隣の芝生は青くない
「隣の芝生は青いのか?」狭山視点のお話です。
「……ごめん、無理。よく知らない相手と付き合う程暇じゃない。」
顔見知りに告白され、俺はそれをはっきりと断った。
「相変わらず狭山は冷たいな…いくらなんでも酷くないか?」
「耳触りの良い文句で断る方が酷いだろ。お前自身、それで痛い目見てるじゃん。」
聞き馴染みのある声が俺をやんわりと非難する。
高校からかれこれ4年ほどの付き合いの慶太に見られていたらしい。お前には言われたくねーよ、そんな意図をほんのり込めながら言い返す。言い方や態度は悪いかも知れないが、あれは俺なりの誠意ある対応だ。恋愛を否定する気はないし、相手を傷付けるつもりもない。中途半端に、その気も無いのに、希望を持たせる様な返事をする方がずっと残酷だ。
「あの子、同じゼミの子だろ?真面目そうだし、可愛いじゃん。せっかく告白してくれたのにスッパリ切捨てる方が可哀想だと思うけど。とりあえずお友達から…じゃダメなのか?」
こいつは基本悪い奴じゃない。むしろいい奴だ。とにかく優しくて愛想も良いのだが、だからこそタチが悪い。もれなく相手を勘違いさせる。
背も高くて、いわゆるアイドル系の顔立ちという事もあり、慶太は高校の頃からモテる。
告白されるたび、慶太は彼なりの優しさで断ってきたのだが、傍から見たら断っているようにはとても思えない。結果、ストーカーまがいの行為を受けたり、告白を断ったはずの女子に彼女ヅラされたりして苦労してたくせに。全く学習してないらしい。
「狭山ってそこそこモテるくせにさ、ずっと彼女いないじゃん、何で?」
唐突にそんな質問をしてくる友人に、内心動揺してしまうが、決して顔には出さない。
「興味の無い女と付き合う趣味は無い。」
俺は無表情で素っ気なく答える。嘘偽りない本音だ。
「ふーん。それって裏を返せば、興味のある子なら良いって事だよな?つまり好きな人がいると…で、誰なんだよ?」
慶太には珍しく、締まりの無いニヤニヤした顔で俺に問う。勿体振らずに教えろ…そんな事を目で訴えてくる慶太に嫌気がさした俺は、ぶっきらぼうに答える。
「いない。恋愛とか面倒だし。」
そう言った俺は、鳩尾の少し上、その奥の何かが握り潰される様な鈍い痛みを感じた。
友人に嘘をついた罪悪感で痛むのだろうか、それとも彼に対する密かな嫉妬によるものなのか。どちらに由来するものかわからない。
どちらであったとしても、慶太には言えるはずなどない。
好きな人がいる事も、そしてそれが誰なのかも。
***
男女間の友情は成立するのか否か。俺は成立すると思う。
但し、どちらか或いは両方に、男女間の友情は成立しないと思っている彼氏や彼女がいる場合、その限りではない。
嫉妬によって、互いの関係がギクシャクしてしまう事もあるのだから。
俺には恋人がいないし、幸い俺の女友達でマブダチとも言える白井 花純の彼氏である 慶太も、男女間の友情を肯定しているので、今のところ俺と彼女は良好な友人関係を築けている。
もともと、先に俺と白井が仲良くなり、彼女と慶太が惹かれあっているのに気付いた俺が2人の仲を取り持ったのだから、いちゃもん付けられた日にはブチ切れてやるけどな。
彼女とは、かれこれ2年以上の付き合いになる。好きなアーティストが同じ、それが親しくなるきっかけだった。
彼女に対して俺の抱くイメージは「男前」。
多少口は悪いがノリが良く、ムードメーカーな一面もあるし、良い意味で豪快、そして素直。思った事はハッキリ言うし、割と単純明快。考えている事がすぐ顔に出ると俺は思っている。
特に、俺の前では裏表がない。正直、もうちょい気を使え!と何度思った事だろう。
知り合って割と直ぐに、俺は彼女の、本人曰く「酷い姿」を見ている。
その為俺に対して、良く言えば自然体で居られる、悪く言えば醜態を晒す事に抵抗がない、のだそうだ。
とは言え、同じ時に俺自身も酔っ払って恥ずかしい姿を見られた上、汚い話だが吐瀉物の処理を彼女にさせてしまった。
そんな彼女に、自分を良く見せようなんて今更だし、俺もかなり彼女には気を許していると思う。
気を許しすぎて、お互い異性だと思えない程に…。
だから、お互い恋愛対象にはなり得ないと思っていたのだが、どうやら俺はそうでは無かったらしい。
それに気付いたのは少し前の事で、それを認めることが出来た…いや、認めざるを得なくなってしまったのはごく最近の事。
今思えば…なのだが、俺が自覚が無いだけで、彼女に対してずっと特別な感情は持っていたように思う。
もちろん、「人として」彼女に好意を持っていた事に対する自覚はあった。
素直に友人の恋を応援したいと思う反面、徐々に縮まってゆく2人の距離にモヤモヤして。
それが慶太に対する羨望や嫉妬である事に薄々感づいてはいても、幼い子どもが仲間はずれにされた時に抱くような類の感情の延長だと思っていた。
だが、それでは説明しきれない何かが俺の中で生まれる。
彼女に触れたい。俺を異性として見ていないからこそ出来る、彼女の無防備な姿や表情に無性に腹を立ててしまう俺がいるかと思えば、それはつまり俺が彼女に信頼されているからこそ見せる姿であることに気付き、喜ぶ俺もいる。
今まで通りにするのが最善なのは分かっている。だけれど、その行動には感情が伴わない。
慶太に向けられた笑顔とか、慶太の為に女の子として可愛くありたいと背伸びする姿とか、彼を思って思い悩む横顔の美しさに、異性を感じ、胸が高鳴ると同時に、酷く痛んだ。
だが、こうして俺が彼女の側に居られるのは、彼女にとって、俺が違う意味で特別だからだ。
思いを気付かれてしまったら、口にしてしまったら、きっとそうでは居られなくなる。
そして、俺は選んだ。
彼女にとって、友人として、特別で在り続ける事を。
***
俺には年の離れた姉が2人いる。
そんな姉達のお陰で、女の思考とか、表裏の激しさは同世代の同性と比べたら理解していると自負している。
幼い頃から散々からかわれ、パシリにされ、女同士のいざこざ、彼氏の愚痴を耳にしていた俺は、女の世界の怖さを身近に感じていた。
そんな訳で、俺の抱く「女性」というイメージは、姉達と、姉達の話が元となり、マイナスなイメージで刷り込まれてしまい、実際、これまで付き合ったり、良い感じになった子は、多かれ少なかれそれに当てはまった。
だが、彼女は良い意味で裏切ってくれた。どんなに仲良くなっても、彼女は彼女のままだった。
慶太の前では少し緊張した様子だったり、言葉遣いが多少変わる程度の変化はあるが、基本はあっけらかんとして、豪快。
