【現代版】走れメロス
メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の一ピクセルを除かなければならぬと決意した。メロスには美術がわからぬ。メロスは、都内の若手コンサルである。四角を並べ、矢印を引き、フォントサイズを九に落として暮して来た。けれども、図形のズレに対しては、人一倍に敏感であった。
きょう未明、メロスはクライアント向け最終報告資料を仕上げた。全三十八枚。うち二十七枚が「念のため追加」され、八枚が「参考扱いだが本編に入れておいて」と言われ、残る三枚は誰が作れと言ったのか、もはや誰にもわからぬ資料であった。
それでもメロスは、やり遂げた。
表紙のタイトルは中央にあった。サブタイトルも中央にあった。右下のConfidential表示は、テンプレートの余白に対して美しく収まっていた。二十三ページ目の業務フロー図などは、見る者が見れば涙を流すほど整っていた。四つの長方形は等間隔に並び、矢印はその中心をまっすぐ貫き、注釈の吹き出しはそれぞれ同じ高さに留まっていた。
メロスは保存した。OneDriveにも同期した。念のためローカルにも落とした。さらに「最終」と書くことの危険を知っていたので、ファイル名は謙虚に「最終報告資料_メロス確認中_v0.98.pptx」とした。
そこへ、ディオニス部長からTeamsが来た。
「ちょっと見ました」
メロスは身震いした。「ちょっと見ました」は、しばしば一族郎党を滅ぼす言葉である。
続けて、修正版のファイルが送られて来た。
「軽く直しておきました」
メロスはファイルを開いた。
そして見た。
二十三ページ目の、三つ目の四角が、一ピクセルだけ右にずれていた。
メロスは、椅子から立ち上がった。彼の部屋に羊はいなかった。笛もなかった。ただ、冷めたコンビニコーヒーと、無数の充電ケーブルと、打ち捨てられたストレスボールがあるだけだった。けれどもそのとき、メロスの胸中には、古代シラクスの雷鳴にも似た怒りが轟いた。
「許せぬ」
メロスは言った。
「たった一ピクセルではないか」と、人は言うだろう。
しかし、たった一ピクセルから世界は崩れる。一ピクセルずれた四角を許せば、次は矢印が曲がる。矢印が曲がれば、論点が曲がる。論点が曲がれば、意思決定が曲がる。意思決定が曲がれば、プロジェクトは燃える。プロジェクトが燃えれば、若手が議事録を書く。すべては一ピクセルから始まるのである。
メロスは、ディオニス部長のいる会議室へ向かった。
◇ ◇ ◇
ディオニス部長は、都心の高層ビル三十一階にいた。ガラス張りの会議室の中で、彼は腕を組み、巨大なモニターに映る資料を眺めていた。彼の背後には、三人のマネージャーがいた。いずれも疲れた目をしていたが、ディオニスの前では「たしかに」「おっしゃる通りです」「そこは解像度を上げたいですね」としか言わぬ者たちであった。
メロスは扉を開けた。
「ディオニス部長」
「何だ、メロス君」
「二十三ページ目の三つ目の四角を、一ピクセル右へ動かしましたね」
会議室の空気が凍った。
三人のマネージャーは、いっせいに手元のPCを見た。誰もその四角を見ようとはしなかった。見るということは、関与するということである。関与するということは、責任を持つということである。責任を持つということは、夜の予定が消えるということである。
ディオニス部長は、静かに笑った。
「動かしたよ」
「なぜです」
「何となく、その方が自然だったからだ」
「自然」
メロスはその言葉を噛んだ。
「部長、自然とは何ですか。PowerPointには配置という機能があります。左右中央揃えがあります。上下中央揃えがあります。水平方向に整列があります。そこに自然などという獣を放ってはなりませぬ」
「メロス君、君は若い」
ディオニスは椅子に深く腰かけた。
「資料とはな、揃っていればよいというものではない。少しずれている方が、人間味が出る」
「人間味」
メロスの声は震えた。
「人間味のために、一ピクセルを犠牲にするのですか」
「一ピクセルくらいで怒るな」
「一ピクセルくらい、ですと」
メロスは前へ出た。
「ならば部長、クライアントとの契約金額を一ピクセル分だけ減らされても笑っていられますか。役員報告の開始時刻を一ピクセル分だけ遅らせても許されますか。勤怠の退勤時刻を一ピクセル分だけ早めても労務は黙っていますか」
「何を言っているんだ」
「私にもわかりません」
メロスは正直であった。
