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僕と二条

 翌朝は、いつもよりも早く家を出た。

 昨晩中はどうにも寝つけず、輾転反側てんてんはんそくしながら眠っているのか眠っていないのか自分でもよく判らない状態が朝まで続き、結果この時刻と相成ったわけである。残暑が朝のうちだけでもすっかり無くなった時期で、ほんのひと月前に比べてみれば、なかなか歩みは爽やかなものだった。

 しかし、元来が早起きでもなく、そもそも昨夜はしっかり睡眠をとった気がしない僕は、歩いている途中で眠気を感じ始めた。

 これはほぼ間違いなく授業中に寝るな……、一向に構わないけど。

 そんな覚悟を勝手に決めて、最終手段《歩きながら寝る》を発動しかけたときだった。

 前方、視線の先、視界の奥に、見覚えのある後姿があった。背中を隠す長い黒髪、制服姿。それが誰だか判った途端、僕は瞬く間に覚醒した。

 歩くペースはそれほど速くなかった。ちょっと速歩きすれば、すぐに追いつけると思った。

 雨上がりで少し水溜りの残る路に注意しながら後姿に追いついた。心なしか湿っぽい町の匂いが、どこか甘い香りに変わっていく気がした。

「おはよう」

 僕は、二条比呂の横顔に挨拶した。彼女にとってみれば突然のことだったろうに、二条は驚いた顔一つ見せなかった。一呼吸置いて、

「おはよう」

と彼女も返した。

「いつもこの時間なの?」

「うん」

「早いね。僕にはこんな時間続けられそうにないな」

「そんなこと――、むしろ中村君はどうしてこの時間なの? いつも私より後から来てるのに」

「大した理由は無いけど……」

 実際、大した理由は無いのだけれど、少し意味深長な雰囲気を出してみた。しかし、二条はそれに気付いてか気付かずか、特別食いつくこともなく、ただ「そう」と言っただけだった。

 それより、僕は彼女が僕の登校時刻のおおよそを覚えていたことが内心意外だった。昨日まで名前すらまともに覚えていなかったのである。

 まあこれについては、僕と彼女とが隣同士であるから嫌でも刷り込まれるとかなんとかそんな風に説明できる。僕自身、そのいずれかなのだろう、と思った。

 それでも、彼女の視界に自分が今まで存在していたのだと思うと、何となく嬉しいような心持がした。彼女は僕らのこの世界には一瞥もくれていないと思っていたからだ。

「昨日はありがとう」

 二条は改めて礼を言ってきた。僕は、あー、いいっていいって、と、さして気にも留めていない風で返辞した。

「そういえば中村君とちゃんと話したのって、昨日が初めてだったよね」

「ん? ああ、まあそうだね」

 彼女が唐突にそんな話をしてきて、こちらはあまりに準備不足だったので、かなり素っ気ない反応をしてしまった。何だか悪い気がした。

「なんか、隣の席なのに昨日が初めてなんて勿体無いことしたなあって感じ」

 彼女のこの言葉に、またもや存外な思いがした。今までの彼女の態度に、僕との交流無き日々を惜しんでいるような印象をまるで受けたことが無かったからだ。むしろ彼女は僕を居ないものと考えていたのでは、という結論にさえ至りそうだった。それというのも、

「あれ、おかしいなあ? 僕の名前も憶えてなかった筈じゃ……」

「え? あ、そうだっけ?」

 二条は慌てた様子。大方僕に要らぬ社交辞令を言ったつもりが、痛いところを突かれてばつが悪いのだろう。

 それは別にいいんだけど。自分で言うのもなんだが、温厚なのは僕の長所に数えられて然るべき性質だ。直ぐにそうと判るお世辞を言われたところで、怒るような僕ではない。彼女なりの厚意を無碍にするのもよろしくはないだろう。

「まあ、僕も二条と話せて良かったな。余計なお世話かもしれないけど、なんとなくクラスに溶け込めてない気がしてさ、隣近所の身としては、結構心配だったんだよね」

 些か失礼なことを言ってしまっている気がするが、僕はあえてそっち方向に言葉を選んだ。これで嫌われてしまったなら仕方のないことだし、好かれることはないだろうが、悪感情を持たれなければ親密になるチャンスも近付くことだろう。