彼女が男前だと感じる所以はそういうところなのだと思う。
そして、彼女と仲が良く、しばしば行動を共にしている友人との対比で余計そう見えるのだろう。
彼女の友人、紅野 カンナこそ、俺のイメージする女性像そのものだった。
上辺だけの取り繕った笑顔をいつも貼り付けているのに、時々覗かせる酷く冷めたような表情が怖い。
猫撫で声で周りに甘える様子がわざとらしい。あざとい、カマトト、ブリっ子…。
俺にはそうとしか見えないのに、彼女も慶太も、「カンナは天然だから仕方ない」のだと笑いながら言う。
お人好しの2人には、そんな風に映っているらしい。まぁ、俺と彼らに直接害がないのならそれで構わないが、俺は知ってしまった。
紅野 カンナの裏の顔を。それを彼女が知ってしまったら、傷付いてしまう事も……。
「慶太くんっ!また相談にのって欲しいの…」「お願い、慶太くん…花純にはナイショにして?」「慶太くんに淋しい思いさせるなんて、花純は酷いよ…カンナだったら、そんな事絶対させないよ?」
普段よりも更に甘えたような声、過度なボディタッチ。勿論その場に慶太の彼女である白井はいない。これを色仕掛けと言わずして、なんと言うのだろう。もともと馴れ馴れしいというかベタベタしてくる女だとは思っていたが、この距離は明らかにおかしい。
偶然なのか必然なのか、何度か耳にしてしまったそんな紅野の台詞と、目にしてしまったただならぬ雰囲気の2人。
友人である慶太を信じたい気持ちが、疑うのはまだ早いとストップをかける。
だが、疑惑は深まるばかり。
どうしたものかと1人悩んだ。変に干渉して、悪い方向へ行ってしまっては元も子もない。だからと言って、傍観しているだけなのも気が引ける。先ずは決定的な証拠を掴んでから…そう思い、観察を続ける事にした。
だと言うのに、ある意味当事者である彼女の呑気さには呆れて拍子抜け。何も言い返せなかった。それが、彼女の良い所でもあり、残念な所でもある。今の俺にとっては、完全に後者だ。
「狭山ぁ、どうしたの?カンナばっかり見てるけど…もしかして、カンナの事好きだったりする?」
至近距離で顔を覗き込む彼女。不意打ちでそんな笑顔を見せられては心臓に悪い。慌てて否定するが、完全に誤解された。なんか凹む。俺が好きなのはお前だよ!とは言える筈もなく、極力感情を出さぬよう、無表情であろうと努める。
彼女が好きだと自覚をしてから、度々、いや、かなりの頻度でポーカーフェイスを装っている自分。
元々、感情が顔に出やすく、それで姉達にからかわれる事の多かった俺が編み出した自己防衛策だったが、こんな形で役に立とうとは…。
だけどな、そんなスキルをあまりに発動する機会が多いせいで、すっかり感情を表に出すのが苦手になっちまったじゃねーか。
「狭山ってさ、どこからが浮気だと思う?」
ある日突然、彼女がこぼした一言に、内心動揺しつつも冷静に返す。
「何、慶太浮気でもした?」
「…いや、そうじゃなくて…参考までに?」
動揺を隠せなかったのは、俺ではなく彼女だった。
「白井…顔に出てるぞ。」
「現場に遭遇したとか、メール見ちゃったとかじゃなくて。相手も分からないし、思い過ごしな可能性大だから!……ただ、なんとなく?……きっと勘違い、うん、そう勘違い。…であって欲しいと思う。」
「思い当たる節は有るわけね。」
不安そうな表情をしながらも必死で笑おうとする彼女が痛々しい。
「それは置いといて。でさ、狭山はどこからが浮気だと思う?」
「相手を泣かせた時点…?」
「そういう答え、求めてないんだけど?」
漠然とした答えが不満だったらしい。どこからかが浮気か。完全に価値観次第で答えが無いが、俺の個人的な意見を述べる。
「…状況と相手次第だな。酒に酔った勢いでキスしちゃったならまだ許せるけど…気持ちがあったらそれは浮気だと思う。それ以上の事をやっちゃった場合、相手が素人なら気持ちがなくてもアウト、玄人ならギリセーフじゃねぇの?とりあえず、俺は浮気なんて面倒な事しないけどな!」
「玄人って…まぁ、風俗はギリセーフか…その線も視野に…って、それはそれでショックだわ。」
さりげなく俺は浮気をしないアピールをしたが見事にスルーされた。こうなる事くらい、分かってたけど…地味に凹むんだよな。
彼女の反応を見るに、そうやらキス以上の事をした疑いがあるらしい。複雑過ぎる。責めようにも俺は証拠を持っていない。
「ありがと。慶太にはこの事、黙っててくれないかな?自分でどうにかしたいし。」
「そんな事、言われなくても言わねぇよ。」
彼女がそう言う以上、俺からアクションは起こせない。
だが、そんな会話から1週間も経たないうちに、事件は起こってしまったのだった。
***
「慶太、話がある。今日の夜飲みに行かないか?」
「悪いけど、予定あるんだ…明日じゃダメか?」
証拠は無い、だが確信はある。
彼女に口止めはされているが我慢の限界だった。思い切って、慶太を問い詰める事を決意してかけたはずの電話だったが、もうその時点では、俺だけでどうにかするには手遅れだったようだ。
『……慶太くん、6時に駅前のお店予約取れたよ。打ち明けたら、花純許してくれるかな?』
電話越しに聞こえる紅野の声。通話しているにではなく、電話が拾ったその言葉には嫌な予感しかしない。
打ち明けたら…花純…許す…?駅前…6時…?
正直賭けだった。
どこの駅かはハッキリ分からない。目ぼしい駅は二つ。
大学のキャンパスのある最寄駅か、その手前のターミナル駅か。
迷いながらも、方向は同じなのでとりあえず電車に乗ろうと家を出る。すると、あっさりその迷いは解決してしまった。
「あれ?狭山じゃん!今から慶太とカンナと飲みに行くんだけど、狭山も行く〜?」
偶然にも、電車を待っていたホームで彼女と遭遇した。
見ているこちらが切なくなる程、機嫌の良い彼女。明らかにデート仕様である。普段は履かないヒールを履き、服装はいつもと違って女の子らしい雰囲気。緩くカールした髪も、いつもよりしっかり施された化粧も相まってとにかく可愛い。しかも…それって…慶太にもらったネックレス。
既に居た堪れない気持ちになってしまうが、ここはやはりポーカーフェイスを貫く。
花純が泣いたら、1発と言わず、数発殴ってやろうと心に決め、彼女が約束をしているという居酒屋へ同行した。
俺の顔を見るなり、一瞬嫌そうな顔をした慶太と悲劇のヒロインを演じる紅野。いや、お前はヒロインじゃねーから。どうせ嘘泣きだろ?
