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悪女の台本  作者: 秋月 もみじ


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第7話 二人の台本


 羊皮紙を広げた。今度は、二人分のインクの匂いがする。


 夜。私の自室。窓の鎧戸を閉め、蝋燭を二本だけ灯す。レナードは使用人の目を避けて裏庭から入ってきた。密偵は忍び込むのが職業だから、侵入経路の確保は任せてある。


 「グレーテ侯爵夫人の情報網、全体像が見えてきた」


 レナードが自分のメモを広げた。左利きの斜めの文字。ルクセイア語と王国語が混在している。


 「夫人の情報網は三層構造だ。表層は社交界の噂話。中層は使用人間の口伝え。そして深層。これが厄介だが、商人ギルドを介した金の流れの監視」


 「深層は知らなかった」


 前の人生でも、侯爵夫人の情報網は知っていた。でも深層までは見えなかった。処刑されるまでの三年間では、そこまで辿り着けなかった。


 「お前の台本にない情報だろう。俺がいる利点はここだ。外からしか見えない構造がある」


 その通り。一人の台本では、内側の視点しか持てない。


 台本を書き直す。元の台本の余白に、レナードの情報を暗号で書き加えていく。赤いインクは私、黒いインクはレナード。二色の文字が羊皮紙の上で絡み合う。


 「ここ。商人ギルドの監査記録に、マリアンヌの裏工作の痕跡がある。侯爵夫人がマリアンヌの代わりに処理した記録だ」


 「それを第三者の手に渡す。匿名で」


 「誰に?」


 「王家直属の監査官。侯爵夫人の影響が及ばない人物を一人知っている」


 レナードがペンを止めて、私を見た。


 「前の人生で知ったのか」


 「……ええ。裁判の時に、味方になってくれそうだった人。でも、間に合わなかった」


 間に合わなかった。その言葉の重さを、レナードは何も聞かずに受け取った。ペンを動かし始めた。


◇◇◇


 二人の台本が形になるまで、三晩かかった。


 レナードが外交筋から情報を集め、私が社交界の内側から工作する。二方向からの挟撃。一人ではできなかった形。


 三晩目の夜。計画が完成に近づいた頃、私は暗号の修正に没頭していた。十九ページの第三暗号層の転置表に誤りがあることに気づいて、書き直しを始めた。


 ペンが走る。インクの匂い。羊皮紙の繊維が指に引っかかる。心地よい没入。このまま。


 「おい」


 レナードの声。遠い。


 「おい、セレスティア」


 顔を上げた。レナードが腕を組んで椅子の背にもたれている。蝋燭が一本消えている。もう一本も短い。


 「今、何刻だと思う」


 「……まだ宵の口じゃ」


 「深夜の三刻だ。二時間前に話しかけたが返事がなかった」


 二時間。


 蝋燭の長さを見た。確かに、短い。窓の外は真っ暗。


 「……すみません」


 「お前、密偵より潜伏能力が高いな。存在ごと消えるのか」


 皮肉だった。でも声のトーンに棘がない。むしろ、呆れと、それから、何か別の感情が混ざっている。心配、に近い何か。


 「暗号に没頭すると、周りが見えなくなるんです。前からそうで」


 「知っている。三晩見ていればわかる」


 三晩。この男は三晩、私の癖を観察していたのか。密偵の職業病にしても。


 「食事は」


 「……取りました」


 「本当か?」


 レナードが立ち上がり、机の隅に置かれた盆を指差した。スープと白パン。冷めきっている。


 「リリアーナ嬢が一時間前に持ってきた。お前は頷いただけで手をつけていない」


 言われてみれば、空腹だ。胃が鳴った。恥ずかしい。


 「……いただきます」


 冷めたスープを飲んだ。干し肉のスープ。塩が足りない。前と同じ味。唇の端が上がった。


 「何がおかしい」


 「この厨房、三年経ってもレシピが変わらないんだなと思って」


 「三年?」


 しまった。前の人生の記憶が口に出た。


 「……何でもありません」


 レナードが目を細めた。追及しなかった。代わりに、自分のメモに何かを書き加えた。何を書いたかは見えない。


◇◇◇


 計画を実行したのは翌日だった。


 商人ギルドの監査記録の写しを、王家監査官に匿名で届けた。レナードが外交郵便のルートを使って、出所がわからないように処理した。


 三日後。


 侯爵夫人の社交サロンから、二人の有力貴族夫人が距離を置いた。記録の内容が水面下で検証され、夫人の「公正な裁定者」としての信用に小さな亀裂が入ったのだ。


 マリアンヌの後ろ盾に、初めてひびが入った。


 夜会で確認した。マリアンヌの周囲に集まる令嬢の数が、先週より明らかに減っている。マリアンヌ本人はいつもの微笑みを崩していない。けれど握っている扇の骨が、白くなるほど力が入っている。


 台本通り。いや、二人の台本通り。


 広間の反対側で、レナードと目が合った。一瞬だけ。外交官の作り笑いの奥に、ほんの少しだけ本物の笑みが混じっていた。


 目をそらした。耳の後ろが冷たくなって、そこから首筋に何かが降りてくる。脈が速いのか遅いのかもわからない。ただ、体温の地図が変わった感覚。それが何を意味するのかは、考えないことにした。


◇◇◇


 帰宅後、台本を開いた。


 二色のインクで埋まった羊皮紙。赤と黒。私とレナード。


 一人の台本では、ここまで来れなかった。フローラを傷つけ、暴走し、崩壊しかけた。


 二人の台本には、一人では見えなかった道がある。


 でも。


 一人で書いていた時には必要なかった感情が、紛れ込み始めている。レナードの筆跡を見ると、指先が温かくなる。レナードの皮肉を聞くと、胸の奥の重さが少しだけ軽くなる。


 台本に感情欄はない。書き込む場所がない。


 書き込む場所がないのに、感情は勝手に増えていく。


 羊皮紙の端に、無意識に冬薔薇の絵を描いていた。いつの間に。消そうとして、消さなかった。


 台本の余白に余計なものが増えていく。


 それが嬉しくもあり、怖くもある。


 嬉しいと感じること自体が、一番怖いのだ。

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