 二条の方はといえば、「うん……」と少し呼吸を置いてから、

「私、人見知りだから……、それになんだか、人に親切にされると申し訳ないっていうか」

「だから素っ気なくなる?」

「うん」

 道理であんな態度だったのか、と合点がいく。

 昨日の雨の中、彼女は独り、せめて知った顔が通りかかるのを待っていたのだろうか。偶然やって来た僕と、精一杯の勇気を出して会話したのだろうか。申し訳なさに押し潰されそうになりながら、僕の傘に入ってきたのだろうか。

 そう思うと、なんでそんなに、と感じると共に、何故だか急に彼女のことが愛おしくなってきた。柄にもなく、彼女のことを守りたいという気持ちになってきたのである。

 そうなったらなったで、今度は僕の方が彼女と話しづらくなってしまった。口を開こうにも、一歩罷り間違えば、あることないこと、今はまだ言うべきでないことまで勢い言ってしまうのではないか、という危惧があったのだ。

「――どうしたの、中村君?」

 二条に言われて、僕はそこでようやく、僕が彼女を見つめ続けていたことと、駅がすぐそこまで迫っていたことに気付いた。

 時と現在位置と自分がしていることがいっぺんに分らなくなってしまったらしい。

「ん、いや、なんでもない」

 僕はあくまで平静を装った。自分でも白々しさを感じたが、それはなるべく気にしないように努めた。

 僕らの使う路線は通勤や通学の為にはニーズがややニッチなので、朝のこういった時間帯でも、すし詰めというほど乗客数は多くない。一人ひとりの立つ身体同士に十分隙間はできるのだ。勿論息苦しさも無いので、会話は難なくできる。

 だが、僕は電車に乗り込んでから、彼女と言葉を交わせなかった。

 さいぜん起った感情が何なのか、それが突然気になりだしてどうしようもなくなった。少なくとも僕が生きてきた中で、殆んど覚えたことのないものだった。最後に誰かにこんな気持ちを抱いたのはいつだったか、中学時代は――ない。小学生の頃にまで遡ってしまうと、途轍とてつもなく記憶が曖昧になるので、最早明言はできない。果して小学生程度の年代の子が、他人にそんな気持ちを抱くものだろうか、と考えると、僕としてはそんな筈はないだろう、と思う。

 だからこれは、全く初めての感情なのではないか。

 ――などと冷静に自己分析をしたつもりになってみたが、やはり心は平静に戻らなかった。

 それどころか、乗車前から突然喋らなくなった僕を心配してか訝しんでか、

「本当にどうしたの? 大丈夫? 具合悪い?」

と言いながら、こともあろうに二条は、僕の顔を隣から覗き込んできたのだ。これは僕としてはいささか不味いことであった。

 今彼女の顔なんか見たら、もっと心を掻き乱されてしまうと思った。一旦落ち着きたいのだが、しかし彼女といると落ち着けない、そんな負の連鎖の中に陥れられてしまった。

「ん、まあ、うん」

 自分が明らかに挙動不審な態度をとっているというのが、はっきりと自覚できた。そろそろ、まともな振る舞いをしないと、どんな顔をされるかわからない。それをわかっていながら、如何様に今の自分を修正すれば良いのかが分らないのだから、厭になった。



 そのとき、つと、電車が急ブレーキをかけた。車内は大きく揺れ、固より隙間の空いた乗客たちは、足元のバランスを失った。勿論僕たちもそれは例外ではなくて、この場合、二条が僕の方に倒れ込んでくるような形になった。

 ヤバっ。僕は声にならないくらい小さく、口の中でそう呟いた。

 二条を転ばせてはいけない、そんな風に思った。だから咄嗟とっさに体が動いたのだろう。

 気づけば、彼女の身体を僕が受け止めていた。

 受け止めた瞬間のことは覚えていない。ただ、受け止めてから、途端に腕に伝わる、彼女の肉体そのものに起因するのか、それとも衣服に起因するのか判然としないが、柔らかい感触が僕の心まで動揺させた。

 僕の腕の中の二条は身体を縮こまらせて、そして僕は僕より背の低い彼女を軽く抱いた状態で、僕の顎の下の彼女の頭を思わず見つめた。シャンプーだろうか、いい香りがする。僕は匂いフェチだったろうか。少なくとも今だけは否定し切れない。

『停止信号です。停止信号により急停車致しましたことをお詫び申し上げます』

 車掌の機械的なアナウンスが聞こえたところで、我に返る。

「ご、ごめん、大丈夫?」

 僕は彼女をやんわりと引き剥がしながら言った。何故だか自然と謝罪の言葉が出た。

 彼女の方は、

「こっちこそ――」

 ごめんね、と言ったきり、そのままさっきの位置に戻っていった。立ち位置と同じく、その素っ気なさも元に返ったようだった。

 僕も再び吊り革を掴んだが、腕には二条を受け止めた感触がまだ残っていた。

まったく僕はいったい何をやってるんだ。そもそも最初は――

 ――最初?

