表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/4

帰り道

 僕が二条比呂と会話らしい会話を交わしたのは、九月の下旬に入ってからだった。

 それまでは、英語の授業のときにちょっと隣同士で二人組を作らされたり、小テストの採点のためにこれまた隣同士で、互いに、間違いだらけの答案とそこそこ出来た答案とを渋々交換させられたりと、望ましくない機会の望ましくない場面で、ただ声を耳にするだけという感じだった。

 それらで特別印象に残ったことは無かったが、一つ言えるのは、僕が僕なりに一喜一憂する横で、彼女からは彼女なりのいずれも見受けられなかったということだけだ。僕の興味があること全てにてんで興味が無いだけなのかもしれないし、若しくはただテンションがただ恒常こうじょう的に低いだけなのかもしれなかった。まあどちらでなくとも、この止まれど動けど麗しい、立てば芍薬しゃくやくの少女が羽目を外しているところなど、想像するだにいやだったから、そこはあえて深く考えようとはしなかった。きっとどちらも大して間違ってはいないだろう。

 兎に角、僕らは初め三週間ほど一切交流など結んでいなかったということだ。

 ただそれだけで、僕がいわゆる草食系などと言われるのは些か業腹ごうはらであったが、この魅力溢れる少女と会話すらしようとしないというのは、健全な男子高校生としては確かに不自然なのだろう。

 だとしても、僕はどうにも彼女とコミュニケーションをとる気が起きなかった。それは何故かと問われたところで、正確な回答をするのは少し難しい。

 あえて理由を挙げるとするなら、彼女が何を考えているのか判らなかった。如何いかんせん二条は無表情だった。感情が無いとも思われるほどに、顔面の皮膚も表情筋も、食事と発声発話以外ではピクリともしなかった。

 そして、そもそもが、彼女自身が全く話さない。僕相手は勿論のこと、男女関わらず、少なくともクラスメイトと雑談している姿など、誰ひとりとも見たことがなかった。最初の内は、積極的な女子が、どんな態度で向われても粘り強く友人として迎えようとしていたのだが、その頃にはもうそれさえ見られなくなっていた。

 転校してきたばかりでクラスに馴染めないとか、そういう問題の話ではなかった。二条はクラスに馴染まず、馴染もうともしなかった。そういう意味では、彼女はクラスメイトとは呼べなかったろう。

 ただこの二年二組の教室に来て、最後まで授業を受けて、いつの間にか帰る、それを繰り返していた。

 彼女は《クラスのマドンナ》というものには、どう足掻いても、足掻く気など無くても、なれそうにはなかった。少なくとも僕にはそう思えた。

 彼女はこの騒がしい学校で過ごすには、あまりに超然的すぎるように見えた。まるで俗世間のことなど、彼女の脳内では俎上にも上らないようだった。

 彼女は二年二組の美しい異物だった。美しい異物が毎日教室の片隅に鎮座していた。




 所属している吹奏楽部の練習が終わると、時間はもう夕方六時ぐらいにはなっている。強豪校なんかは夜九時十時までの練習が週七日なんてのがざらにあるらしいが、生憎あいにく僕の高校はコンクールの地区大会も突破できない程度のぬるいところだ。僕自身はそこまで根詰めてやりたいわけではなかったから、これぐらいが丁度いい。目下はひと月先の文化祭での演奏に向けて活動中。大して巧くもないので、親兄弟にもあまり聴きに来て欲しくはない。僕のトロンボーンソロなんて尚更だ。

 僕はその日、練習終わりに二組の教室に傘を忘れてきたことを思い出した。玄関まで降りてきて、ガラス扉越しに淀んだ空と降り注ぐ雨を見てようやくこの問題に思い至ったのだから情けない。朝の天気予報で夕方から雨と言っていたから持ってきたのは良かったものの、自分でそれを覚えていないとは。暗譜が苦手なのにはこういう遠因、或いは近因があるのかもしれない。

 取り敢えず教室に戻ることにした。三階までの階段を上るのは非常に億劫だったが、自分が悪いので仕方のないことだった。「随分遠いね。元来どこから登るのだ」と上りながら教室まで大して遠くないのに呟いてみたが、返辞する四角い男はいなかった。

