたけど、食べれないものは食べれない。いつも困って途方に暮れていた。
そんな時に助けてくれた男の子がいた。彼は何故か直接話しかけてくれなかった。右手の人差し指に嵌めたキリンと左手の人差し指に嵌めたパンダの指人形が話してくれた。
キリンとパンダは役割が決まっていたようで、キリンが優しい感じで、パンダが毒舌だった。
「どうしたの? また食べれないの?」
「このハンバーグが不味くて」
「仕方がないなぁ。僕が手伝ってあげるよ」
そう言ってくれるのがキリンの指人形で、男の子は女性職員が見ていない時に私の残した分を顔をしかめながら食べてくれた。
「今日も駄目か?」
「やっぱり、塩鮭が辛すぎて」
「そりゃそうだ。これは人の食べもんじゃない。猫のトイレにでも捨てておけ」
パンダの指人形がそう言うと、男の子は私と自分の塩鮭をサッとポケットに隠してしまうのが常だった。
でも、私が施設にいた間中、いつも助けてくれたわけではない。男の子は私が来てから半年もしないうちにいなくなったからだ。その後は、苦難の日々だった。女性職員は直接の暴力は行わない。けれども、食事を強要することは、私にとって暴力より苦痛だった。必死に無理やり飲み込んで、トイレに駆け込むのが日常だった。もちろん、トイレに駆け込むのを見られたら、もう一度食べさせられる。だから、気持ち悪さを誤魔化すのが大変だった。
★ ★ ★
あんな日常が再び戻ってくるかもしれない。全てを失ってしまい食べるものが食べられなくて、飢えて何も出来ない餓鬼のような生活が再来する日が来るかもしれない。
忘れていた悪夢がグルグルと周りだし、目の前が暗闇に包まれる。何とかレジを済ませるのが精一杯で、スーパーの入り口で足が止まった。施設に入れられていたあの頃、私は世界にとって不要な存在だった。餌と呼んでもいい食べ物を与えられて、それですら満足に食べることが出来ない人間だった。
あれから、二十年もの月日が経ち、体は大きくなったけど、あの頃から私は成長しているのだろうか。社会にとって必要な人間になったのだろうか。ただ、与えられた役割をこなしているだけで、いいえ、こなすことも出来ず、白い目で見られているのではないだろうか。
考え出すと止まらなくなる。負のスパイラルに陥って、自分の中で整理ができなくなる。胸を強く抑えてみるけど、少しも脈動は遅くならない。
「どうしたの?」
声をかけられたが、反応できない。もう、誰も私に構わないで欲しい。私は誰からも見られない存在なんだ。
「どうしたの?」
再び声をかけられた。鬱陶しい。文句を言う気力もないのに、視線をわずかに上げた。既に宵闇に包み込まれたスーパーの入り口。店内から漏れてくる光が、妙に懐かしいものを浮かび上がらせる。
それは、キリンの指人形だった。かなり古臭く。ボロボロになっていたけど、見間違うことのできないほどキリンだった。
「今から、ハンバーグパーティーだよ。楽しみじゃない?」
「美味しければな」
パンダの指人形もいた。キリンの言葉を毒舌で返す。
「主賓が来なくて心配になってスーパーまで来ちゃったよ」
「実は、キリンのお腹が空いたから。などというオチはナシにしてくれよ」
キリンとパンダの掛け合いを聞いて、思わず私はクスッと笑う。
「元気になった?」
「早く、自慢の手料理とやらを食べさせてもらおうぜ」
私はパンダの指に引かれて歩き始める。
「ねぇ、どうしてその指人形を持っているの?」
「あれ? 初めて、というか、再開した時に気づいてなかったのか? 俺はすぐに気づいたけど」
直樹は私の前を歩きながら、パンダの指人形を動かす。
「もしかして、私の記憶を確認するためにおからのハンバーグを?」
「そこまでは考えてないよ。あの時に食べたハンバーグは本当は美味しかったんじゃないか? 美味しく出来ないのか? ってずっと考えてて、色々とレシピを試したりしてただけだよ」
「うそうそ、こいつ、実はヘルシーハンバーグを美味しく作れたら、また、会えるんじゃないか……」
「わーーーー、こいつの言うことは聞かないでね」
直樹はキリンとパンダの指人形を交互に動かす。どちらがどちらの台詞なのかは、ちっともわからない。でも、きっとそんなのどうでも良い。
「不味かったら、あの時の塩鮭をお残し許さず食べさせるからね」
「「えーーーーこの人が一番怖い」」
キリンとパンダが同時に動いた。目の前には、直樹のアパートがある。部屋からは灯りが漏れている。暗闇の中にポッカリと浮かんだオアシスのようだ。私は、内心クスリと笑うと、お腹が少し大きめのグゥって音を立てた。