 そうだ。

 僕はここまでどこかに違和感を覚えてきた。

 でもそれが、何に対するものなのか、何を原因とするものなのか、明瞭には分っていなかった。

 そしてそれは、今はっきりと正体を現した。

 この違和感は、僕の気持ちによる、僕への、自分自身への違和感なのだ。

 僕は初めて彼女と会ったとき、まるでこのような感覚を抱く余地を見出し得なかった。彼女はまさに孤高という感じがしたし、僕が彼女の領域に入っていくことなど、許されない気がしたからだ。

 そして、だからこそ戸惑っているのかもしれない。

 昨日彼女が僕の傘に入ってきたとき、僕の隣を歩くという選択をしたとき、彼女と一緒に電車に乗り込んだとき彼女の方から、僕の領域へと踏み込んできた――そんな気がした。そんな気がしたから、こんな変心を起したのかもしれない。

 そう考えてからは、立ち直るのも速かった。さっきまでの得体の知れない思いはどこへやら、既に平生の自分に戻っていた。二条もいつもと変わりない、見慣れた姿を留めていた。彼女は相変らずその綺麗な貌を鈍く輝かせて、そこに立っていた。やはり僕はその輝きに心動かされることはなかった。



 降車駅に着くと、見慣れた風景がいつもとは違って見えた。

 起きる時間、家を出る時間、電車に乗る時間、電車を降りる時間、これらが少し早まるだけで、空気は随分と変わる。例えば最も顕著なのは、やはり道行く生徒の数だ。

 いつも僕が来る時間帯では、どこを向いても視界の中に同じ制服を着た生徒たちがいる。それが今日は目に見えてまばらで、まるで世界の人口が、突然一挙に減ってしまったような錯覚にさえ陥りそうだった。

 この場から見える人間模様も当然だが変容していた。いつもなら、或る人は歩き、或る人は走り、或る人は一人で、或る人は誰かと複数人で。或る人は楽しそうで、或る人は憂鬱そうで、或る人は幸せそうで、或る人は悲観的で。この時間帯には、僕のぱっと見ではあるけれど、一人で無感情な人が歩いている。

 そして。

 いつもは一人で歩く僕も、今日は複数人で歩く僕だ。複数人、といっても二人だけれど、横には二条がいた。

 僕は昨日みたいに、意識的にか無意識的にか、視界の中に滑り込ませていた。

視界の右隅の空間にいる二条は、さもどうでもよさそうに、僕が隣にいることなど一切気にしないように、通学路のあちらこちらに視線を飛ばしていた。

「結構殺風景なところでしょ?」

 僕は二条にこう言ってみた。実際駅前や近くならばデパートがあったり大きめのカラオケチェーン店があったりして、なかなか栄え賑っているのだけど、学校の方まで歩いてくると、次第にそういう所謂盛さかみたいなものはなくなって、ちょっとした住宅地の中に校舎が現れるのである。流石に“不健全”な公的施設の真っ只中に学校を置いておくわけにもいかないのだろう。

「そうかな、私はこういうところ好きだけど」

 彼女は心外だとでも言いたげな口調だった。

「いや、まあ僕もこういうとこの方が好きだけどね」

 これは本当だった。彼女とまるで違う趣味嗜好をしていると向こうで断定されるのも厭だったので、これはきっぱりと言っておきたかった。

「私ね」と僕を意に介さず彼女は言う。「大学に進むんだったら、いっそのことまるっきり郊外にあるような、殆んどイナカって言われちゃうみたいな、そういうキャンパスに行きたいなって思うんだ」

「それだと理系かな? 二条って理系……じゃないよね、勿論」

 僕らの学校は二年次から文系と理系のクラスを分けてしまう。文系の僕と同じクラスに入ってきたのだから、彼女が理系な筈がないのである。

「そっちの方が多いんだろうけど……。探せばあるよ、きっと」

 彼女はどこまでも楽観的に言った。本当に、自分で動けばそれでどうにかなる、とひたすらそう考えているみたいだった。

 僕は少し冷笑的な気持ちになった。そんな大学、はっきり言ってしまえば明らかに少数派だった。彼女の学力がどんなものかはっきりと判っているわけではなかったけれど、少なくとも僕よりかは上だと思う。怠惰な僕の学習態度と成績が見事に比例しているように、他の人たちだって同じ高校なのだから、一握りの異常者を除けばそんなものだろう。彼女だってそうだと僕は思った。