「ゴメンね…親友の彼氏だって分かってても、慶太くんを好きな気持ちに嘘はつけなくて…。」
「お前なら俺がいなくても大丈夫…花純は強いから。だけど、カンナは俺が支えてやらないとダメなんだ……カンナの親友なんだから分かってくれるだろう?」
予想通り、いや、想像以上の茶番を見せられたせいか、彼女は泣くでも喚くでもなく、ただただ淡々と受け答えをしていた。きっと途中から真面目に相手をするのが馬鹿らしくなったのだろう。あまりに投げやりな彼女が心配になってしまう。
「……花純は好きだけど…カンナと花純、2人と同時に付き合う訳にはいかないだろ?…花純とは…友達に…あわよくば親友になれないかな。」
「私も花純が大好きだから、今まで通り親友でいて欲しい…わがままだってわかってるけれど、花純を失いたくないの!」
どうなってるんだ、こいつらの思考は。恋は盲目どころの騒ぎじゃない。頭までいかれちまったらしい。
「2人の好きなようにしたら良いよ…。」
「花純…花純なら分かってくれるって思ってた!ありがとう…!」
「お前、やっぱ良いやつだな。俺たちの良き理解者だよ。花純にだって、きっとすぐ新しい彼氏が出来るさ。」
突っ込みどころ満載の会話に、俺はどうすることも出来ず。彼女に本当にこれで良いのかと尋ねれば、察してくれとばかりの視線を返される。彼女がもう付き合いきれないと目で訴えるので、慶太を殴るわけにもいかず、手持ち無沙汰の俺はただ黙々と飯を食う。
俺の隣では終始引き攣った顔で笑おうとする彼女。
強がっていても精神的に大分参っているようだ。彼女の好物が多い食事にも、ほとんど手を付けず、空になった俺の皿といつの間にか交換されている。つまり、俺に食えって事だ。
そんな様子の彼女に気づかない目の前の2人。もっと自重しろ。イチャイチャするな。脳内お花畑とはこの事かと納得する。いや、納得している場合じゃない。その間にも、彼女のダメージはどんどん増えていく。
なんだこれ。どんな嫌がらせだよ。
とにかく。ここを出たら、彼女を元気付けるのが俺の使命だ。
***
「…マジで割り勘とかあり得ないわ。」
他に言うことないのかよ?と言うツッコミはさて置き。2人と別れた直後の、彼女のその一言に和んだ。
彼女が取り乱す事も想定していたのに、思いがけない反応に思わず爆笑してしまったら、彼女も少しだけれど笑ってくれ、その笑顔に俺は少し安堵した。
彼女の言う通り、ほぼ飲み食いもせず、別れを告げられた上、目の前でイチャつく元彼氏と自称彼女の親友の相手させられるだけで辛いのに、安くない額の請求されるとかどんな嫌がらせだ。
そんな彼女を労うため、彼女からのリクエストでカラオケに行く。
いつもに増してハイペースでグラスを空けていくのは心配だが、そんな気分になるのは仕方ない。吐くほど酔い潰れても、俺が責任を持って介抱するから、やりたいようにすれば良い。
飲んで、叫んで、その苦しみが少しでも楽になるのなら。
必死でテンションを上げようとする彼女を見ているのは辛いけれど、俺も一緒にテンションを上げ、普段は決して言えない彼女への思いを、代弁してくれるような歌を歌う。
アップテンポな片思いの歌。忘れられない女性への思いを歌った歌。
俺としてはどさくさに紛れての告白。だが、彼女には届かない。あいつを思って泣いてしまう位なのだから…。
泣き出した彼女を抱きしめたいのをぐっとこらえ、さりげなくハンドタオルを差し出す。彼女の口から溢れる慶太への思い。それを利用しようとする俺は最低な男だ。だけれど、少しの間だけ見逃して欲しい。夢を見させて欲しい。夢は覚めるものだと分かっているから。分かった上で、俺は彼女に提案した。
「失恋したもの同士、傷を舐め合うってのも悪くないんじゃない?」
残念ながら、彼女は勘違いしている。だが、その勘違いすら利用してやろうと思った。
「……………どうした、狭山!酔ってるのか?酔ってるんだろう!?帰ってこーい!!」
「…お前が帰ってこいよ?ほら、逃した魚はデカイって言うだろ?隣の芝生は青いとかさ。失って初めて気付く…みたいな?それにはやっぱり、誰かのモノになっちゃう…もしくはなったフリするのが手っ取り早いと思うんだよね。」
「……………へ?」
「…俺たち、付き合おうぜ?」
「……………はい?」
「…だから、付き合ってるフリして、あいつに後悔させようって話。」
あの2人は間違いなく続かない。絶対的な根拠がある訳ではないがそれは明らかだ。慶太もきっと一時的な気の迷いであるに違いない。慶太が目を覚まして、彼女が望むのであれば元の鞘に収まるのが望ましいのだ。
「…同情してる?なら放っておいて。」
「…利害関係の一致。お前に同情なんてしてやんねーよ。俺もチャンスが欲しいだけ…。」
そう、この提案にはむしろ俺の方がメリットがデカイ。望みがないのなら、偽りでも良い。男として、彼女の隣に居たかった。
彼女はそれを了承し、再びハイテンションで数曲歌うと、泣き疲れたせいか寝てしまった。
無防備であどけない寝顔…ちょっと待て!いろいろヤバいから。俺、男だから。色々見えそうで見えないとか心臓にも悪いから!!
とりあえず、羽織っていたシャツをかける。マジでやめてくれ。絶対俺以外にこんな姿見せるなよ…。
頭の中で十数分前の彼女の言葉がリフレインする。
『イチオウ&ネンノタメにお伺いするが…ソウイウコトは致さないよね?』
無理だと答えると、残念そうな顔をされた。出来るかボケ!そんな事したら俺がお前を手放せなくなっちまうじゃねーか。寝取られた事が発覚した直後で、そういう魅力が無いのかと凹みたくなるというのも分からんでも無いが、そんな顔されたら誘ってると勘違いされんぞ?俺だって一瞬勘違いしそう…いや、したからな!俺だから襲わねぇけど、俺じゃなかったらこの状況を据え膳と言わずして何と言う?ってなっちまうから!
もう気が動転して本人に「可愛い」とか言っちまったよ…。何言ってんだ、俺。
彼女はもっと自覚するべきだ。自分が魅力的である事を。俺に限らず、周りの男をドキドキさせている事を。170cm近い身長も、切れ長で涼しげな目元も、彼女の魅力なのだからコンプレックスだなんて思わないで欲しい。
そんな事があって、眠れるはずもなく。気が付けば朝になっていた。退室時間が迫ったので、不本意ながら彼女を起こす。できる事ならずっと眺めて居たかった。
彼女はひどい姿だというけれど、俺としては眼福だ。泣き腫らした目すら愛おしい。寝起きのアンニュイな彼女は普段感じない色気が凄い。
だがすぐにいつも通りのふざけた調子の彼女になる。マジで助かった。もしそのままだったら……これ以上理性を保つ自身が無くなりかけてたからな!