 教室まで着くと、果たして既に電気は消えていた。薄暗いが改めて点灯する程暗くはなかったので、そのまま中に足を踏み入れた。

 並びの崩れた机や椅子が、意味もなく教室に残って駄弁だべっていた生徒達の姿を思い起こさせる。こと無ければさっさと帰りたい僕には理解できない。

 傘立てを見ると、僕の地味な紺色の傘がぽつんと立っていた。さしもの狡猾な奴等も、ビニール傘でなければ勝手には持っていけないらしかった。それは僕も同様だけれど。

 傘立てから自分の傘を引っ掴むと、僕は急ぐでもなく玄関まで引き返した。他の運動部なんかではまだ練習を続けているところもあるし、まだそこまで空が暗くなる時季でもない。とは言え、道中一般生徒とすれ違うことはなかった。

 ここを下り終えれば眼前には玄関の階段の一番下に至ると、そこからの眼前には長い黒髪の女生徒の後姿が立っていた。

 僕は少しぎょっとした。まさかこんな半端な時間に他に生徒がいるなんて思っていなかった。

 そんな怪談じみた光景を数瞬眺めてから気を取り直すと、たたずむ女生徒の後ろ姿を追い越した。追い越しざまにちょっと脇を見ると、それは他でもない二条比呂だった。

 僕は正直意外だった。彼女は普段から、放課後のホームルームが終わると直ぐにどこかへ消えてしまうので、イコールさっさと直帰しているものだと思っていたのだ。どこかの部に入ったとも聞かないので、きっとそうだと思っていた。

 彼女が何故まだここにいるのか、いつの間にここに来たのか、訊きたいことはいくらかあったが、取り敢えずそれは飲み込んだ。そして、佇み続ける彼女に、

「帰んないの?」

いた。

「帰れないの」

 二条は相変わらず涼やかに、無感情に答えた。ここまで起伏無く人は話せるものか、と少し感心してしまった。

「何で?」と僕。

「傘…」と二条。

 ああ、成程。

 どうやら、傘が無くて帰れないということらしい。雨の降っていない朝の内に来たから油断して持って来なかったのか、持って来たのに盗まれたか何かで失したのかは判らないが、雨の中濡れて帰るのは厭なようだ。そう考えると、その瞳にいつもより光が無いようにも思えてくる。

 雨に降られて濡れそぼった美少女というのも嫌いじゃないしむしろ悪くないとは思うが、流石に見捨てて帰るのはあまりに非道ひどいだろう、となけなしの正義感を働かせると、

「入ってく?」

と手に持った傘を彼女に示しながら言った。

 二条はしかしそれに答えず、傘に視線をちょっと移しただけだった。

 僕はこれを拒絶と捉えた。そう思うと内心少しショックだった。しかしそんな甘酸っぱい、いや、苦酸っぱい胃酸のような経験も将来への遺産になるんだろう、と考え直すと、何でもないような表情を繕って、靴を履き替え扉の外に出た。

 ここでイエスと答えないなんて何の酔狂かな? まさかこのまま学校で一夜を明かす心算かい? 後になってジーザスと嘆いたって知らないぜ。何せ気を付けた方が良い、地学の仁科にしなは僕らの間じゃスケベ野郎で有名なんだ。それから現文の――ここまで、歩きながら内心語ってみたところで、視界右隅にふと黒い影があるのが見えた。立ち止まってつと右を向くと、二条比呂。

「入れてって」

ともう傘の下に入っているのに言った。突然のことなので返辞に困っていると、

「駄目?」

と僕の目を見て言った。その声や口調や表情は、ちょっと見ただけでは判らない程であるがいつもの無感情無表情と違って、どことなく懇願こんがんの色があるような気がした。

 当の僕は、ああ、入っていきなよ、何せ雨に濡れちまえばこんな時季でも寒いからね、ともすれば風邪をひくかもしれない、そうなったら一大事だ、下手をすれば地球の損失に繋がるかも判らない――と内心で一秒のうちにまくし立てて、口に出した科白と言えば「別に、全然」だけだった。




 二条を傘に入れて伴に歩き出したはいいが、話題が無い。男たるものこういう場面では相手女性のために話のネタの一つや二つ持っておくべきなのかもしれないが、僕には面白い人生を送ってきた覚えが無いし、なんとなく思いついても部活の友人の話で、どうにも登場人物に女子が多い。

