第8話 台本を捨てろ
台本の最後の修正。これで、百十二回目。
夜も更けた自室で、蝋燭の灯りに目を細めながら羊皮紙に向かっている。最終計画の前夜。明日、ルクセイアとの外交交渉の場が設けられる。マリアンヌの外交妨害の証拠を突きつけ、王国の存亡に関わる真実を明かす。
台本のクライマックス。最も重要な場面。一文字の間違いも許されない。
だから修正する。百十二回目。転置表の配列を確認し、暗号の整合性を検証し、想定される反論への対処を書き出す。完璧に。完璧でなければ。
「それ、今夜中に終わるのか」
レナードの声。窓際の椅子に座っている。今夜も裏庭から入ってきた。もう、鎧戸を開けておく習慣ができてしまった。
「終わらせます」
「百十二回目の修正が終わったら、百十三回目を始めるんだろう」
返事をしなかった。図星だから。
レナードが椅子から立ち上がった。足音が近づく。机の横に立つ。私の手元を見下ろしている。
「セレスティア。台本を捨てろ」
ペンが止まった。
「……何を言っているの」
「台本を捨てろ。お前は台本なしでも戦える」
「台本がなければ私はただの」
言いかけて、止まった。ただの何だ。ただの無力な女。前の人生で、何もできずに処刑された女。善良で、正直で、信じやすくて、そして死んだ女。
「台本にないことを言うな」
声が低くなった。悪女のトーン。けれどレナードには通用しない。この男は最初から、私の悪女が演技だと知っている。
「台本に書いてあることしか言えないなら、お前はいつまでも台本の奴隷だ」
「奴隷じゃない。これは武器よ。この台本がなければ王国は」
「王国を救うのは台本じゃない。お前だ」
レナードの声が、いつもの皮肉を含んでいなかった。真っ直ぐで、硬い声。密偵が本気で言う時の声。
「台本があったから噂が暴走しただろう。台本があったからフローラを傷つけただろう。台本は万能じゃない。お前が台本を超えた瞬間のほうが、いつだって正しかった」
使用人の子供に駆け寄った時。フローラの噂を収拾した時。泣いた時。
台本に書いていない行動。計画の外にあった善意。
「……台本がなかったら、私は前と同じように失敗する」
「失敗するかもしれない。しないかもしれない。でも台本に書いてあることだけやる女は、面白くない」
面白い。また、その言葉。
「台本がなくてもお前は面白い女だ」
レナードの右手の指が動いている。ペンを回す仕草。制御を失っている。本人は気づいていない。
返す言葉が見つからなかった。台本にない台詞を求められている。台本にない感情で答えろと言われている。
「……考えさせて」
それだけ言うのが精一杯だった。
◇◇◇
レナードが去った後、一人で机に向かっていた。
台本を開いている。でもペンは動かない。百十三回目の修正に入れない。
ノックの音がした。こんな夜更けに。
「誰」
「……父だ」
お父様。
扉を開けた。エルヴィン・フォン・クロイス公爵が立っていた。長身の、髪にわずかに白いものが混じった男。寝間着の上に上着を羽織っている。
「こんな時間に何を……」
「灯りが漏れていた。お前の部屋から、毎晩。リリアーナが心配していてな」
父は部屋に入り、机の上の羊皮紙を見た。暗号で書かれているから読めないだろう。でも、量に目を見開いた。
「……セレスティア。お前は最近、変わった」
「ええ。変わりましたわ、お父様」
「社交界での振る舞い。婚約辞退。毎晩の作業。お前が何をしようとしているのか、父にはわからん」
父の声が低い。怒っているのではない。心配しているのだ。この人は昔からそうだ。心配が怒りに見える不器用な人。
「お父様。私は」
何を言えばいいのか。台本のことは言えない。前の人生のことも言えない。悪女を演じていることも、密偵と共謀していることも。
「言えないなら、言わなくていい」
父が私の頭に手を置いた。大きな手。温かい。
「お前が何をしようとしているのかはわからんが、お前がお前でなくなるなら、父は止める」
お前がお前でなくなるなら。
その言葉が、胸の奥に落ちた。重くて、温かくて、まぶたの裏側がじんと痺れた。
「……お父様」
「何だ」
「蜂蜜入りの温めた葡萄酒を、いただけますか」
父が少し驚いた顔をした。それから、不器用に笑った。
「台所に行って温めてくる。待っていろ」
父が部屋を出て行った。足音が廊下に遠ざかる。
一人になった部屋で、台本を見つめた。
百十二回修正した台本。完璧を目指した台本。でも、完璧にはなれなかった。一人では暴走し、二人でも万全ではなく、百十二回直しても不安が消えない。
レナードの言葉が蘇る。「台本を捨てろ」。
父の言葉が重なる。「お前がお前でなくなるなら」。
台本を握りしめた。羊皮紙がかすかに軋む音がした。
そして、少しだけ、手の力を緩めた。
握りしめるのをやめたわけじゃない。ただ、少しだけ。
父が葡萄酒を持って戻ってきた。銀の杯に、湯気が立っている。蜂蜜の甘い匂い。
受け取って、一口飲んだ。温かかった。前の人生の処刑前夜にも、この味が出された。あの時は一口も飲めなかった。
今夜は、飲める。
「お父様」
「何だ」
「明日、大切な用事があるの。うまくいくかわからない。でも、行ってきます」
父は黙って頷いた。何も聞かなかった。
台本を引き出しにしまう。鍵をかける。明日、これを持って行くか、それとも。
まだ、決められない。
でも、手の力を緩められたことは、小さな進歩だ。




