二条比呂
「俺はさ、相手が男だろうと女だろうと、人間への最上級の褒め言葉は『ヤリたい』だと思うわけよ」
突然、下田はかくも、相手を引かせるためのような科白で切り出した。
「何言ってんだ、お前? 童貞こじらせて、遂に見境が無くなったのか?」
脇谷がそんな下田に、まさしく手本のように呆れた口調で言った。僕も大体において同感だ。これからは下田から自分の身を、特に下半身を守る必要に駆られた。
「怖いなぁ、僕にだけは変な気は起こさないでくれよ。せめて脇谷で」
横から、おいやめろ、と声がした気がするが無視する。
「ちげぇよ、ンなわけあるか」
「じゃあどんなわけでンなこと言いだしたんだよ」脇谷が下田に問うた。
「つまりな、最高の人間ってのは最高の言葉で褒め称えられるべき価値が当然にあるわけであってだな、そしてあの転入生には存分にその価値があると俺は思ってんだが、お前らどうよ?」
そう言って、下田は、僕達三人の方からは斜に姿が見える、二条比呂を目で示した。
彼女は、窓際の一番後ろの、明らかに急造な席に座って本を読んでいた。何を読んでいるかは、黒いブックカバーがかけられているので判らない。サイズは見たところ文庫本のそれであって、ブックカバーの背表紙を支える中指と薬指が白く映えている。
「全く言葉のチョイスにセンスが無いな。そもそも下田という存在にセンスが無いのか」
「本当にね。もっと他の言い方があるでしょ」脇谷の言葉に僕も同調した。だが、正直存在にセンスが無いという言葉の意味が、いまいちよく解らなかった。
僕と脇谷が口を揃えて下田を非難すると、
「ほうほう、センスが無いと来たか。それならどんな言い方があるってんだ?」と半ば喧嘩腰に言い、「はい脇谷」とそちらを差して言葉を促した。
脇谷は数秒考えたのち、「マジサーセン、お前のセンス最高だったわ」と匙を投げた。
満足げな顔の下田は、続いて、「はい中村」と僕にも同様に返辞を求めた。これには僕も、言ってしまったからには何か対抗案を出さなくてはなるまい、という妙な義務感に襲われ、乏しい語彙を頭の中で弄った。
僕はもう一度二条の方を見た。椅子に座った全身を眺め、そして、
「……扇情的?」
「一緒じゃねぇか」
一言絞り出した僕に、下田は自分を棚に上げて、間髪を容れず僕を見下したように言う。
「まず最高最高言っておきながら、どうせ見た目だけの評価しかしてないってところが問題だな」
脇谷が口を挟んできた。何か反論をしようかとも思ったが、三つ巴の泥仕合になるのが目に見えているので、そこは我慢した。それは下田も同感だったらしく、それどころか、「まさしくその通りだな」と笑いながら、何故かえばりながら言った。
確かに、僕自身も思わず扇情的と表現してしまったように、彼女、二条比呂は、クラス、延いては学年、さらに学校の女子の中で抜きんでた魅力を外界に溢れ出させていた。
二重の大きな目に高い鼻など、恵まれた顔のパーツが絶妙なバランスでそれぞれあるべき場所に陣取っていた。加えて、あまり表情を変えない上に、透明感のある色白の肌をしていて、さながら肉感のある彫像のように見えた。雪を欺く白さなんて表現があるが、彼女なら大理石か再生紙ぐらいなら欺けるんじゃないかと思った。小顔で無駄のない輪郭は、その長いストレートの黒髪を、彼女には不要な物であるとさえ思わせた。こんな綺麗な子は殆んど見たことがない、と感嘆した。
更に、顔以外、つまりスタイルもかなり抜群だった。服装は、僕が彼女を目撃するときは大抵、この九月の残暑厳しいころのくせに冬服のブレザーを着ていたから、なかなか直ぐには気付かないのだが、時折ブレザーを脱いでブラウスだけになると、途端にすらりとしたボディラインが現れる。バストサイズはとても大きいというわけではないが、それでもその存在を主張するには十分だった。スカートは大して短くないが、それでも腰の位置からなんとなく足の長さは判る。身長から比せば結構な長さだ。それが膝元だけでも覗いていれば、彼女ならば十全だ。
二条は別にそれらを周りの人間に見せつけていたわけではない。ただ、それらは恐らく彼女の意志とは関係なく、自然に視覚に猛烈に訴えかけてくるのだ。終いには聴覚や嗅覚にまで及ぶような錯覚までしてしまうほどに。
これを端的に纏めれば、下田のような男にしてみれば、『ヤリたい』に集約されてしまうのも仕方のないことなのかもしれなかった。
「あれで性格が良ければ何よりなんだがねぇ……」下田が二条を横目で見ながら言う。
「どんな子だか解ってんの?」
「いや、一言も一単語も一音節も一モーラも話したことは無い」
僕の質問に、下田は断言した。
「うわぁ、リアルに見た目だけかよ、見損なうわー、マジ見損なうわー」
脇谷のそしりにも下田はどこ吹く風といった様子で、続ける。
「つってもあいつが他に誰かと喋ってんの見たことあるか? 無ぇだろ? ぶっちゃけ声だってここに来たときの挨拶でしか聞いてないからな」
僕は、嘘つけ、そんなことはない、と横槍を入れたが、脇谷がそれに同意した。
「あぁ、確かに……。俺もう声とか忘れちまったかも、どんなんだっけ?」
「さあ? 中村、お前隣の席だから判んじゃね?」
「ん、まあね」
「どんなだっけ?」
「うーん、どんなって言われても……」
こいつら本当に憶えてないのか、と半ば失望に似た気分になる。僕も即座に答えられるわけではないのだが、人の声を形容するにどんな言葉を用いればいいのか分らないからで、決して二条の声を覚えていないということではない。
それはともかく、そもそも二条に、誰かと会話しようなどという意思があるのかどうかさえ僕は疑問だった。
彼女は二学期が始まった一週間前に転校してきたばかりなのだが、鈍感なのか無関心なのか、僕らが十六七年の人生で初めて見たようなレヴェルの傾城の美少女に、多くの男子が内心で耽溺し、女子が羨望しているのに気付いていないようだった。朝のホームルームで担任に紹介されたときも、その涼しげな表情を崩さず、ただ教室内を見廻した。そして見廻しただけだった。一人一人の誰に目を止めるでも無く、最後はどこを見ているのか判らない、そんな様子だった。
その日の一限後の休み時間には、まずクラスの女子たちから色々と質問攻めに遭っていたようだが、それにも何かしら満足のいく答えを返していたようには思えない。ただ味もそっけもない態度を超然的に振りまき、相手は畢竟どうすることも出来ずに引き返す、そんな状況を何度も目にした。
僕も恐らく何度かは話せる機会があったろうが、別段こちらから行動を起こそうという気が無かったため、結局会話らしい会話はゼロだ。
「相変わらず勿体ねぇ野郎だな。隣の席ってだけでどんだけ恵まれてるか全然解っちゃいねぇ」
「いいだろ、別に」
下田は僕にある種の軽蔑の眼差しを向けているようだが、意に介さないことにした。介したところで何がどうなるわけでも無い。
「でもさ、何で話そうとしないんだ? 何だかんだお前もあの子のこと結構イイと思ってんだろ?」
と脇谷。
それに対しては、
「こっちからはあんまり話しかけない主義なんだよ」
と嘯いた。