ディオニス部長の目が細くなった。
「メロス君、君は私を疑っているのか」
「疑っております」
「私のレビューを」
「はい」
「部長のレビューを」
「一ピクセルに関しては、明確に」
三人のマネージャーが息を呑んだ。部長のレビューに異を唱える者は少ない。ましてや、理由が一ピクセルである者は、かつて一人もいなかった。
ディオニスは低く言った。
「ならば、君に命じる。明日の朝九時、役員向け最終レビューがある。それまでに、この資料を完全に整えて持って来い。ただし、私の修正はすべて反映したままだ」
「すべて、ですか」
「すべてだ。私がずらした一ピクセルも含めて、私の意志だ」
「それは矛盾しています」
「コンサルの仕事とは、矛盾を整合的に見せることだ」
メロスは唇を噛んだ。
ああ、この人は王だ。邪智暴虐の王だ。しかも資料レビューだけ妙に細かい王だ。
「待ってください」
メロスは言った。
「私には、今日の夜、妹の結婚式の二次会があります」
「知らん」
「幹事です」
「なお悪い」
「十八時に恵比寿で受付をし、二十一時には戻ります。そこから資料を直し、明朝九時までには必ず持参します」
ディオニスは笑った。
「逃げる気だな」
「逃げませぬ」
「若手はみな逃げる。『少し確認します』と言って逃げる。『一旦持ち帰ります』と言って逃げる。『認識合わせさせてください』と言って逃げる。私は人を信じない」
メロスは憤然として言った。
「私を信じられぬなら、友を置いて行きます」
「友?」
「セリヌンティウスです」
その名を聞き、会議室の端に座っていた一人の男が顔を上げた。セリヌンティウスは、メロスの同期であった。彼は資料デザインに長け、色味にうるさく、いつも「このグレーは死んでいる」と言っていた。メロスがロジックの人であるなら、セリヌンティウスは余白の人であった。
セリヌンティウスは、状況をまだ理解していなかった。ただ、自分の名が出たので、イヤホンを外した。
「何?」
「セリヌンティウス、すまぬ。私の代わりに、ここにいてくれ」
「何の話?」
「私が明朝九時までに戻らなければ、君が役員レビューでこの資料を説明する」
セリヌンティウスの顔から血の気が引いた。
「それは死だよ」
「知っている」
「しかも、部長修正入りの資料を?」
「そうだ」
「それは、ただの死より悪い」
「すまぬ」
ディオニスは面白そうに見ていた。
「よかろう。セリヌンティウスを人質とする。明朝九時までに戻らなければ、彼に説明させる。二十三ページ目の一ピクセルについても、彼に語らせる」
セリヌンティウスは叫んだ。
「語れないよ、一ピクセルは本人にしか語れない」
メロスは友の肩を掴んだ。
「必ず戻る」
「本当か」
「本当だ」
「本当に九時までに戻るか」
「戻る」
「八時五十五分とかじゃなくて?」
「八時四十五分には戻る」
「それは無理だ」
「では八時五十七分」
「刻むな」
二人は見つめ合った。セリヌンティウスは笑った。
「わかった。君を信じる。ただし、一つだけ約束してくれ」
「何だ」
「戻ったら、二十三ページ目は俺に直させろ」
メロスは泣きそうになった。
「ああ。君の手で、中央に戻してくれ」
◇ ◇ ◇
メロスは走った。
まず、妹の結婚式の二次会へ走った。恵比寿駅の改札を抜け、受付台に名簿を置き、チェキのフィルムを補充し、新郎側友人の余興PCがHDMIを認識しない問題を解き、なぜか会場のプロジェクターにも「複製」ではなく「拡張」で映っていることを直した。
妹は白いドレス姿で笑っていた。
「お兄ちゃん、来てくれてありがとう」
「当然だ」
「何か顔怖いよ」
「一ピクセルが」
「何?」
「いや、幸せになれ」
メロスは妹を抱きしめた。よい妹であった。幼い頃、メロスが自由帳の線からはみ出して塗っただけで泣いていた時も、妹は「お兄ちゃんは細かいね」と笑ってくれた。その妹が今、人生の新しいスライドへ進もうとしている。メロスは思った。妹の門出も、中央揃えであってほしい。
二次会は盛り上がった。新郎の友人が歌い、新婦の友人が泣き、司会者が「それではサプライズムービーです」と言った瞬間、会場の画面比率が四対三になった。
メロスは反射的に立ち上がった。
「待て、それは十六対九だ」
彼は走った。会場後方のAV卓へ走った。式場スタッフに頭を下げ、リモコンを奪わず丁寧に借り、画面比率を直した。映像は正しく広がった。妹の顔が不自然に縦に伸びることは免れた。参列者は拍手した。だがメロスの心は晴れなかった。
時刻は二十一時十七分。