「そんなキャンパス……都外の国公立じゃなきゃ無いと思うけどなあ」

「あるって。中央大とか」

「って言っても多摩たまでしょ? イナカってほどイナカじゃないよ」

「そうかな」

「そうだよ」

 彼女は少し考えてから、

「いざとなったら、一人暮らしすればいい話だね」

 引っ越し、とは彼女は言わなかった。

 なんとなく話の内容が暗くなって来そうだ、と心配し始めたので、話題を変えることに努めようとしたところで、目の前に見慣れた校舎が見えてきた。気付けばもうこんなところまで来ていたらしい。

 正門を入って玄関まで向かう。

 靴を校内履きに履き替える僕の横で、同じく靴を履き替える二条の気配を感じた。別になんでもないことなのに、いつもだって自分の周りで屡同じ気配を感じているはずなのに、不思議と特別なことに思えた。きっとそこはかとなく感じている特異性のせいだろう、と思った。

 そこからは特別何か会話を交わすことはなかった。さっきまでの二人の間にあった空気感は、どういうわけか教室に近づくにつれて、だんだん薄れていった。それが克明に判ってはいたが、別に心苦しい思いになるわけでもなく、かといって別段居心地が良いわけでもなく、ただただ自然なこととして感じられた。

 教室に向かって階段を上りながら、僕はポロリと、

「随分遠いね。元来どこから登るのだ」

と口にした。特に意味もなく、何故かまたこのフレーズが口を突いて出たのだ。

 すると、僕の一段前を上っていた二条が、

「どこから登ったって、同じこと、でしょ?」

と無造作に答えた。

 なんとなく、本当になんとなくだが、俄かに嬉しくなってしまった。



 この日の放課後は、平生よりも遅くなってしまった。というのもそれは、僕が吹奏楽部で会計役職をになっているのが理由だった。

 会計といっても大したことはなくて、部費の集金をしたり、集計をしたり、管理をしたりするのが僕の仕事だった。そしてそれは、僕以外にもう一人会計の人がいて、その人と一緒に、つまり二人でやるのが普通だった。一人だとお金をちょろまかすような不正が起こる可能性があるというのが、その主な理由だった。しかし今日は、その人が体調不良で学校自体欠席だったのだそうで、少し気が引けたのだが、急ぎの仕事というのもあって、僕一人で残ってやることにしたのであった。

 しかし、いかんせん本来二人でやる仕事を一人でやったのだから、当然のように時間が長引いてしまった。固よりそこまで時間のかかるものでもなかったのだが、仕事をしていた吹奏楽部室から出たのは、結局昨日に比べると三十分程後だった。

 帰り支度を済ませて、のんびりと出口に向かいながら、こんなことを思う。

 誰もいない放課後の校舎には、言い知れぬ魅力を感じる。平生人に埋め尽くされる教室は空っぽで、廊下の向こうには果てしないかと錯覚するような空虚が伸びている。僕がこうして足音を拾う耳はどこにもなく、これは僕だけの足音であり、僕だけの反響なのだ、と思う。

 こんなのはたまの遅くに決まって感じること。だが今日はそれが二割三割増しだった。時刻が三十分も違うと、夕方宵の口の時間帯、外の景色は全く違ったものになる。昨日はまだ陽が沈みきっていなくて、校舎の窓から西日が突き刺すように通り抜け、廊下の壁と床の境を四角く、そこだけが異空間になったように照らしていた。しかし今は、廊下にあるのは天井からの電灯の明かりだけで、それだけでは細長い空間を照らし切れていなかった。やけに薄暗く感じる廊下からどこかしらの教室を覗き込むと、そこにはずしりと重い闇がある。目を凝らさないと、並んだ机が整然としているのか雑然としているのか、それさえもはっきりと認識できないほどだ。

 こういうのを見ると、人は一般的にそこはかとない不安感を覚えるのかもしれない。加えて今の状況。近くには誰もいなくて、僕一人だけがそこにいる。僕が勇気づけるべき人はいなくて、僕を励ましてくれる人もいない。