 ええい、折角の美少女との相合傘だぞ、これを味わわないでどうする、と自分を叱責していると、

「折り畳みじゃないんだね、珍しいね」

と二条が言った。

 え、何が? と訊き返しそうになったが、直ちに、ああ傘のことか、と合点した。

「折り畳みは好きじゃないんだ、って言うか嫌い」

 口調は強めで、これだけは譲れない。

 そんな僕に対し、二条はまるで興味のない様子で、ふーん、と相槌を打った。僕としては感情の発露を無視された気がして、ここでこの話題を打ち切るのは不満足なことになると思ったので、

「普通のこういうのなら堂々と持ち歩けるけどさ、折り畳みだとなんか使ってない間の処遇に困るっていうか。鞄にも入れたくないし、何より何て言うのかよく判んないけど、傘袋? みたいなのがポッケん中でガサガサするのもヤダし。まあ兎に角色々気にくわないことがあるからね」

 ここまで言って二条の方に向いたが、僕の話に耳を傾けているようには見えなかった。

 僕は腹の中に行き場のない虚しさを新たに生み出して、歩き続けるしかなかった。一体何を話せば二条は喜ぶのだろうか? 喜ばないまでも不愉快にさせるわけにもいかない。少なくともさっきの僕の折り畳み傘の件は、あまりお気に召さなかったらしい。

 暫し歩くと、ふと疑問が湧いた。

「二条の帰り道ってこっちでいいの?」

 すっかり訊き忘れていた質問だった。あとほんの少し歩けばもう僕の使う駅だ。ここまで来て、実は別のルートなのに申し訳なくて言い出せず付いて来るほかなかったなんてことだったら、あまりに心苦しい。

 対して彼女は、うん、と一つ頷いた。

 おお、同じ駅なわけか。友人の中に同路線を使う人の少ない僕は、それだけで彼女に、ものさし目盛二つ分くらい親近感を募らせた。とこそ言え方向が逆ということも十分にあり得るのだから、糠喜びに終わるのは虚しさの上乗せになるので、出来るだけそれを表情に出さないように努めた。

 駅に着く。傘を畳む僕を残して二条がタッチアンドゴー、僕も後からタッチアンドゴー。彼女の歩みは意外と速く、引き離されることこそあらね、追いつくことは出来なかった。

 向かったホームは僕と同番線。ここまでは大した偶然でもない。逆に行けば都市部に行くので、そうそう一家族住めるような土地は無いのだ。

 僕は黄色い線から内側に行儀よく立っている二条の横に、さも当然の如く並んでみた。別に抗議の意思を示されても構わなかったのだが、それは見られなかった。

「えーっと……」

 彼女が僕を見ながら何かを思い出そうとしている。まさかとは思うけれど。

中村なかむらなかむらきみひと

 彼女は、ああそうそう中村君、と胸のつかえがとれたように言った。

 おいおいマジか。隣の席じゃないか。プリントだって交換した仲じゃないか。それだけだけど。

 僕の傷付いた心に気付いているのかいないのか、彼女は恐らく気付いていない様子で続ける。

「中村君も同じ方向なの?」

 勿論見れば判ることだが、これは彼女なりに会話を持ちかけてくれているのだと思い、

「そうだよ。あんまりこっちに帰る人が居なくてね、二条も僕もマイノリティなんじゃないかな」

 彼女はまた、まるで相槌のパターンをそれしか知らないかのように、ふーん、と言った。それから、「私の名前覚えててくれたんだ、ありがと」と、それがさも凄いことかのように感心していた。

