第6話 仮面の下
「あなたは本当に悪い人なのですか」
フローラの声は静かだった。責めているのではなく、本当にわからないから聞いている、という声。
昼下がりの中庭。白い石のベンチに座ったフローラと、立ったままの私。庭師が遠くで薔薇の剪定をしている。鋏の音が規則的に響く。
二日前の夜会の後、フローラの評判は少しずつ回復していた。私が裏で手を回したからだ。匿名で侯爵夫人に「メルツ嬢の噂は根拠がない」と通知した。台本にない修正作業。余計な手間。でもそうしなければ、胃の重さが消えなかった。
けれどフローラ本人は、自分の評判が回復した理由を知らない。知っているのは、ある日突然噂が広がり、ある日突然収まったという不可解な事実だけ。
そして今、目の前で問うている。あなたは悪い人なのですか、と。
「ええ」
答えた。台本通りに。声のトーンを半音下げて、微笑みを浮かべて。
「私は悪い女ですわ、メルツ嬢。ですから、あまり近づかないほうがよろしいですのよ」
完璧な悪女の台詞。冷たくて、突き放すような。
声が震えた。
最後の「よ」の音が、ほんの少しだけ揺れた。自分でわかった。わかったのに、取り繕えなかった。
フローラが私の顔を見上げた。
「クロイス嬢。あなたの目が、今、濡れています」
嘘だ。泣いていない。泣いているはずがない。悪女は泣かない。台本に「泣く」とは書いていない。
手袋の中で爪を立てた。掌の傷の上に、新しい痛み。
「光の加減ですわ。では、失礼」
踵を返した。早足で。走ってはいない。走ったら悪女の品格が崩れる。でも歩幅が大きい。裾が石畳を掃く音がせわしない。
◇◇◇
庭の奥、生垣の陰に入った。
誰もいない。誰にも見えない。
膝が折れた。地面に手をついた。手袋越しに土の冷たさが伝わる。
泣いていた。
いつから泣いていたのかわからない。フローラの前で? それとも今? 涙が手袋の甲に落ちて、革に染みを作る。
「違う」
声が出た。
「私は、悪い人なんか、悪い人だ、でも違う、あの子の膝の血、フローラの目、なんで、なんで善人のままじゃ」
言葉が壊れていく。主語がない。述語が行方不明になる。善人のままじゃ、何だ。善人のままじゃいられなかった。善人だったから殺された。だから悪女になった。悪女になったのに泣いている。おかしい。おかしいのは私。おかしいのは全部。
「善人は、死ぬ」
それだけが、はっきり出た。あとは嗚咽に潰された。土の上で手袋が汚れていく。涙と鼻水が止まらない。悪女の顔が溶けていく。
「知っていた」
声がした。背後から。
鎖骨の下がきゅっと縮んだ。体が固まる。振り向く。
レナード・クロイツが、生垣の向こうに立っていた。
涙を見られた。崩れたところを見られた。最悪だ。台本の中で最も見られてはいけない人間に、最も見られてはいけない瞬間を。
「……何を、見て」
「泣いているところを。それと、悪女の仮面が外れたところを」
レナードの声に嘲りはなかった。同情もなかった。ただ、事実を述べている。密偵の報告のように。
「お前の台本、見せろ」
台本。
この男は、台本の存在を知っている。いつから。どうやって。
「……何のことですの」
「夜中に自室で羊皮紙に暗号を書いている令嬢は珍しい。部屋に忍び込んだ時に見た。全部は解読できなかったが、構造はわかる。計画書だ。それも、社交界の動きを先読みした、異常に精密な計画書」
部屋に忍び込んだ。やはり密偵だ。
逃げるべきか。否定すべきか。台本をどう守るか。考えが纏まらない。
「安心しろ。中身は完全には読めていない。お前の暗号は優秀だ。だが、構造を見れば目的はわかる」
レナードが一歩近づいた。生垣の影から午後の光の中へ。灰色がかった金髪が陽に透けている。
「あれは復讐の計画じゃない。救出計画だ」
息が止まった。
「何を……」
「暗号の構造に攻撃パターンがない。配置されているのは全部、回避と誘導と保護だ。お前は誰かを潰す計画を書いたんじゃない。誰かを守る計画を書いた」
この男は。
暗号を完全に解読できなかったくせに、構造だけで本質を見抜いた。
膝の力が抜けた。座り込んだまま、レナードを見上げている。涙が乾き始めた頬が、風に冷たい。
「……見せなければ、どうなりますの」
「俺はルクセイアの密偵だ。お前がそれを知っているかは知らんが、今名乗った。これで対等だ」
密偵。やはり。前の人生で出会わなかった男。台本にいない存在。
「なぜ、自分の正体を明かすんですの」
「お前が泣いていたからだ」
レナードの右手の指が動いている。何かを回す仕草。ペンを回す癖。密偵がこんな分かりやすい癖を見せるのは、制御を失っているからだ。
「……台本を見せたら、あなたは何をするの」
敬語が崩れた。自分でも気づいた。でも直さなかった。
レナードが膝をつき、私と目線を合わせた。
「俺は戦争を止めたい。お前は王国を救いたい。利害は一致する」
利害の一致。密偵らしい言い方。でも目が、目だけが、それ以上のことを言っている。
台本を引き出しから出したのは、その夜のことだった。
◇◇◇
自室の机に、二人分の椅子。蝋燭の灯りの下で、羊皮紙を広げた。
レナードが一枚ずつ読んでいく。暗号を解読しながら、時折メモを取る。指が速い。左利き。ペンの持ち方が独特で、文字を書く角度が斜めになる。
私は向かいに座って、レナードの表情を観察していた。密偵に台本を見せるなど、正気の沙汰ではない。わかっている。
でも、一人では台本が暴走する。それは証明された。
「……なるほど。最後のページは暗号の種類が違う」
「そこは読まないで」
「読めない。別系統の暗号だ。ただ」
レナードがペンを止めた。
「最後のページだけ、インクの染みが多い。書く時に手が震えていただろう」
答えなかった。答える代わりに、手袋の中で掌を握った。
「クロイス嬢」レナードが言いかけて、首を振った。「セレスティア」
名前で呼ばれた。初めて。
「お前は一人で全部を背負おうとしている。だから台本が暴走する。一人の計画は盲点が多い。俺にできることがある」
「……信じていいの」
「信じなくてもいい。利害が一致すれば十分だ」
密偵の言葉。でも、声のトーンが半音高い。本人は気づいているだろうか。
「わかりました。ただし、条件があります」
「聞こう」
「最後のページは読まないこと。あれは私だけのものです」
レナードが少し間を置いて、頷いた。
「約束する」
蝋燭の芯が爆ぜた。影が揺れた。
共犯関係が、始まった。