 僕自身、ほんの少し胸のざわつきを感じていた。しかし同時に、これは不安感等に起因するものではないということも、自分で判っていた。

 きっと僕は、この時間を楽しんでいるのだと思った。一人でこうして無為に時間を使って、光とも闇ともつかないこの時刻のこの空間を味わっているのが心地よいのだ。『一人』の心地よさなのか、今のこの『世界』の心地よさなのか、それはどちらともいえなかった。もしかしたら両方組み合わさってのこの感覚なのかもしれない。

 そして、何故だか分らないけれど、さっきの言葉と矛盾するようだけれど、隣に誰かが居て然るべきであるような気がした。居て然るべきというと仰々しい。なんというか、隣に誰かが居ることが、また一面で自然であるような気がしたのである。その相手は誰か具体的な姿を持っているようで、しかしはっきりとは心の中の光景に現れ出てはこなかった。

 とこそいえ、そんなものはただの一面の話であって、今目の前にある現実ではない。

 僕は少しその心地よさに浸り、時刻も時刻なので、すぐにその場を離れて帰宅の途に戻った。暫くはまだ余韻が残っていた。



 いつもの玄関まで降りる。ここを出てしまえば、さいぜんまでの心地よさはあっという間に消えてなくなってしまうのだろう。そう思うと、僕は心ならずも虚しくなる。だからと言って、足取りが重くなるということがあるわけでもなく、いたって体はいつも通り。習慣化した行動は、感情を全く無視して僕の体を動かした。

 一階は既に電気が殆ど消されていた。左右に伸びる廊下は外の夕闇よりも暗く、然し玄関のその位置空間だけは蛍光灯が照らしていた。

 そしてそこに、目を疑うような光景があった。

 といっても、別段大仰おおぎょうな景色が広がっていたわけではない。

 それまでこの校舎には、当直の先生と僕しかいないと思っていた。しかし、そこに、もう一人。

「――またか」

 思わずこう言ってしまった。拒絶のニュアンスはなかったし込めたつもりもないが、そう受け取られたらどうしよう、と少し不安になった。僕にこう言われた彼女はといえば、傷ついたように表情を変えるわけでもなく、ただまるで当然のごとく、

「一緒に帰ろう。駄目?」

と誘ってきた。

「うん、いいよ」

 かくして、僕は二日連続で二条比呂と帰路を共にすることとなったのである。



 二条が言うには、つい先ほどまで、保健室で寝ていたのだという。そう言われてみれば、午後の授業、五限目の体育から教室に帰ってきてから、二条がいなかった。僕は早退したか何かだと思っていた。彼女に興味がまるでないというわけではないが、私生活に深く立ち入ろうと思うほど無粋な人間ではないと自負しているので、周りの女子に事情を尋ねてみようともせず、一先ずは気に留めないでいた。

「二条が保健室なんて――思ってもみなかったな」

 僕は当たり障りのないことを言った。本音は、思ってもみなかった、は少々言いすぎだと思う。別に彼女が病弱だなんてイメージを持ち合わせてはいなかったが、健康体であるイメージはもっと持っていなかった。

「うん……ちょっとね」

「ちょっとって?」

「うーん……」

 歯切れが悪い。何かを隠している素振りだ。それでいて、僕にはそれを話したがっているような。

 いつもならこの辺りで追及の手を止めるのだが、今回は押せ押せで行ってみるか、と思った。僕自身の興味のみならず、二条がどことなくそれを求めているのだ、という半分身勝手、半分確信に満ちた解釈からの行動だった。