戻らねばならぬ。
メロスは渋谷へ走り、山手線に乗ろうとした。だが、電車は止まっていた。アプリを見ると「お客様対応」とある。何の対応かはわからぬ。東京の鉄道は、ときに巨大な一旦持ち帰りである。
メロスは焦った。
タクシー乗り場へ走った。長蛇の列であった。前の男が運転手に「経費でお願いします」と言っている。経費とは、現代の山賊である。
メロスはさらに走った。レンタル自転車を探した。アプリを開いた。ログインを求められた。パスワードを忘れていた。再設定メールは来なかった。来たと思ったら迷惑メールに入っていた。メロスは天を仰いだ。
そこへ、Teamsの通知が鳴った。
セリヌンティウスからであった。
「今、部長が二十三ページ目をさらに見てる」
メロスは返信した。
「触らせるな」
すぐに返事が来た。
「もう触った」
メロスは叫んだ。
道行く人が振り返った。しかし、都会の人々はすぐに前を向く。他人の叫びに深く関与すると、面倒なことになると知っているからである。
セリヌンティウスから次の通知が来た。
「四角だけじゃない。矢印も少し下げた」
メロスの視界が赤くなった。
「なぜ止めなかった」
「止めたよ」
「何と言った」
「この矢印は中央を通した方がよいです、と」
「部長は」
「『あえて少し下げよう』と」
メロスはスマホを握りしめた。
あえて。
またしても、あえてである。あえてとは、説明できない修正に与えられる爵位である。
メロスは走った。革靴で走った。途中、靴擦れが起きた。だが止まらなかった。原作のメロスが山賊と戦ったように、現代のメロスはコンビニ前の酔客、歩きスマホの群れ、赤信号、工事中の歩道、そして「無料Wi-Fiに接続しますか」という誘惑と戦った。
途中、上司のフィロストラトスから電話が来た。フィロストラトスは、セリヌンティウスの弟子ではなく、プロジェクトのマネージャーであった。いつも困った顔で「まあ、うまくやろう」と言う男である。
「メロス君、もう戻らない方がいい」
「なぜです」
「部長が怒っている」
「知っています」
「セリヌンティウス君も、もう覚悟している」
「何を」
「役員レビューを」
「それだけはならぬ」
「でも、今なら君だけでも逃げられる。資料はセリヌンティウス君が何とかする。君は妹さんの幸せを守れ」
「フィロストラトスさん」
「何だい」
「私は妹の幸せも、友の命も、二十三ページ目の中央揃えも、すべて守る」
電話の向こうで、フィロストラトスが黙った。
「欲張りだな」
「若手なので」
「若手は便利な言葉じゃないよ」
「知っています」
メロスは電話を切った。
◇ ◇ ◇
深夜一時四十分、メロスは自宅に戻った。PCを開いた。VPNに接続した。二段階認証が来た。スマホの充電は二パーセントだった。
メロスは震えた。
「持ってくれ」
スマホは光った。認証アプリは開いた。六桁の数字が表示された。メロスは打ち込んだ。間違えた。もう一度打った。通った。
メロスは資料を開いた。
二十三ページ目は、もはや荒野であった。
三つ目の四角は右へずれ、矢印は下へずれ、注釈の吹き出しは「この辺にあった方がよい」という、誰のものとも知れぬ曖昧な意思によって漂流していた。しかも右上に、ディオニス部長のコメントが付いていた。
「もう少し魂がほしい」
メロスは天を仰いだ。
魂とは何か。図形に魂は宿るのか。宿るとして、それは中央揃えと競合するのか。メロスにはわからぬ。だが、やるしかなかった。
彼は修正した。
まず四角を戻した。次に矢印を戻した。だが単に戻すだけでは、ディオニスの修正を否定したことになる。それは政治的に危うい。メロスには政治がわからぬ。しかし、わからぬなりに、若手コンサルは生き延びねばならぬ。
メロスは考えた。
そして、三つ目の四角の中に、薄いグレーの影を一つ足した。
見た目にはほぼわからぬ。しかし、ディオニスが求めた「人間味」は、影として昇華された。四角は中央に戻りながら、部長の面子も中央に配置されたのである。
「これだ」
メロスは叫んだ。
セリヌンティウスに送った。
即座に返事が来た。
「美しい」
メロスは泣いた。
だが、まだ終わりではない。資料全体を確認せねばならぬ。三十八枚を一枚ずつ見た。フォントが一箇所だけ游ゴシックになっていた。直した。ページ番号が三十六だけ太字になっていた。直した。棒グラフの一本だけ色が違っていた。直した。最終ページの「Appendix」が「Appedix」になっていた。これは昨日の自分であった。メロスは自分を許さなかった。