***
俺はどれだけ彼女が好きなんだ…。
正直、フリで良いから付き合おうなんて提案した事を早速後悔していた。
彼女が好きなのは俺じゃない。常に自分にそう言い聞かせていないと、慶太と彼女が元サヤに収まる事になっても、渡せそうにない。とりあえず、いきなり付き合うってのもリアリティーに欠けるからと、彼女を上手く言いくるめて、少し距離を置く。表向きは素直にそれに従う彼女だが、頻繁に俺の家に来るようになった。
うん、逆効果だね。俺、一人暮らしだからね。一人暮らしの男の家に来て寛ぐのは止めた方が良いと思うよ。
マジで複雑。信頼されてるのは嬉しいけど、もっと緊張感を持つべきだろう。男として意識されてないのが悲し過ぎる。しかも、慶太の好みに合わせて長く伸ばしてた髪をバッサリ切りやがった。俺の好みに寄せて来るんじゃねぇよ!ボブが似合うとか…余計惚れてまうやろ!
唯一の救いは、彼女がふざけて、そういった雰囲気にならない事か。
今日だって、第一声が「隊長、ピンチであります!」だったしな。どんなキャラ設定だ、おい。隊長っていつから俺は隊長に…。そうか、付き合ったフリして慶太に嫉妬させて…隣の芝生は青いって事で、「青芝作戦」とかふざけた名前つけたせいか。
どさくさに紛れて、デートの約束をこじ付ける。もうすぐ彼女の誕生日だ。プレゼントは何が欲しいかと尋ねれば、俺の腕時計が欲しいという。彼女の時計と交換したい。だが、そんな事したら……。
断ったら舌打ちされた。舌打ちかよ…と思いつつ、そんな彼女がやっぱり好きで。彼女が好きなのは残念ながら俺じゃなくて。
苦しいけれど、やっぱり俺は特別な友人で在りたいと思う。
誕生日当日、彼女のバイトの終わる時間に合わせてバイト先のカフェに迎えに行く。
少し前まで料理が出来るようになりたいと、居酒屋のキッチンでバイトしていた彼女だが、そのバイトが原因で浮気をされたのだと言う。よくよく聞けば、そのバイトを勧めてくれたのが紅野だとか。嫌な想像しかうかばない。まさか、慶太を寝取る為にバイト勧めた訳じゃないよな?
「あれ?狭山じゃん。」
「ねぇ、狭山くんも一緒に花純のサプライズバースデーパーティー、一緒にしようよ?」
絶句。ただただ絶句。突っ込みどころ満載すぎる。とりあえず、どうしてお前らここにいる?花純のサプライズパーティー?は?意味が分からないんですけど。
「お店に確認したら、1人追加OKだって♬」
「よし、決定な。本当はさ、遊園地誘ったんだけど、バイトだからって断られて。じゃあサプライズにしようってカンナと相談したんだ。」
いや、その遊園地の話知ってるし。3人で遊園地とか意味がわからん!ってあいつ怒ってたし。そのサプライズパーティーとやらにいつの間にか俺も参加する事になってるし…。
気が付けば白井も合流して絶句してるし…。
周りが見えてないこいつら、恐ろしい。何でバイト終わる時間知ってるんだよ…。
無理に作った引きつり気味の笑顔。もちろん目は笑っていないどころか死んでいる。
座り心地の悪い椅子。目がチカチカして疲れる程、ポップな内装。ビジュアル重視の料理と、甘ったるい奇抜な色のドリンク。デザートのバースデーケーキに刺さった花火と、テンションの高い店員。そして、人目もはばからずイチャイチャする目の前の2人。
どうにも居心地が悪い上、元々大して美味くない飯が余計に不味くなる。
今日の為に事前準備をしていた訳ではないが、楽しみにしていた映画も見ることが出来ず、美味い飯を食べるつもりが、こんな味気ないものになってしまった。彼女を喜ばせたくて、笑って欲しくて約束をしていたのに、これでは本末転倒だ。
慶太達にとってはサプライズかもしれないが、俺と彼女にとっては嫌がらせか拷問としか思えない90分間。
ようやく解放された彼女の顔からは疲労の色しか伺えない。
HPが限りなくゼロに近いのだと言う彼女。奇遇だな、俺もそんな感じだ。もうこれはテンションを無理矢理上げるしかない。ついでにフラグを…立ててしまおうか?
「これからうちでライブDVDでも見るか?」
「…マジで?いいの?」
「もちろん。白井の場合、それがHPもMPも手っ取り早く回復出来る方法だろ?」
「見る!!絶対見る!!私が持ってないやつ見たい!!!」
「ついでに誕生日も祝い直してやるよ。」
どさくさに紛れてちょっとそれらしい雰囲気を演出してみよう、そう思ってバースデーケーキとシャンパン…と、言いたいところだが、学生には高過ぎるのでリーズナブルで飲みやすい、甘口のスパークリングワインを買う。安価でもスパークリングワイン。コップじゃ味気ない。通り道にある100円ショップでワイングラスを2つ買う。学生である自分の身の丈に合ったスパークリングとグラス。それでもなんとなく雰囲気は出るはず。少しドキドキしながら帰宅。
…っておい、とんだフラグクラッシャーだな。
キッチンでケーキを食べるための皿やフォークを用意して部屋に戻ると、テーブルの上にはスナック菓子とビールが並べられていて、おかしな格好で待機している彼女がいた。
そのドヤ顔は何だ…「本日の主役」ってタスキ、自分で買ってかけるとか普通しないから。それ、無理やりつけさせられるヤツだから。それ以上にその鼻付きの眼鏡なんだよ?いつの時代のパーティーグッズだよ!?
雰囲気もへったくれもない…。俺のドキドキを返せ!!
「…その格好はナシだろ?」
「うるさい!今の私は馬鹿な事してテンション上げたい気分なんじゃー!!」
「ライブDVD見るならその格好はナシだって言ってんだろ?…これに着替えろ!」
「さっすが狭山、気が利く~!ついでにタオルも貸して!!」
彼女にそういう雰囲気を望んだ俺が馬鹿だった。純粋に共通の趣味を楽しむことにする。
彼女に渡したのはこれから見るDVDのツアーグッズのTシャツとタオル。自分も同じツアーのデザイン違いのTシャツに着替える。
おい、目の前で着替えるな!キャミソール着てるから脱いでも平気とか…俺は平気じゃないから!さっきドキドキを返せと言ったけど、そういうのは求めてない!!