「気になるなぁ。何か隠してるでしょ? 言ってごらんよ」

「…………」

「……厭ならいいけど」引き下がってしまった。相変わらず意志が弱い。

「実はね」しかし彼女は、そんな僕に逆に食いつくように、俄かに口を開いた。

「面倒くさくなっちゃって」

「……ん?」

 どういう意味? と続けるより先に彼女が僕の発した撥音はつおんの後を継ぐ。

「元々体育っていうか運動っていうか……、そういうのが苦手なの、私」

「へえ、そりゃ意外だ」

 見た感じは、人並みには動けそうに思える。人並み外れた身体能力を発揮するような姿はさすがに想像できないけれど。

「だからさ、ちょっとね――?」

 ――ああ、そういうことか。

 彼女がここまで含みを持たせるのに、ようやく合点がいった。要するに、大きな声じゃ言えないってことだ。それすなわち。

「サボったね?」

 二条はそのとき、悪戯の見つかった子供のような顔をした。しかし、それと一緒に、どこか得意げな気色を見せてもいた。

「まあね」

 彼女は開き直ったのか、それ自体何とも思っていないのか、特に悪びれる様子もなく平然と言った。

 だが何故こんな時間まで。それはおそらくこんな感じだろう。体育の授業に出続けるのが面倒になった彼女は、何か適当な理由をつけて授業を抜けて、そのまま保健室に行く。そこに養護教諭がいようといまいと、とにかくベッドに寝かせてもらえばもうそれでいい。しかし、体育が終わってからすぐに教室に現れるのは少し不自然な印象を与えてしまいかねない。だから彼女は、六限の授業が終って、生徒がある程度帰った放課後になってから保健室を出ることにしたのだ。ただ、ここで彼女はちょっとしたミス――そう呼ぶのが適切なのかどうか、ちょっと僕には決めかねるが――を犯してしまった。彼女は本当に眠ってしまったのだ。寝癖などは特に見当たらないが、年頃の女の子なら髪型ぐらいは多少細かく気にするだろうから、別に無くてもおかしな話ではない。

 ただし、僕は彼女の吐いた一つの嘘にちゃんと気付いていた。

「でも何で待ってたの?」

「え?」

「僕をさ。いや、僕じゃないかもしれないけど、こんな時間まで人を待ってたんだろ?」

 彼女はやや面食らったような顔をした。

 僕は構わず続ける。

「二条は知らなかった、というか今日身をもって知ったんじゃないかと思うけど、基本的に保健室は五時までしか開いてないんだよ。まあ多分先生の勤務時間がそれくらいなんだろうし、うちの学校は先生を外から呼んでるから尚更だね。だからついさっきまで保健室にいたなんてのは有り得ないんだよ、実際はね」

 二条は何だか決まりの悪そうな顔をする。ここまで表情をころころ変える彼女は珍しい。

「似合わない嘘なんか吐くもんじゃないよ。別に詮索はしないけどさ」

「そんなこと――」

「ん?」

 何か言った? と訊く前に、ううん、なんでもない、と言われた。

 彼女が何故そんな嘘を吐いたのか知りたくないわけではなかったが、しかし、詮索はしないと言った手前、男に二言はないのである。

 それからは二人で色々と話した。二人で傘を分け合ってはいなかったが、それでも不思議と距離は近かった。



 教室内では僕と二条とは、不気味な程会話をしなかった。いや、この言い方は聊か不正確だ。どういうわけか僕ら二人は、知人の前だと会話する気を失ってしまうのだった。それは半ば作為的な行動だったし、半ば自然な現象だった。そして半ば態々そうと定めるまでもない常識であったし、半ば暗黙の了解だった。

 だからと言って周りに知った人の目がなければ頻繁に言葉を交わしたのかと言われると、そういうわけでもない。あまりにも細かく説明すると煩雑になってしまうのだが、兎に角僕は二条に対すると、自然とそういう接し方になるのだ。

 主に言葉を交わすのは朝の時間帯だった。あの日以来、僕と二条とは一緒に登校する機会がちらほら出てきた。それまでも二条は一日たりとも学校に遅刻をすることがなかったのだが、その理由は彼女の、僕にしてみればあまりにも健康的な起床時間によるものだった。

 二条の話によれば、彼女はいつも朝の六時には自然と目が覚めてしまうらしい。僕にはそれが俄かには信じられなかった。じゃあ何時に寝ているんだと訊いたら、それはまちまちなのだという。そんな体質があってたまるか、と内心思っているが、事実彼女が学校に遅刻してきたことはおろか、僕より後に登校したことはなかったので、どうやら本当であると認めざるを得なかった。

 要するに、大抵僕が一日の初めに教室に入ると、必ず二条が既にいるのである。僕は毎日のように、呆れに似た感心をもって二条を見た。彼女は毎日、どうでもいいような顔をして自席に座っていた。

 でも僕には、そんな殆んど動かない表情の中に、色々と種類があることが判っていた。嬉しそうだったり、悲しそうだったり、あっけらかんとしていたり、不安そうだったり、そんな微妙な違いが見て取れるようになっていった。それがどこか一人密かに照れくさく、またほんの少し誇らしかった。

 暫くの期間は、まるで秘密の時間だった。そうしようと意図したわけではないのだが、僕と二条との交友は全く周りに知られなかった。

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