気づけば、朝七時五十分であった。
役員レビューは九時。会社までは四十分。間に合う。
メロスはファイルを保存した。同期アイコンが回った。
回り続けた。
「なぜだ」
同期アイコンは回り続けた。
メロスはOneDriveを睨んだ。ネットワークは生きている。Wi-Fiも生きている。だが同期は終わらぬ。まるで王の最後の罠であった。
八時五分。
八時十分。
八時十五分。
ついに同期が終わった。
メロスは走った。
◇ ◇ ◇
その頃、三十一階の会議室では、セリヌンティウスが座っていた。
ディオニス部長は腕時計を見た。
「八時五十分だ。メロス君は来ないな」
「来ます」
セリヌンティウスは答えた。
「なぜ信じる」
「友だからです」
「友は資料より重いか」
「時と場合によります」
「正直だな」
「ただ、二十三ページ目に関しては、あいつは必ず来ます」
ディオニスは鼻で笑った。
「一ピクセルのためにか」
「一ピクセルのためにです」
「馬鹿げている」
「はい」
「くだらない」
「はい」
「そんなもののために、人は走るのか」
セリヌンティウスは少し笑った。
「部長、人はもっとくだらないもののためにも走りますよ。既読がつかないとか、弁当の唐揚げが少ないとか、レビューコメントの語尾が冷たいとか」
「理解できん」
「理解しなくていいです。ただ、彼にとってはそこが世界の中心なんです」
ディオニスは黙った。
八時五十八分。
役員たちが会議室に入り始めた。セリヌンティウスの手は震えていた。彼は資料を開いた。二十三ページ目を見る。美しい。メロスが直した版が同期されている。三つ目の四角は中央にあった。影は薄く、しかし確かにあった。
ディオニスが言った。
「時間だ」
その瞬間、会議室の扉が開いた。
メロスが立っていた。
髪は乱れ、ネクタイは曲がり、片方の靴紐はほどけていた。手にはコンビニで買ったらしいモバイルバッテリーが握られていた。息は荒く、額には汗が浮かんでいた。
セリヌンティウスは立ち上がった。
「メロス」
「遅れてすまぬ」
「一分前だ」
「八時五十九分は九時ではない」
「そういうところだぞ」
二人は笑った。
ディオニス部長は、黙って二十三ページ目を見た。
四角は揃っていた。矢印は中央を通っていた。注釈も正しい位置にあった。そして、三つ目の四角には、ほとんど見えない薄い影があった。
「これは何だ」
ディオニスが言った。
メロスは答えた。
「部長の人間味です」
会議室が静まり返った。
三人のマネージャーは、同時に「なるほど」と言った。役員の一人も「いいね、立体感がある」と言った。誰も、それが人間味なのか影なのかはわかっていなかった。だが、わからない時に頷くのが大人である。
ディオニスはしばらく黙っていた。
やがて、彼は小さく笑った。
「メロス君」
「はい」
「私は、人を信じていなかった。若手は逃げると思っていた。レビューコメントは流されると思っていた。中央揃えなど、誰も気にしていないと思っていた」
「はい」
「だが君は戻ってきた。一ピクセルのために」
「はい」
「セリヌンティウス君も、君を信じて待った」
「はい」
「私は、少し恥じた」
ディオニス部長は立ち上がった。
「私も仲間に入れてくれないか」
メロスとセリヌンティウスは顔を見合わせた。
「何の仲間ですか」
「一ピクセルを気にする者たちの仲間だ」
メロスは微笑んだ。
「もちろんです」
そのとき、ディオニス部長はマウスに手を伸ばした。
そして、二十三ページ目の四角を選択した。
メロスの顔色が変わった。
「部長?」
ディオニスは言った。
「せっかくだから、影をもう少し濃くしよう」
「お待ちください」
「いや、見えるか見えないかだと伝わらない。人間味は、もう少し伝わるべきだ」
「部長、それは人間味ではなく主張です」
「あと、この矢印も、少しだけ太く」
「セリヌンティウス」
「止めろ、メロス。役員が見ている」
「しかし」
「耐えろ」
ディオニス部長は、矢印を太くした。さらに、四角の角丸を少し強くした。ついでに、右下に小さなアイコンを足した。
「この方が、温かい」
役員が頷いた。
「たしかに」
マネージャーたちも頷いた。
「おっしゃる通りです」
メロスは、静かに目を閉じた。
世界は救われなかった。
一ピクセルは、また失われた
ここまで読んでいただきありがとうございます。
可能なら評価★と、ひと言でも良いので「刺さった点/気になった点」をコメントでいただけると執筆の励みになります。