 忘れる筈ないでしょう、こんな美少女の名前を――と言いたかったが、流石に女性を口説くような勇気は貰ったことも、拾ったことも、仕入れたこともない。だから代わりに、

「そりゃ、隣の席だし」

と、さっきのささやかな仕返しの意味も込めて返辞した。彼女からの応酬は無かった。

「学校は慣れた?」

 まるで保護者のような科白で、自分でも呆れてしまう。だが、当たり障りの無い会話をしようと思うと、何故かこういう言葉ばかり浮かぶのだ。

「まあまあかな」

 彼女の返辞も曖昧で、当たり障りが無い。文面通りに受け取ったところで、普段の彼女を見れば本当かどうか怪しいものだった。

 そうしていると電車が来た。運良く快速だ。幸いにも僕の最寄駅には快速が停まるので、これには是非とも乗り込みたい。

 下りの快速に乗り込むと、中は乗車率百五十パーセントぐらいだった。取り敢えず僕は列車の扉脇を陣取ろうと思い、一旦人の流れに任せて車内中ほどまで進み、振り返った。

 すると視界に、二条がいた。しかも僕が狙っていた位置に立っている。

 こいつ、なんて間の悪い――そう思いかけたが、いくらなんでもそんな文句を言われるいわれは彼女に無いし、僕にもそれを言う権利などありはしない。

 そう気付くと、一瞬でも彼女に悪感情を抱いた自分の狭量きょうりょうさに恥じ入った。なんて矮小わいしょうな器なんだろう。

 そしてすぐ後、彼女も快速に乗るのか、という発見に目を向けた。

 当然だが、快速に乗る利用者はある程度限られる。停まらない駅の方が多いからだ。快速列車が停まるというのは、それだけその駅の重要度が高いということでもあるから、どちらの利用者が多いかなどというのは、一概に言えた話ではないのだけれど。また、ビジネス街かベッドタウンか、このどちらかにこの辺りの街々の性格は大別される。いくらなんでも子供がいる世帯が、ビジネス街を住所とするなんてのは少ないだろうから、更に降りる駅々も限られてくる。

 こうやって条件が狭まっていくと、意外と僕達は住んでいる場所が近いのかもしれないぞ、と不思議な昂揚こうよう感の様なものを感じた。嬉しいとか嬉しくないとかそういうベクトルのものとは違った、何か同属意識の様なものが僕の中で芽生え始めた。

 僕と二条とは、僕が振り向いたときのまま、電車の中で向かい合っていた。と言っても、互いに体が相手の方を向いているだけで、彼女には僕を特別意識している様子は無かった。

 僕はと言えば、あまり目立たないようにしていたが――もしかしたら、端から見れば不躾ぶしつけにも――、彼女の立ち姿を改めてよく観察していた。それにしても綺麗だ。美しい。だが不思議だ。たおやかな印象を受けない。まさに超自然的――今思えばかなり陳腐な表現だったが、それが自分の中で易々とまかり通ってしまう程に、僕は彼女に見蕩みとれていた。

 そして、途端に彼女の近くに立っているのが恥ずかしくなってきた。さながらもう一人の自分が現れて、今の僕らを蔭から覗いているような、見下ろしているような、そのくせ視神経は僕と繋がっていやがるという迷惑極まりない状態にあるような、そんな気分になったのだ。そのために僕は、何となくこの場を離れたくなった。しかし、この折角の景勝地けいしょうちを手放したくないという気持ちも湧き起こり、目的地まで暫しアンビヴァレンスと戦う羽目になった。

 互いに何も言葉は交わさなかった。彼女の方からも話しかけては来なかった。僕の方は、すっかり所狭ところせき心持になっていたので、話せなかった。それでも空気が何やら重苦しく流れているとか、そういうことはなかった。むしろこれが本来二人の間にある空気感なんだと思った。偶々二人で帰る機会があったから一緒に帰って、その間繋ぎに話していただけ、そう思えば何も問題は無い。むしろよくここまで保ったほうだ。帰宅したら自分を誉めてやろう。

 自分の最寄駅に着いたとき、「じゃあ、僕はこれで」とだけ言って電車から降りた。

 寂れた駅のホームに足を下ろすと、心がふっと落ち着いた。ぬるま湯のような解放感が僕を包んだ。

 ちっぽけな安堵と郷愁に耽りながらホームから改札階への階段を上っていると、後ろからブレザーの女生徒が僕を追い越した。

 おや、あれは見覚えがある。

 見覚えどころか見慣れがある。

 というより数分ぐらい前まで見てたな。

 ひょっとしたらひょっとするかも。

 するかも、じゃないな、ひょっとするな。

 僕は歩くペースを上げて、彼女に追いついた。

 万に一つ、人違いで、うっかり前科がついたら怖いので、敢えて声はかけず、さりげなく横に行って顔を覗いた。

 二条比呂。

「……同じ駅なら言えばいいのに」

と、我ながら無茶なことを言った。そもそもどの駅で降りるかを訊いておかなかった自分に責があるのだが、しかし、これではさいぜんの別れの言葉が何だか間が抜けて感じられるではないか。

