第4話 亀裂の兆し
あの男は、何を見ている。
昼下がりの庭園。薔薇の手入れをする庭師たちの間を縫うように散歩する振りをしていたら、東屋にレナード・クロイツが座っていた。外交官の正装ではなく、落ち着いた灰色の上着。本を読んでいる風を装っているが、本のページが進んでいない。
「クロイツ殿。お一人で読書とは、風流ですこと」
「クロイス嬢。奇遇ですね。こちらこそ、公爵令嬢がお一人で散歩とは」
奇遇ではない。お互いに。
レナードが本を閉じた。背表紙が見えた。ルクセイア語の書物。この国では手に入らないもの。
「先日の夜会では、楽しいお話をありがとうございました」
「こちらこそ。赤いドレスの件は、いまだに社交界で話題になっているそうですよ」
微笑む。悪女の微笑み。完璧に。
「ところで、クロイス嬢」
レナードの声のトーンが変わった。半音低くなる。
「昨日の夜会で、あなたの手袋の下の爪痕は見えていましたよ」
息が止まった。
奥歯の裏側が痺れるような感覚があって、それが引くまで黙っていた。微笑みは崩さない。崩していない、はず。
「何のことですの?」
「手袋の革は、血が滲むと変色するものです。左手の薬指の付け根あたり、少し赤くなっていた」
この男は何だ。外交官が、なぜそんな細部を見ている。
「お気遣いありがとうございます。手袋が合わなくて擦れただけですわ」
「そうですか。それは失礼しました」
レナードはあっさり引き下がった。でも目が笑っている。嘘だと知っていて、追及しないことを選んでいる。なぜ。
「面白い方ですね、クロイス嬢は」
また、面白い。この男はその言葉を、褒め言葉のように使う。
答えず、踵を返した。背中にレナードの視線を感じる。
この男は台本にいない。台本にいない存在が、台本のほころびを見つけている。
危険だ。でも、不思議なことに恐怖とは少し違う感覚がある。誰かに「見られている」ということが、嫌ではない。
いや。嫌ではないと感じること自体が、危険なのだ。
◇◇◇
翌日、宮廷に赴いた。
台本の四ページ目。今日の演目は、婚約辞退。
謁見の間の手前、控えの回廊で足を止めた。この廊下を前は何度も歩いた。殿下に会いに。殿下の婚約者として。
前は、この婚約を守ろうとした。守り抜こうとした。善良な婚約者であり続けようとした。そして、守れなかった。マリアンヌに奪われ、冤罪で全てを失い、婚約は破棄どころか命ごと絶たれた。
今度は自分から手放す。
殿下が待っている。控えの間で、紅茶が用意されていた。銀の茶器から湯気が立つ。この銘柄。前の人生で、殿下と最後に飲んだ紅茶と同じ。
喉の奥が詰まる感覚があった。振り払う。台本に感情欄はない。
「殿下。本日は、お時間をいただきありがとうございます」
アルベルト殿下が椅子から立ち上がった。金髪に青い瞳。正義感が強く、誠実で、そして信じた相手を疑えない人。
「セレスティア。わざわざ呼び立ててすまない。話とは何だ」
深く息を吸った。
「殿下との婚約を、辞退させていただきたく存じます」
沈黙が落ちた。
殿下の瞳が揺れた。困惑。驚き。そして、ほんの一瞬だけ、安堵。
見えた。前の人生では見えなかったもの。殿下は私との婚約を重荷に感じ始めていたのだ。マリアンヌに惹かれていることへの罪悪感と、政略婚の義務との間で。
「……理由を聞いてもよいか」
「殿下のお幸せを願えばこそ、でございます。私では殿下をお支えする器に足りませぬ」
嘘だ。本当の理由は、この婚約がいずれ私の死刑執行命令書になるからだ。でもそれは言えない。
殿下がしばらく黙っていた。紅茶が冷めていく。湯気が細くなる。
「……わかった。セレスティア、君の意思を尊重する。だが、何か困ったことがあれば言ってくれ」
優しい人だ。本当に。だからこそ、騙されるのだ。
「ありがとうございます、殿下」
微笑んだ。悪女の微笑みではなく、最後の本物の微笑みを、この人に向けた。これが殿下に見せる最後の素顔になる。
謁見の間を出た。
廊下を歩く。前は、ここで泣いただろう。今の私は泣かない。泣く代わりに、肋骨の間がぎしりと軋んだ。呼吸のたびに、何かが内側から押し返してくる。
控えの間の窓から、中庭が見えた。冬薔薇が咲いている。赤黒い花弁。処刑台の脇に咲いていたのと同じ色。
前はこの花の前を通り過ぎた。立ち止まらなかった。
今日も、立ち止まらない。台本に「花を眺める」とは書いていない。
でも、歩く速度が少しだけ落ちた。それは認める。
◇◇◇
帰りの馬車から降りたとき、門の前に人影があった。
レナード・クロイツ。
偶然を装って立っているが、外交官が他家の門前にいる理由は「偶然」では説明がつかない。
「婚約辞退のお話、もう宮廷中に広まっていますよ」
「お耳が早いですこと」
「それが仕事ですから」
同じやり取り。同じ微笑み。でも今日のレナードの目には、からかい以外の何かがあった。
「自分から婚約を手放す令嬢は珍しい。何を企んでいるのか、少し気になります」
「企みなど。ただの女心ですわ」
「女心、ですか」
レナードが首を傾げた。右手の指が無意識に動いている。何かを回すような仕草。
「では、お気をつけて。社交界は、自ら手放した者に容赦がないですから」
その言葉は忠告なのか、観察報告なのか。
門をくぐった。レナードの足音が遠ざかる。
台本を開く。四ページ目の末尾に書き加える。
「ここまでは順調」
ペンを置いて、自分の手を見た。
震えている。かすかに。
順調なのに。台本通りなのに。なぜ手が震えるのだろう。
たぶん、「手放す」ということは、二度目でも慣れないのだ。