結局朝まで2人で過ごしたが、俺と彼女の間に何かが起こるはずもなく。夜通しDVD鑑賞を楽しみ、強いて言えば、「本来の意味での壁ドン」を隣人にされたくらい。夜中に騒いで、煩いとの意味を込めて壁をドンドン叩かれるってヤツな。
***
付き合っているフリをする、と言って何もしないまま時間だけが過ぎた。そろそろ慶太が浮気を告白し、彼女と別れて3か月が経つ。
あいつは彼女が気になるらしく、俺に彼女の事を聞いてくるようになった。避けられているような気がするとか、自分と紅野について何か言っていなかったか?とか。明言はしなかったが、どうやら紅野とは上手くいっていないようだ。遠まわしではあるが、紅野に対する不満をこぼしていたように思う。
そんなことがしばらく続いたある日。学校帰りに意外な人物に声をかけられた。
「狭山くんっ、ちょっと話、良いかな?」
少し首を傾け、俺の顔を覗き込むような上目遣い。背筋がゾッとする。
正直、苦手な紅野と話したくなどないが、この際だから色々聞いてやろうと思った。それに慶太の様子も気になる。
紅野に了承した旨を伝えると、昼食を取りながら話をする事を提案されたので、それに従う。てっきり、彼女の誕生日の様なカフェに行きたがるのかと思いきや、紅野が選んだのは駅前の居酒屋でのランチだった。
「狭山くんに相談したくて。前みたいなお店好きじゃないでしょう?周りも気になるし…ゆっくり話したいなぁって思って個室のあるここにしたんんけど…良かったかな?」
思考を読まれたみたいで居心地が悪い。つい顔に出てしまっていた様だ。
「で、話って何?」
「狭山くんって意外とせっかち?」
フフフ…とわざとらしく笑う紅野。せっかちも何も、苦手なやつと無駄な話はしたくないだけだ。
「あのね、慶太くんの事なの…。慶太くん、最近やたらイライラしてる事が多くって…それにね、やっぱり花純が好きみたい…最近、なんだか私に冷たいの…。」
涙目でそう訴える紅野に、内心ため息を吐く。
「2人でいてもね、花純の話ばかりなの。だから、辛かった…。それで私、自分がどうすべきか考えたの。もし、花純が慶太くんを好きなら、私は身を引くべきなんじゃないかって思った。花純を見ていたらね、花純も慶太くんの事が今も好きなんだって気付いたの。最近、花純が私を避けているんだけど...それは、慶太くんと私が一緒にいる所を見るのが辛いからだと思うの…。」
いやいや、彼女から慶太を奪っておいて何を言ってるんだ。そもそも、どんな経緯であれ、紅野と慶太が関係を持たなければ済んだ話だ。彼女の事をずっと「親友」呼ばわりしていたくせに裏切っておいて、辛いだの言われても白々しいだけ。
「気付いたのはそれだけじゃなくて…自分本当の気持ちにも気付いたの。慶太くんも、私も、あの頃はお互い淋しかっただけなの。花純が忙しくて、私も慶太くんも、花純とあまり一緒に遊べなかったから…淋しさを共有して、親近感が生まれてしまって…一時的な気の迷いだったの。花純を見ていたら…って言ったでしょう?だけどね、いつの間にか、私が目で追っていたのは花純じゃなかった。花純と仲の良い、狭山くんを見てしまう私がいたの。私…狭山くんが好きだって…気付いたの。」
いつもにも増して、言動が嘘くさい。しかもいつの間にやら向かいに座っていた筈の紅野が俺の隣にいる。
「慶太と白井が思い合ってるから身を引くって?客観的に聞いたら、自分が心変わりしたのを正当化しようとしている様にしか聞こえない。」
「そうかもしれないけど…純粋に花純には幸せになって欲しいと思ってる…これは本心だから…」
「本心?へぇ…そうなんだ。」
「それに、本当に狭山くんが好きなの!」
冷ややかな視線を向ければ、紅野の目から一筋の涙が流れていた。だが俺はその手には乗らない。
「俺が好きってのもきっと気の迷いだと思うけど?」
「…なんだか悲しいな。好きな人に、気持ちが伝わらないなんて…。」
「伝わるわけないじゃん。そんな嘘。もっと自分に正直になった方が楽だと思うけど?」
「嘘じゃないのに…私、本当に狭山くんが好きなのに…。花純にも慶太くんと幸せになってもらいたいのに…狭山くん…酷いよ…。」
よくもまぁ心にも無い事を次から次へと言えるものだ。万が一これが本心ならば、尚更、彼女の人間性を疑ってしまうがな。
「俺と白井、いや俺と花純が付き合ってるって…紅野、知ってるよな?」
「…何の話?」
「俺と花純が付き合ってるのを知ってるくせに、慶太と花純の為に身を引くって?」
「だって、花純の気持ちは…」
「花純の気持ちを考えるなら、今までの紅野と慶太の言動はデリカシーがなさ過ぎる。とりあえず、慶太を寝取った事、反省しろ。」
散々彼女を傷付けておいて、彼女の気持ちを心配するなど、今更過ぎて笑える。
「寝取ったなんて言い方、やめて!」
『寝取った』という言い回しが癇に障ったのか、紅野の語気が強くなる。だが、俺は引かない。
「そうだったな。俺と花純の浮気が原因で、慶太は花純と別れたんだもんな。傷付いた慶太を紅野が慰めたのがキッカケで付き合い始めたんだっけ?それじゃあ紅野が慶太を寝取ったってのはおかしいか。」
紅野の顔色が変わる。強気の姿勢は変わらないが、焦点が定まらないと言うか、目が泳ぎだした。
「…一体何の事?」
「慶太と別れて即、花純は浮気相手の俺と付き合い始めた。傷心の慶太を慰めてるうち、お互い惹かれあって…それで紅野が慶太に告白されて付き合い始めたって設定だったんだろ?紅野が、そう話してたって聞いたけど?」
「…デタラメ言わないで!そんな事、誰に言うって言うのよ?」
「紅野の元彼と言うべきか、現在進行形で関係を持っていると言うべきか、割り切った関係のお友達?」
「………………………」
「あれ?名前出さなきゃわからない?…龍太だけど?」
俺が龍太の名前を出すと、紅野はいよいよ諦めたのか、ケタケタと笑い出した。
「…何であんたがそこと繋がってるのよ?」
急に口調まで変わった紅野は少し意外であったが、驚くほどでもない。
「龍太は俺の従兄。あいつ、昔からクズだからな。女関係だらしない上に下世話な話とかが好きで。俺と紅野が顔見知りだって知った途端、知りたくもない事を色々聞かされるわけ。」
俺が冷めた恋愛観を持つ様になったきっかけを作ったのは、姉だけでなく、龍太の影響も大きい。俺にとって、龍太は恋愛面における反面教師なのだ。
「一体、紅野は何がしたい?花純が傷付くのを楽しんでるのか?紅野にとっての『親友』とは何だ?」
「別に何がしたいって…花純の気を惹きたいだけよ?別に花純を傷付けたい訳じゃない。花純の私に対する関心が段々希薄になってきてるのが面白くないだけ。知ってる?好きの反対は嫌いじゃなくて無関心だって。私、花純に好かれようとすればするほど上手くいかないの。だから、もういっそ嫌われる様な事したら、私に興味を持ってくれるんじゃないかと思って。」
その理論、意味がわからない。理解しようがない。
以前から彼女に執着する傾向にあったのは確かだ。それがいつの間にか歪み、執着が狂気へと変わりつつある。
「あんたじゃなかったら、上手くいった筈なのに…何で、花純は私じゃなくてあんたを選ぶの?私のどこがあんたより劣っているの?」
「紅野…もしかして…」