「私はさよならって言ってないけど」

 イグザクトリィ。確かにそうだ。これは僕が一方的に悪い。

 あれ? 何か論点がすり替えられてるような……。

 どこか釈然としない気持ちを抱えながらも、

「どっち方向?」

と、二つしかない出口を交互に指で示した。それぞれが線路をまたいで逆方面に向かうようになっていた。

 それに対して二条は、「こっち」と、改札を出て右側を指差した。偶然にも僕と同じだった。

「じゃあ一緒に帰ろうよ、途中まででもいいし」

 思わず口をついて出たのがこの科白だった。無意識の内に、柄にも無いことを口走ってしまい、僕は内心慌てた。いや、別に彼女と連れだって帰るのが厭だなんてことはなくてむしろ光栄だったりするのだが、相手の意思を尊重せずに話を進めるような愚かしい真似はしたくない。

「いいよ」

 その『いいよ』はどっちなんだろう。アクセントを聞く限りは許容の方だけど。

「一緒に帰ろっか、ここまで来て別れるのもアレだし」

 許容だった。二条は、僕が思っていたよりも好いヤツかもしれなかった。




 駅からの帰り道も主に他愛もないことしか話さなかった。

 ただ、僕はまた幾つか新事実を知ることになった。

「二条って前何処住んでたの?」

狛江こまえ市の方。狛江市知ってる?」

「えーっ……と?」

「東京だよ、一応」

 二十三区以外を殆んど記憶していないこの体たらくを再確認、自覚させられた。市なんて八王子はちおうじ青梅おうめの名前ぐらいしか憶えていなかった。二十三区だって、配置に及べば記憶はゼロにも等しい。

「何でこっちに?」

 こっち、とは言うまでもなく僕も住んでいるこの町だ。自分で言うのもなんだが、大分鄙びた下町なので、わざわざ市から区に引越してくるには、あまり相応しくないだろう、という僕自身の考えに基く疑問だ。

「親戚の家がね、こっちにあるんだよ」

「へぇ、成程ね…」

 親戚の家がね、成程成程…。

 と、一旦聞き流しそうになった。

 よく考えたら普通はあまり聞かない科白だ。どれくらいの縁かは判らないが、少なくとも『《親戚》の家がこっちにある』などというのは、大概引越してくる理由にはならないような気がした。

 それではどうして《親戚》の家の近くまで来たのか。僕は頭を尽力に働かせた。

 そして出た結論は一つ。

 二条には両親がいない。

 そうでなければ、親戚のいる処までやってくる理由が無い。

 推測するに、前に住んでいた……狛江市だったか。そこで何かあったのか、両親だけで事故を起こしたか、兎に角両親を亡くす事件があったのだろう。それで身寄りを亡くした彼女を親戚が引き取ったか、彼女が親戚を頼ってやってきたか。

 ここまで考えたが、事実関係を確認する勇気は出なかった。合っていれば合っていたで、そんなものはあまり彼女も掘り返したくない記憶だろうし、外れていれば外れていたで、かなり僕は失礼なことを言ってしまうことになる。もしかしたら、単身こちらに身を置いて、将来に備えていこう、という向上心に溢れた選択かもしれないのだ。どちらにせよ彼女の気分を害す結果になると考えると、何も言わず心の中にしまっておくのが最善だろうと思った。

 それからは話頭を転じた。その前後話した内容は、あまりに雑多且つ対外に無価値な話だった。だが、それが僕には何だか心地よかった。言ってしまえば、重苦しい話よりも、なんてことのない話の方が、気が楽に保てた。僕としてはそちらの方が、勿論のこと都合が良かった。

「僕はもうここでこっちに曲がるけど」

 家の近くの十字路で、僕は二条に予告した。言ってから、ああ、いつの間にこんなとこまで来てたのか、と改めて実感した。

「それじゃここでさよならだね。私は真っ直ぐだから」

 彼女は言葉通り前方を指差した。

 つと、何となく名残惜しい気持ちがこみ上げてきた。それは単純に、彼女の容姿に由来するものだったろうか。自分でもちょっとそこは判然しなかった。

 ただはっきり言えることは、僕はこの二条比呂という少女に、この短期間、いや、短時間で、大分心を許してしまっているという事実だった。彼女の方がどうかは判らないが。

「でも、いいの?」

 僕が訊いたのは雨のことだった。まだ、小降りではあるが、空からは確実に雨滴が落ちてきている。ここで別れてしまったら、彼女は間違いなく濡れて帰ることになる。それはどうしても避けたかった。ここまで来て、僕だけ無事で帰るなんて、なんという薄情者になってしまうことだろう。

