雛人形と娘
朝から目まぐるしく私を急かしていた家事も、晩御飯の支度が終わったことで、束の間の落ち着きを手に入れていた。
そんな主婦がやる選択肢と言えば、限られているのだと思う。私が選んだ答え、それは娘と遊ぶ事だ。
私は3歳になる娘の元へと足を運んだ。
最近、娘はあることに夢中になっている。
初めて見る、立派で、大きい、40年ほどの歴史がある、7段の雛人形とお話をする事に夢中なのだ。
私が仏壇が置いてある和室を覗き込むと、予想通りに、楽しそうに雛人形と一方通行のに会話をしている、娘がいた。
まだハッキリと発音できていない、3歳らしい、たとたどしい喋り方だった。
「お姫様は可愛いねー」
「お姫様は偉いのよねー」
「お姫様は幸せそうだねー」
娘は特に、お姫様に入れ込んでいるようだ。
そんな、可愛らしい娘を見て……。感受性の強い子だわ! 天才よ! なんて思わない親が、この世に存在する訳が無い。
私も例外ではないのだ。
主婦は見た! と言った感じで、こっそりと娘を眺めているだけで幸せだった。
翌日。
私は雛壇の後ろで待機している。
可愛い娘が雛人形に話しかけるのを待つためだ。
母親が見えない、遊び相手がいない、そんな状況で娘がすることは限られているはず。
30分ほど待っただろうか。私の計画通りに、娘は雛人形と会話をし始めた。
娘の第一声は、私を後悔の世界に招待するものだった。
「ママがねー、見当たらないの。3歳の娘を一人で家に残すなんて、困ったママよねー」
その通りだ。目を離すべきではなかった。
だけど。
落ち込んでいる暇も無い。私が反省する時間を与えることなく、娘は会話を続ける。
「お姫様はいつも綺麗だねー」
これよ。私が待っていたのは、この瞬間なのよ。
普段より2オクターブ高い声、つまりは電話で義母と話す時の声で、私は。
「ありがとう。あなたも綺麗よ。きっと十年後には美人になるわね」
と言った。
娘にとっては、雛人形が喋ると言う不可解な事実も、冷蔵庫を空けたら冷たい世界が広がっていると言う常識的な事実も、大きな違いは無いのだろう。
「えへへ。ありがとう! ママも角度によっては美人だから、自信があったのよー」
と当たり前のように受け入れている。
「お姫様はいつも何をやっているのー?」
「そうね。お殿様のお手伝いよ。そのお殿様は国のために頑張っているのよ」
「偉いんだねー。私はね、来年から幼稚園に行くのよー」
「そうなの。それは、楽しみね」
「うん!」
娘との会話。それは、とても楽しい時間だった。
「お姫様はお金持ちなの?」
「えぇ。そうよ。ステキなお殿様のおかげね」
「そうなのー? 仲良しなんだねー」
「うふふ。あなたもステキな結婚相手を見つけるといいわ」
「私はねー。タクヤ君が好きなのー。でも、頭が悪いからお金持ちにはなれないかもしれないのよー。サッカーは上手なんだけどねー。でも、お金持ちになれるほどでは無いわー」
意外にもマセている我が子に驚いたものも……。
なんて可愛いのだろう。
「お姫様は今幸せー?」
私の頭が『幸せよ』と口から出す言葉を決定したのと、ほぼ同時に……。
低く、野太い、怒りに満ちた、それでも確かな女性の声で。
「幸せなものか! 無礼者が私の名をかたっておる。なんと腹立たしい事か」
と聞いた事の無い声が、部屋に響き渡った。
私は、腰を抜かし、口は音のない仮想的な悲鳴を上げ、脳は娘とどう逃げるかを模索していた。
すると、娘は嬉しそうに雛壇の横から、顔だけを私に見せて、笑っていた。
「ママー。バレバレだよー」
私は親馬鹿なのだろうか。
この子は3歳にして、なんて賢いのかしら! 絶対天才よ!
その一方で、娘はあんなに低い声を出せるのか。そして、あんなにもはっきり発音できたのか。
と言う疑問がよぎる。
喜びと恐怖と疑問、その3つが複雑に絡み合う、言葉にし難い気持ちになった。
3月4日。
家事から一時的に解放された私は、いつものように、娘と雛人形の会話を見るため、和室に向かった。
「お腹すいたよー。お姫様は、料理しないのー?」
「そんなもの、下々に任せればよい」
あの日から、娘の会話は一方通行ではなくなっていた。
1人で2役こなす娘は、私の親馬鹿ごころを刺激するよりも、恐怖を刺激するものだった。
それでも、娘は可愛い。
私は後ろから娘に抱きついた。
「今週の日曜日で、お姫様とはお別れなの。今のうち一杯喋ろうね!」
娘は、お姫様役の恐ろしい声で。
「無礼者!」
とだけ言い放ち、私の腕を振りほどき、今度はいつもの可愛らしい、拙い発音で。
「ママー。助けてー」
と娘の口よりずっと高い位置から、お姫様の人形が飾っている位置から言った。
この時の娘は、3歳とは思えない、妖艶な微笑みをしていた。