第9話 最後のページ
今日の台本は、持って行かない。
嘘。鞄の底に入れた。捨てられなかった。百十二回修正した羊皮紙の束を、革鞄の二重底に押し込んだ。持って行かないと決めたはずなのに、手が勝手に鞄を開けた。
情けない。笑えるくらい情けない。
深紅のドレスを着た。手袋を嵌めた。鏡を見た。悪女の顔が映っている。でも今日は少しだけ違う。目の奥に、覚悟がある。どちらの覚悟かは、自分でもわからないけれど。
◇◇◇
王城の外交交渉の間。
長い楕円形のテーブルに、両国の外交官が向かい合って座る。王国側にはアルベルト殿下を筆頭に、外交官五名。ルクセイア側には。
扉が開いた。
レナード・クロイツが、ルクセイア外交団の正式な一員として入ってきた。
知っていた。昨夜の打ち合わせで聞いていた。レナードは密偵としての身分を捨て、正規の外交官として交渉の場に立つ。もう隠れない。もう裏から動かない。表に出る。
それが、二人の台本の最終ページだった。
殿下の隣に、マリアンヌがいた。正式な同席者ではないはずだが、殿下の婚約者候補として特別に許可を得たのだろう。グレーテ侯爵夫人も後方の席にいる。
私はクロイス公爵家の令嬢として、傍聴席に座った。発言権はない。ただの傍聴者。
のはずだった。
交渉が始まった。両国の国境問題、通商条約、そして戦争回避のための和平条件。
ルクセイア側が条件を提示した。穏当な内容。前の人生では、この条件が提示される前にセレスティアが処刑され、暗号書簡の解読者がいなくなり、交渉自体が崩壊した。
今は違う。交渉は進む。私が生きているから。
ところが。
「その条件には、重大な問題がございます」
マリアンヌの声が響いた。
立ち上がっている。優美な微笑みを浮かべて、王国側の見解を「補足」するという形で、ルクセイアの条件に異議を唱え始めた。
台本より早い。マリアンヌの妨害はもっと後の段階だと想定していた。けれど彼女は追い詰められているからこそ、前倒しで動いた。
マリアンヌの「補足」は巧みだった。王国の利益を守るという大義名分の下に、和平条件を骨抜きにする修正案を滑り込ませている。殿下が頷いている。殿下には、マリアンヌの言葉が正論に聞こえているのだ。
レナードと目が合った。一瞬だけ。彼の目が言っている。今だ。
「発言の許可をいただけますでしょうか」
声を出した。傍聴席から。
広間が静まった。傍聴者に発言権はない。異例の事態。
殿下が眉をひそめた。「セレスティア、傍聴席からの発言は」
「承知しております、殿下。ですが、ヴァイス嬢の補足に重大な事実の誤認があります。このまま進めれば、和平交渉そのものが破綻いたします」
マリアンヌの目が鋭くなった。
レナードが立ち上がった。ルクセイア側から。
「王国のクロイス嬢の発言を支持します。我が国の外交記録に基づき、事実関係を補足させていただきたい」
二方向。内側からと外側から。二人の台本の最終ページ。
レナードが証拠を出した。ルクセイアの外交記録。マリアンヌが過去二年間にわたって、和平交渉を妨害するための情報操作を行っていた痕跡。グレーテ侯爵夫人を通じた、ルクセイア側への偽情報の流布。
広間の空気が変わった。殿下の顔色が変わった。
マリアンヌが立ち上がった。
「それは捏造です! クロイス嬢、あなたは——あなたは最初から、私を陥れるつもりで——」
声が震えている。完璧だったマリアンヌの仮面が、崩れている。
「あなたは最初から私を潰すつもりだったのでしょう!」
その言葉が、胸に刺さった。こめかみの血管が脈打っている。呼吸が浅い。
台本にはそう書いてある。マリアンヌの影響力を削ぎ、冤罪工作を未然に防ぎ、和平交渉を成功させる。そのために、マリアンヌの計画を一つずつ潰してきた。
台本通りなら、ここで微笑んで「お気の毒に」と言う。
でも。
鞄の底に手を伸ばした。革鞄の二重底。台本の羊皮紙の束。
取り出した。
全員の視線が集まる。暗号で書かれた羊皮紙。誰にも読めない。レナードにも完全には読めなかった、私の台本。
蝋燭の炎を一本、取った。
台本に火をつけた。
羊皮紙が燃え始めた。端から炎が広がり、暗号の文字が光に溶けていく。
最後のページの文字が、炎の中に浮かんだ。暗号が熱で変色し、一瞬だけ読めた。
『マリアンヌを救う』
「もう台本はいりません」
声が出た。震えていない。初めて、震えていない声。
マリアンヌを見た。
「私はあなたを潰したかったんじゃない。あなたに潰される前に、王国を救いたかっただけ」
マリアンヌの目が見開かれた。
「台本の最後のページには、あなたを救う、と書いてありました。あなたの家族が没落しかけていることを知っていたから」
嘘ではない。前の人生の記憶で知っていた。マリアンヌが手段を選ばなかった理由。没落寸前の家族を救うためだった。
マリアンヌの膝が折れた。椅子に崩れるように座り込む。目から涙がこぼれた。今度は演技ではない涙。
広間が静まり返った。
◇◇◇
「セレスティア」
交渉が一時休憩になった後、レナードが廊下で声をかけてきた。
「台本、燃やしたな」
「ええ」
「百十二回修正した台本を」
「ええ」
レナードが私の前に立った。廊下の窓から光が差している。高い位置にある窓。この窓からの景色は。
息が詰まった。
処刑台から見えた景色と、同じだ。
同じ窓。同じ角度。同じ光。前の人生で最後に見た景色が、今ここに。
でも今、私はここに立っている。首を落とされるのではなく、立っている。
「レナード」
名前を呼んだ。
「この窓からの景色。前は、最後に見た景色だった」
レナードが窓を見た。それから、私を見た。
「今は、最初に見る景色だ」
そう言って、右手の指でペンを回す仕草をした。でも手にペンはない。指だけが空を回っている。制御を失っている。
「俺の任務にお前を好きになる項目はなかった」
「……それは、報告書にどう書くの」
「書かない。これは任務じゃないから」
不器用な告白。密偵らしく、回りくどく、それでいて言葉の芯だけは、真っ直ぐだった。
奥歯の裏側が痺れた。泣くのとは違う。笑うのとも違う。感情に名前がつかないまま、顎の奥が震えている。
「私も、台本に書いていなかった」
それだけ答えた。それだけで十分だった。
窓から差す光が、二人の影を廊下に落としている。前の人生で最後に見た景色の中に、今、二人分の影がある。
台本はもうない。灰になった。
でも、灰の中から残ったものがある。最後のページに書いた言葉と、台本に書けなかった感情。
それだけあれば、大丈夫。