「いい、大丈夫」

 二条は特に気にしていない様子だった。僕が気にしていることなど露知らず、このまま何か行動を起こさなければさっさと帰ってしまいそうだった。

 だが、いつまでも引き留めておけるとも思えない。

 そうこうしている内に、「じゃあね」と彼女は歩き出した。

「待って」

 僕は傘を彼女の上に同時に移動させた。

 彼女は直ぐに停まり、不思議なものを見るような顔をしてこちらを見た。

「送ってく」

 僕のような奥手クンからは思いもつかない、自分でも驚くような言葉が口をついて出た。心臓が早鐘を打ち始めたのに気付いた。

 目の前の少女は引き続きキョトンとした表情を見せ、それからちょっと顔を進行方向に向け、またこちらを向いた。

「でも」

「いいから」

 僕は半ば強引に彼女の横に並んだ。

 彼女は観念したように、「……行こ」と歩き出した。

 歩いている間、僕はまた喋れなくなった。彼女の僕への印象が表面化するのが怖かったのだ。まるで初対面のように、互いに黙りこくってしまった。こんなときに向こうから話しかけてくれればいいのに、などと考える、情けない自分にあっという間に立ち返ってしまった。

「――あのさ」「ねぇ――」

 勇気を奮い立たせて二条に言葉をかけようとすると、それは他ならぬ彼女に遮られた。遮る、という表現は些か正しくないかもしれないが、心情的に大した違いは無かった。

「――えっと」「じゃあ――」

 また正面衝突。少し苛ついた。

「あー、先、いいよ」

 僕は二条に言葉を促した。

「いいよ、大したことじゃないから」

 あ、そう、と僕は拍子抜けした。

 じゃあお言葉に甘えて、と切り出した内容は同じく大したことではなかった。

「引越してきてこっちはどう?」

 それに対して二条は、

「そうだね、やっぱり……」

と言いさして、そのまま止まった。大した質問でもないのに、まるで大した答えを用意しようとしているかのようだった。

 ややあって、

「《区》にしては、何て言うかこう……」

「田舎くさい、でしょ」

 僕は彼女の言葉の先を、勝手に引き取った。それくらいのことは、下田やら脇谷やらにとっくに言われていた。あいつらは僕の住むこの町をゴッサムシティか何かと勘違いしているようなフシがあったが、まあ言わせておけばいいと思っているし、僕自身何を言われようと特に気にはしていない。むしろ自分自身ここは東京都外だと内心思っているぐらいだ。

「実際、ここはあんまり栄えてないしね。なんか風の噂じゃ、町自らが栄えたがってないなんてことも言われてるからね。それが嘘でも、そんな部分はかなりあるよ」

「そう……そうだね」

 彼女は僕の言葉を否定せず、しかも肯定ともとれる反応を示した。傷つきはしなかったが、ほんのちょっと切ないのは内緒だ。

「でも、何だか懐かしいなって、そう思う」

 彼女は遠い目をした。僕にはそう感じられた。

 たぶん狛江の前に似たようなところに住んでたんだろうな、狛江がどんなところか知らないけど。きっとここより多分に栄えた都市か、よっぽどの辺鄙へんぴなところなんだろう。

 そんなことを話し、考えながら行くと、

「ここまででいいよ」

 二条は立ち止まった。

「いいの?」と僕が訊くと、「雨も止んだし」と返した。

 ふと見ると、確かに空は未だ雲が低く抑えつけられているが、もう雨は降っていなかった。二条との会話に夢中になって気付かなかったのだろうか。もしそうなら、そんなことは平生の僕にはまるで起り得ない現象だ。そんな自分にまた驚いた。

 彼女の言葉に対しては、僕も別に食い下がろうとは思わなかった。年頃の女の子ってのは、好きでもない男に家の場所をあまり知られたくないのかも、そう考えたからだ。

「そっか、それじゃ、ここで今度こそサヨナラだ」

「うん、また明日」

 僕はつと、えならぬ淋しさと、そこはかとない多幸感に包まれた。

 僕が傘を下ろすと、彼女は小さく、矮小な程小さく手を振って、僕の前に去っていった。

 その後ろ姿を見ながら僕は、あ、メアド訊いとけばよかったかな、と思った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