はじめに ――各々の一頁――
竟にこの時が来た。
私はこの日をどれだけ待ったことだろう。待って、待って、待ち望んだことだろう。その期間を俄かには思い出せなくて、指折り数えて、そして、フフッ、と笑う。
この日のため、この時のため、この瞬間のため。私は耐え忍んだ。望まぬ日々を過ごしてきた。
でもそれも全ては彼のため。
いや、ちょっと待て自分。
ホントに彼のため?
これは正確には自分のためなのでは?
あんなことまでしてきたのに、また自分に嘘を吐くというのだろうか。思わず自問する。
「どうかした?」
不意に隣から声。いけないいけない、考え込み過ぎちゃった。
「ううん、何でもないよ」
私は努めて微笑んだ。気付かないうちに、表情が硬くなってしまっていたらしい。
「暫く休んでたんだし、あんま無理しない方が良いよ。また休むことになったら気の毒だし」
ああ、相変らず彼はほんとうに優しい。でも、優しすぎるのは時に欠点だ。彼自身はそれに気付いてないようだけど。
彼のさりげない心遣いに酔いしれて、ふと横を見ると訝しげな視線。再び反省。またやっちゃった。私って顔に出やすいのかなぁ。
それからは暫し談笑。私はこの間、事あるごとに、事なきごとにも彼の方を見ていた気がする。
そして待ちに待った時間。
私は覚悟を決める。
いざ行かん、私。
自分を勇気づけてから。
――私は今、彼と私の二人きりということを改めて実感し、噛み締めた。二人の世界。これから私は、自分からこの世界に一石を投じようとしているのだ。
彼はまたまた変な顔をしている。だがもう気付かれても構わない。むしろ気付かれないといけない、気付かせないといけない。これから私は、打ち明けないといけないんだ、自分の気持ちを。
私は緊張に乾いた喉を潤すため、生唾を飲み込んだ。
「ねぇ、突然なんだけど…」と言って身体ごと彼の方を向いた。そして。
「あのね、私――」
一瞬、何を言われたのかがさっぱり解らなかった。直後から、それまでただの音素の塊だったものが、体系立った、意味を持った言葉として姿を明瞭にしていった。
彼女が、僕のことを、好き? そんな馬鹿な。
いくらなんでも、簡単には信じられない。
僕は今まで、一度だって、彼女のそんな素振りを目にしたことが……あったろうか。大急ぎで記憶のページを捲る。
あれは違う、これも違う、どれがそれ? 分らない。
目次にも、索引にも、そんな事実は見つからなかった。
僕は、あまりにも彼女の告白が不意打ち過ぎて、ただ呆然として、そして無限の迷路に落ち込んでしまった。
とは言え、嬉しいか嬉しくないかで言ったら、間違いなく嬉しい。あまりにも簡単な二択だ。ギャンブルならば全額ベットで構わない。
しかし。
アウトプットされた僕の言葉は、気持ちとは屈折していた。
「ごめん、ちょっと考えさせて欲しい」
自分でも何故そんなことを言ったのか、上手く説明は出来なかった。だから彼女が『何で?』だの『どうして?』だの言ってこなかったのには、大いに安堵した。同時に、そんな自分に眉を顰めたくなった。
彼女は、表情を特別大きく変えはしなかった。だが、その気持ちを忖度するに、僕の方では申し訳ない思いが溢れ出て止まなかった。
「うん、分った。待ってる」
彼女は、俯いて言った。
色よい返事が貰えると確信していたわけじゃない。
断られるのが怖かったわけでもない。
でも。
保留。
断られなかっただけマシ、そう思って私は自分を慰めた。それでも、もどかしい思いで叫び出したかった。何故だか、私にはもう既に結果が出てしまっているように思えた。
私はいつまでこのもやもやとした屈託を、結論の見えない不安を抱えればいいのだろう、と正面の彼を恨んだ。逆恨み。情けない。そう解っている。しかし、どうやら恨めしげな視線は隠し切れていなかったようだ。
彼は私から目を逸らした。目を伏せた。
苦しげな表情。私は今まで彼のこんな顔を見たことが無かった。彼はいつだって超然的で、悠然的で、飄々としていて。こんな顔は持ち合わせていないんじゃないかと思っていたけど。
だからこそ、私も苦しかった。
彼を苦しませてしまって、苦しかった。
やっぱり止めておけばよかった、なんて、自分の決断さえ後悔しそうになる。でもこれは必要な痛み。さいぜんまでの痛みをかき消すため、いや、乗り越えるために、上書きされるべき痛み。
――そうやって自分に言い聞かせて、私は一体いくつの痛みを乗り越えてきたのだろう。
しかし、そうでもしないと、自分を保てそうになかった。
おかしいな、フラれたわけでもないのに。
私は一度も後ろを振り返らず、重い足取りで家路についた。
僕は、告白を終えて去っていく彼女の後姿を眺め、見送っていた。そうするしかなかった。それ以上のことをする資格など、元来から持ち合わせていなかった。
心なしか彼女の背中は、固よりからさらに小さく見えた。もうあらゆる希望を失ってしまったかのような雰囲気を、高粘度に纏っていた。それを感じ取ったとき、幾許か良心の呵責に苛まれた。
しかし、僕という人間には、結局それを原因として苦しむ道が無かった。そして、そもそもそんな筋合は無い筈だという結論に落とし込んだ。
それなのに、なぜ先ほど一瞬でも自分自身の齎した結果について思い悩んだかといえば、ひとえに、女性の涙に弱いからに他ならない。去っていくとき、彼女の眼に涙が浮かんでいたのを僕は見逃さなかった。痛痒に鈍感な僕の心に動揺を与えるに、彼女の涙は十分な鋭さを持っていた。
女の子を泣かせてしまった――。また一つ、人生に汚点が増えていく。