「言っておくけど、私が花純を好きなのはあくまで親友としてよ?そっちの気は無いから。花純が初めてだったのよ、私とちゃんと向き合ってくれた『友達』って。なのに…何で花純は私を避けるの?何で段々距離を置く様になったの?慶太のせい?慶太の存在が邪魔だったのよ。邪魔だったから花純から取り上げたの。だけど、上手くいかなかった。あんたがいたからね。だから、今度は花純からあんたを取り上げようと思ったの…あんたも慶太みたいにバカだったら良かったのに…。あんたにバレたら花純が知ってしまったも同然。花純に合わせる顔がないじゃない!もうどうしてくれんのよ!?」
紅野はそう吐き捨てると、物凄い形相で去って行った。
俺は、驚愕と戦慄でしばらくそこから動く事が出来ずにいた…。
***
あの話が本当ならば、紅野にとって慶太と一緒に過ごすメリットはもう無い筈だ。
紅野が慶太から離れてしまえば、きっと慶太の意識は彼女へ向けられるだろう。
俺の役割は目的を達成させるために慶太の嫉妬心を煽る事。
さて、どうしてくれようか。生憎、俺も彼女も人前でイチャイチャする事に抵抗がある。そんな事を考えていた時だった。
「月末って狭山の誕生日じゃん、私の誕生日はお世話になったし…なんかプレゼントあげるよ。何が良い?」
彼女の質問に、以前俺が同じ様な質問をした時の彼女の回答を思い出した。
「マジで?じゃあそれが良い。」
そう言って彼女の腕に着けられた腕時計を指差す。一瞬渋ったが、俺の物と交換で貸し借りする事で話はまとまった。
慶太が見たら、俺との彼女の時計が入れ替わっている事に気付くはず。あいつは腕時計が好きで、色々集めているし、俺の時計も彼女の時計もデザインが好みだと何度も言っていたし、俺も彼女も譲って欲しいと言われて断っている。
だからきっと、かなりの効果を期待できる…。
だが、彼女の時計が俺の腕に、俺の時計が彼女の腕に、こんなにもしっくりくるのは想定外だ。
あまり時間をかけては、俺が後戻り出来なくなってしまう。
「そろそろ…ラストスパートかけようか。」
「ラストスパート?」
「あぁ、作戦も終盤戦…だろ?」
慶太には出来るだけ早く、ヨリを戻してもらわなくては。
この日以来、彼女と一緒に過ごす時間が増えた。彼女の隣は居心地が良い。この居心地の良さに慣れてしまってはいけない。
今の彼女との関係は、あくまで目的を果たすための偽りのものであって、彼女の気持ちは別のところにあるのだと言い聞かせる。
慶太は、明らかに俺を避けている。避けているのだが、やたらと目が合う。目が合えば即座にそらされ、踵を返し、姿を消すのだ。
勿論、慶太の隣に紅野は居ない。紅野の本心を知ったあの日以降、数日のうちは紅野を見かけはしたが、ここ最近は全く姿を見せない。
彼女はそんな紅野を気にしているようだった。一緒になるはずの講義では講堂内を気にしていたし、度々紅野を探す様な素振りが見受けられた。
彼女は、俺と紅野のやり取りを知らない。今は知るべきではない。そんな気がしていた。
***
「狭山、おめでと!」
今日は俺の誕生日。彼女は何て楽しそうなんだろう。確かに、彼女のテンションが上がる様に仕向けたのは俺だ。
俺と彼女が好きなアーティストのVHSを見ないかと誘った。VHSと言っても、DVDにコピーしたものだ。
要するに、それで彼女を釣った。共通の趣味を口実に、今までも散々約束をこじつけてきたわけだが、今回はやけに後ろめたい。
もし、共通の趣味が無かったら。
もし、彼女が慶太と付き合っていなければ、今の彼女と俺の関係性はどんなものだったのだろう。
きっと、共通の趣味などなくとも、俺は彼女に惹かれていただろう。
彼女の事が好き過すぎて、大切すぎて、この関係を壊すのが怖くて、告白なんて出来ない、俺はそんな小心者で情けない男だ。
慶太が浮気さえしなければ…。俺はあいつを認めていたし、彼女があいつを好きなら、2人にはずっと上手くいって欲しいと思っていた。
小心者で情けない男には、釣り合わないと分かっていたのに。
手に入れたいと思ってしまい、気を惹きたくて必死になった結果、自己嫌悪に陥っている。
そんな時、目に飛び込んできたのは、少し離れたところからこちらを見つめる慶太の姿だった。
慶太とは目が合いそうで合わない。そう、慶太が見ているのは俺じゃなくて、彼女なのだ。
何か言いたげな表情で近づく慶太。気が付けば、俺は咄嗟に彼女の手を握っていた。
慶太とようやく目が合った。すると、怯んだ表情を見せ、再び俺たちと距離を取った。
「…狭山?急にどうした?」
「えっ!?別に深い意味は無い…」
「そういえばラストスパートかけようって言ってたもんね。」
そんな笑顔を向けられては、勘違いしてしまいそうだ。
やたらと機嫌の良い彼女の姿が、俺を複雑な気持ちにさせる。
「本当は後で渡そうと思ったんだけど、DVDが楽しみ過ぎて…狭山んち行ってからだと渡すの忘れそうだから今渡すよ。はい、これ誕生日プレゼントって言うか、日頃のお礼って言うか…ネクタイなんだけど。これから必要でしょ?とりあえず使ってもらえたら嬉しい。」
そう言って彼女が鞄から取り出したのは、綺麗に包装された薄くて長細い箱だった。
「開けて…良い?」
「うん、開けて!狭山が好きそうなの選んでみた。」
彼女はセンスが良いというか、俺と好みが似ている。
「俺の好みどストライク。これ、就活に使う。すげぇ使い勝手良さそう。ありがとう。」
彼女が俺の為に選んでくれた。それだけで嬉しくて顔が綻ぶ。
きっと深い意味はないはずだ。
これからやってくる就活で使えるだろう、ただ、それだけ。そこにあるのは、友人としての彼女からの好意なのだと自分に言い聞かせる。
「わーい、狭山が喜んでくれたー!狭山ってさ、欲しいもんすぐに自力で手に入れちゃうタイプじゃん?だから喜んでもらえて嬉しいよ。」
無邪気に喜ぶ姿に、安心する俺と嫉妬する俺がいた。彼女の反応は友人としての好意だ。慶太に対する反応とは違う。
でも、それで良いのだ。いや、本来はそうあるべきなのだ。
繋いだ左手が熱を帯びる。その熱が、全身に伝わる。
きっと今日が正念場だ。慶太を煽れるだけ煽る。そうすれば、彼女を取り戻そうと躍起になるだろう。
混雑した電車では身を寄せ、電車から降りたらすぐ手を繋ぐ。こうして手を繋ぐのは今日だけにしよう。今日だけは、勘違いさせて欲しい。
今までも幾度となく、2人で居酒屋で飲んだ。なのに、今日はいつもと違う。いつも以上に何を食べても美味いし、楽しい。それに酔いが回るのが早い。
ホロ酔い気分で店を出る。上機嫌な彼女の手は俺の手としっかり繋いで。…今日だけは、慶太の元へ行ってしまわぬように。
彼女は俺の為にケーキを予約してくれていたらしい。嬉しい。期待してはいけないのはわかっているけれど、ホロ酔いなのも相まって、フワフワしたような浮かれた気分になってしまう。夢見心地とは、きっとこんな気分なのだと実感する。
そう、これは夢だから。
夢から現実に引き戻されるなんて一瞬なのだ。
俺は気付いていた。慶太がずっとつけて来ている事も、何度か俺達に声をかけようとして躊躇っている事も。
あいつが声をかけようとする度、俺は牽制し、煽った。悔しがれば良い。浮気した事を後悔すれば良い。目の前で、自分の元恋人が自分の友人とイチャつく事が如何に気分が悪いのか思い知れば良い。
今まで、慶太が彼女にしてきた事がどんな事なのか身を以て体験しろ。
すっかり日も落ちた公園。冬の足音の聞こえるこの時期は空気も澄んでおり、雲ひとつない空にはチラホラと星も見える。今日は満月。月明かりに照らされて、申し分のないシチュエーション。
慶太の姿を再度確認した俺は、はしゃぐ彼女を引き寄せ抱き締めた。
鼓動は大きく、早くなる。それを悟られぬよう平然を装うが、上手く隠せているだろうか?
