第5話 台本の暴走
台本の十七ページ目。ここに書いていない人間が、動いている。
自室の机に向かい、暗号で書かれた台本を睨んでいた。蝋燭の灯りが揺れるたびに、文字の影が形を変える。
問題は明らかだった。レナード・クロイツ。
婚約辞退の翌週、私は台本の次の段階に進んだ。マリアンヌがグレーテ侯爵夫人を通じて仕掛ける「品位審査での排除」を先回りする工作。具体的には、侯爵夫人の情報網に偽の噂を流し込み、マリアンヌの次の一手を空振りさせる。
証拠のすり替え。侯爵夫人が保管する社交記録の一部を、私に有利な内容に差し替える。前の人生で、この記録が冤罪の根拠になったことを知っている。だから先手を打つ。
計画は完璧だった。はずだった。
差し替えた記録が、翌日には元に戻されていた。
誰が。どうやって。
答えは一つしかない。レナード・クロイツの報告が、どこかのルートで侯爵夫人側に伝わっている。敵国の外交官が王国の社交界の動きを監視し、報告している。そしてその報告が、別の誰かの耳に入り、私の工作を無力化した。
台本に書いていない連鎖。前の人生にはなかった変数が、計画を狂わせている。
◇◇◇
それだけなら、まだ立て直せた。
問題は、巻き添えだった。
フローラ・フォン・メルツ。伯爵家の末娘で、今期の社交界デビュー組の一人。控えめで、目立たない令嬢。前の人生では、特に接点がなかった。
私が侯爵夫人の情報網に流した偽の噂、それが予期せぬ経路で広がり、フローラの評判を傷つけた。「メルツ伯爵令嬢が王子との縁談を裏で画策している」という、事実無根の噂。
私が流した噂の原型は違うものだった。ところがルクセイアの外交筋経由で変質し、フローラの名前が紛れ込んだ。
台本には「ヴァイス嬢の計画を空振りさせる」と書いてあった。「メルツ嬢を傷つける」とは、どこにも書いていない。
フローラは夜会で孤立した。挨拶を交わす令嬢が激減し、ダンスの誘いもなく、壁際でグラスを握りしめていた。
私はその光景を、広間の反対側から見ていた。
舌の付け根に苦い味が広がった。指先の感覚が薄れていく。膝の裏に汗が滲んで、立っているのに地面が揺れている気がした。
台本を頭の中で開いた。十七ページ、十八ページ、十九ページ。フローラの名前は、ない。この被害は、台本の想定外。私の計画が生んだ、想定外の結果。
台本通りにやれば、誰も傷つかないはずだった。
そう、書いたじゃないか。三日目の夜に。「これで全員救える」と。全員。フローラも含めて。
なのに。
◇◇◇
夜会の後、フローラが庭に出ていた。月明かりの下で、泣いてはいなかった。ただ、唇を噛んで空を見上げていた。
通り過ぎるべきだった。悪女は通り過ぎる。
足が止まった。
フローラが振り向いた。目が赤い。泣いた後の目。
「クロイス嬢……」
声が掠れている。何を言えばいい。台本にない場面で、台本の生み出した被害者に対して、何を。
「あら、メルツ嬢。夜風が冷たいですわね」
悪女の台詞が口をついて出る。冷たく、素っ気なく。台本に従え。台本が私を守る。
フローラの目が、まっすぐ私を見た。
「クロイス嬢。あの噂のこと……あなたは、何かご存知なのですか」
知っている。私が原因だ。
「さあ。噂話にはあまり興味がありませんの」
嘘だ。私は噂を操る側の人間だ。台本にそう書いた。
フローラが小さく頷いた。信じたのか、信じなかったのか、わからない。
「そう、ですか。すみません、変なことを聞いて」
フローラが去ろうとした。
呼び止めるべきか。謝るべきか。「あの噂は私のせいです」と。
台本が叫んでいる。黙れ。ここで正直になったら全てが崩れる。王国の存亡がかかっている。一人の令嬢の評判と、国の命運を天秤にかけろ。
天秤にかけた。
国を取った。
フローラの背中が庭の暗がりに消えた。月明かりが薄絹のドレスの裾を銀色に染めていた。
◇◇◇
自室に戻った。
台本を開いた。十七ページの余白に、ペンを走らせた。
「想定外」
書いた。消した。また書いた。
違う違う違う、私のせいじゃ——私のせいだ。台本が。台本が正しいはずなのに。なのにフローラの目が。赤い目。あの子は何も。何も悪くないのに私が。全員救えると書いた。書いたのは私だ。嘘だったのか。嘘じゃない。嘘じゃないはずなのに、なのに、なのに。
手が震えている。インクが飛んで羊皮紙に染みを作った。
台本を続けるか、やめるか。
やめたら、前と同じだ。善人のセレスティアに戻る。善良に振る舞い、正直に生き、信じてもらえると信じて、裏切られて、処刑される。王国は滅ぶ。全員死ぬ。
続けたら、フローラのような犠牲が出る。台本に書いていない巻き添え。計画が巻き起こす波紋は、私の制御を超えている。
でも、やめるわけにはいかない。
やめたら死ぬのは私だけじゃない。王国の全員が死ぬ。前にそれを見た。見たのだ、この目で。炎の中の王都を。
台本を閉じた。
二重底の引き出しにしまった。鍵をかけた。首にかけた鍵の金属が、首筋に触れた。冷たかった。刃の記憶。
「続ける」
声に出した。震えていた。
蝋燭を吹き消した。暗闇の中で、台本の最後のページのことを思った。
あのページに書いた言葉。あれだけは、まだ正しいと信じている。信じたい。
でもフローラの赤い目が、暗闇の中にちらついて消えなかった。
台本通りにやっても、誰かが傷つく。
その事実を、私はまだ受け入れられていない。