気の利いた台詞が言えたら、どんなに良いだろう。
自分の本当の気持ちを伝えられたら、どんなに良いだろう。
俺の気持ちを押し付けたら、彼女が困るだけ。
男女間の友情を成立させる為には、好きになっても思いを伝えてはいけない事を改めて知る。
自分の気持ちを殺してでも、彼女との友情は壊したくない。
「ごめん、ちょっと我慢して。慶太が…さっきからずっとつけてきてる。」
俺が口にした言葉は、我ながらズルいと思う。自分の欲望を満たすのに、慶太を煽るためだと彼女に言い訳しているのだから。
慶太は、いつの間にか姿を消していた。
***
「狭山、お前…本気なのか?」
背後から聞き覚えのある声がする。振り向くと、慶太がそこに居た。
「慶太には関係無いだろ?」
慶太の前で彼女を抱き締めてから優に1時間は過ぎている。
あれから俺の部屋へ行き、慶太の話になり、どうも俺と彼女との間には微妙な空気が流れてしまった。
結果、DVDもまともに鑑賞出来ないまま、彼女が帰ると言い出した。送っていくと言っても、1人で帰ると言い張るので仕方なく大通りまで出て、タクシーを拾って乗せ、見送り家に帰る途中、こうして慶太に声をかけられた。
「狭山、俺の質問に答えろ。花純の事、本気なのかって聞いてるんだ!」
全く馬鹿げでいる。あまりに馬鹿馬鹿しくて、失笑せずにはいられない。
「本気かって?浮気した慶太に言われたくねーな。」
次の瞬間、左頬に鈍い痛みが走り、鉄の味が口の中に広がる。
「狭山、お前って最低だな。」
「…最低か、確かに最低かもな。だけど、慶太だって大差無いだろ?」
もう、どうにかしてしまったみたいだ。おかしくて堪らない。笑いがこみ上げてくる。
そうだ、俺は最低だ。彼女の気持を知りながら、それを利用した。彼女の為だという建前で、彼女を利用した。自分が傷付くことも、慶太を怒らせる事も想定済みだ。
「俺が馬鹿だった。花純を裏切った事、後悔している。だから、俺はもう一度花純とやり直したいと思っている。…狭山みたいに中途半端な気持ちじゃない。だから、お前には渡さない。」
「…確かに俺は中途半端だな。」
自分の気持ちを伝えられないくせに、側には居たいと思う。中途半端で我が儘だというのは自分が1番よく分かっている。
もう笑うしかない。笑ってごまかすしかない。涙がこぼれそうだから、必死で笑う。
「慶太と違って中途半端で悪かったな。」
俺は、そう吐き捨てて、逃げるように慶太の前から立ち去った。
慶太が何か言っていたが、耳に入らない。涙を堪えるために笑っていた。堪えるために笑っていた筈なのに、気付けば笑いながら泣いていた。
自宅のドアを閉め、鍵をかけると、もう笑う事すら出来なくなっていた。
これで良い。
このままなら、きっと上手くいくはず。
これが自分の、そして彼女の望んでいた結末なのだから。
***
想像していた以上に、ダメージは大きかったらしい。
この1週間、何度「こんな筈じゃなかった」と思った事だろう。
彼女と会うのが怖くて、気持ちの整理をつけたくて、1人でフラフラ旅に出た。
所謂、傷心旅行というやつだ。
綺麗な景色を見ても、旨いものを食べても、彼女の顔が浮かんでくる。彼女の声が聞こえてくる。
忘れたいのに、忘れられない。
あまりにも彼女からの着信やメールが多いので、イベントスタッフの派遣のバイトで遠出していると嘘のメールを送り、スマホの電源を落とした。
それでも頭から離れない、俺に向けられた笑顔。抱きしめた時の腕の感覚も、手の温かさも、はっきり覚えている。
もう、彼女は慶太の腕の中にいる筈なのに。
返さなくてはいけないと分かっていても、今も俺は左手首に彼女の腕時計を着けている。
『女々しい』とは、男の為にある言葉だと誰かが言っていたが、まさに今の俺がそうだ。
未練がましいにも程がある。
次に彼女に会ったら、彼女の腕時計を返して、俺の腕時計を返してもらおう。そして、返ってきた腕時計は、完全に吹っ切れるまで、しばらく封印しておこう。
当てもなく出かけた旅行だったが、1週間という期間を決めていた。いつまでもフラフラしているわけにはいかない。本業は学生だし、課題の提出もある。
夜行バスを降り、始発電車を待って帰宅した。殆ど眠っていない筈なのに、目が冴えて眠れない。
部屋はあの日、彼女が帰った直後のまま。もう少し、片付けてから出るべきだったかもしれない。
部屋に入って、まず目に飛び込んできたのは彼女からもらったプレゼントだった。
何か飲もうとキッチンへ行けば、潰れたケーキの箱が嫌でも視界に入る。そして、洗って水切りカゴに立ててある皿、フォーク、マグカップがそれぞれ2つずつ。
あの日、微妙な空気の中、2人でケーキを食べた。そして、食器を洗ってくれたのは彼女だった。
ミネラルウォーターかお茶を取り出すつもりで開けた筈の冷蔵庫。取り出したのは缶ビール。正確にはビールではないが、細かい事はどうでも良い。喉が渇いていた事もあり、あっという間に空になる。もう1本、そして更にもう1本。ビールが無くなったので、酎ハイを開ける。酔いが回ったせいか暑い。
そういやコートを着たままだった。コートを脱ぎ、着替える。今日は1日寝て過ごす事になるだろう。楽な服装が良い。
良い感じに睡魔がやってきたので、ベッドに潜り込む。片付けは起きてからしよう。片付け、と言っても空き缶を回収するだけだ。
***
インターホンが鳴っている。カーテンの隙間から差す日の光は茜色。
どうやら、昨日バスに乗る前に宅配便で出したスーツケースが届いたらしい。
重たい身体を無理やり動かし、印鑑を手に玄関へ向かう。
今朝は少し飲みすぎたかもしれない。目が上手く開かない。頭も痛いし、胃がキリキリする。
鍵を開け、ドアを開いた俺は固まってしまう。
「……は?なんで…お前?宅配便じゃないのかよ?」
1番会いたくない人間がそこには居た。
この1週間、俺を苦しめた元凶でもあり、忘れたくても忘れられない、思いを伝えたくても伝えられない相手、白井 花純。
「狭山、いつもと…顔違う。」
呆然と立つ彼女に、悪態をつく。
「…うるせー。何の用だよ?」
「狭山に報告と…言わなきゃいけない事があって。」
「慶太とヨリ戻せたんだろ?良かったな。…俺、夜行バスで今朝帰ってきたとこで寝たいから…じゃ、おやすみ。」
ドアを閉めようとするが、彼女はひかない。彼女が俺に報告する事なんて見当はつく。
悪いが今は聞きたくない。聞いたら間違いなく泣く。彼女にだけはそんな姿見られたくない。
「ちょっと待て!ちゃんと人の話を聞けー!」
「俺は話したくない!寝る!」
「じゃあ中に入れろー!寝ながらでも良いから聞けー!」
「お前の惚気話なんか聞きたくねーよ!」
必死に抵抗するも、二日酔いでは思うように力が入らない。どうにか追い返そうにも、彼女は聞く耳を持たない。
膠着状態が続く攻防戦だったが、第三者の登場によって俺が破れる事になる。
「あの…狭山さんにお荷物…です。印鑑かサイン…お願いします。」
取り敢えず荷物を受け取る。マジで気まずい。宅配業者の人は苦笑し、そそくさと逃げる様に帰っていった。きっと痴話喧嘩中だと思われた事だろう。
彼女の侵入を許してしまった。このまま何処かへ逃げようにも、流石にこの時期、しかも夕方に半袖のTシャツ1枚は無理だ。あいにく財布も携帯も部屋の中。仕方ないので、部屋に戻る。もう布団でもかぶって狸寝入りする以外、この状況をやり過ごす方法が思いつかない。
部屋に戻ると、彼女はベッドに腰掛けていた。これでは狸寝入りすらさせてもらえそうにない。早々と追い返すしか方法はなさそうだ。
「おい、勝手に入るな…。慶太にやり直したいって言われたんだろ?良かったじゃん、だからもう帰れよ。」
「…良くないし、ちゃんと話聞いてもらうまで帰らない。」
「俺は話す事ないんだけど。」
「良いから聞けー!」
「惚気話なんて聞きたくねーよ!」
「狭山のバカ!バカバカ!」
「なんだよ、人の気も知らねーで!」
「狭山だって私の気持ち知らないくせに…。ずっとモヤモヤしてたんだよ、なんか苦しいし。」
「分かりたくもないね!自分の友達と浮気した男とヨリを戻したい女の気持ちなんてさ。」
お互い、勢い任せで暴言を吐いていた。俺が冷静になるべきだと分かっていても、冷静になどなれない。なかなかひどい事を言っている自覚はある。だが、聞きたくない。
彼女の口から、慶太が好きだとか、ヨリを戻したとか、そんな事は聞きたくない。
「そんなん分からなくて良い!私が知って欲しいのは…私が好きなのは、慶太じゃないってこと!…やっと気付いたんだよ、私が今本当に好きなのは狭山だって!!」
頭が真っ白になる。
彼女の言葉の意味を理解して、再び頭の中が真っ白になる。
「……なんだよ、それ。」
嬉しいはずなのに、素直に喜べない。俺は一体、何を悩んでいたんだろう。自分の馬鹿さ加減に笑いがこみ上げ、安堵で涙が溢れてきた。震えが止まらない。
夢…じゃない…よな?
「なんか俺、馬鹿じゃん。1人で傷心旅行とか行っちゃってさ。今朝だって、白井の事考えながら飲んで1人で泣いてさ…。」
「ほんと馬鹿だよ!授業サボってどっか行っちゃうんだもん。旅行に行くなら声かけてよ!寂しかったんだからね!」
花純はニッコリ笑った。その目から一筋、涙がこぼれた。キラキラ光って、彼女の笑顔をより輝かせた。
「ねぇ、傷心旅行って…私の事考えて泣いたって…どういう事?」
イタズラっぽく笑った顔も可愛らしい。その笑顔に、今まで伝えられなかった思いを簡潔に伝える。
「ずっと白井が好きだった。」
***
その日、花純と俺は、たくさん話をした。
花純に対する俺の気持ち、いつから好きだったとか、下心があって付き合っているフリをしようと持ちかけた事も打ち明け、俺が紅野を好きだと思っていた誤解も無事に解けた。
俺と紅野の間にあった会話も、掻い摘んで話した。
紅野は花純の気を引きたかったらしいと伝えると、彼女は呆れたように笑った。
「カンナ、ハッキリ言ってくれたら良かったのに…カンナと腹を割って話したい。言いたいけど言えなかった事、私もたくさんあるし。それで今後の付き合い方を決めるよ。」
やっぱり花純はお人好しだ。大抵の人は、話し合う事はせず、スッパリ切り捨てるだろう。勿論、俺もそのタイプだ。
これが彼女の長所でもあり、欠点でもある。これからは、俺がそんな彼女を支えていく。欠点は俺が補えばいい。
後日、慶太にも諸々打ち明けた。慶太は俺に殴った事を謝り、俺も挑発した事を謝った。
「ねー、狭山。ほら、私が慶太にフラれてさ、付き合ったフリしようって提案した時。『隣の芝生は青くみえる』って事で『青芝作戦』って言ってたじゃん?私と慶太が付き合ってる時、狭山の目から見て、隣の芝生は青かった?」
「…青くない。隣の芝生は青くない。」
「…え?それって、どういう事?前から好きだったって言ってくれたじゃん?」
「…前から好きだったって言ったからって調子に乗るなっつーの。慶太の彼女だったから好きになったわけじゃねーって事だよ、バーカ。」
「狭山、マジか!?」
「マジか!?じゃねーだろ?花純だから好きになった…って恥ずかしい事言わせるな!」
「良いじゃん、狭山は全然惚気てくれないんだもん。恋人兼親友なんだからさぁ…たまには惚気て欲しい!」
男女間の友情は成立する。例え恋人になっても間違いなく成立する。それが俺と彼女の見解だ。