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悪女の台本  作者: 秋月 もみじ


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第3話 台本の第一幕


 台本の三ページ目を開いた。インクの匂いが指先に移る。


 今日の予定。マリアンヌ・フォン・ヴァイスが裏で進めている慈善事業の利権ルートを潰す。前の人生では、この利権がマリアンヌの資金源になり、社交界での影響力を決定的にした。根を断つなら今しかない。


 ドレスに着替える。今日は濃紺。侍女のリリアーナが髪を整えてくれている間に、鏡の中の自分を観察した。


 十五歳の顔に、悪女の表情が馴染み始めている。三日前よりも自然に微笑める。それが良いことなのか悪いことなのかは、考えないことにした。


 「お嬢様、ドレスの裾に少し……」


 リリアーナの声で視線を落とす。袖口に小さなインクの染み。昨夜、台本の修正をしていた時のものだ。暗号の書き換えに没頭して、袖をインク壺に浸けたことすら気づかなかった。


 「……着替えるわ」


 「はい。もう一着ご用意いたします」


 リリアーナの目が一瞬、不思議そうに細くなった。以前のお嬢様は、こんなに手が汚れるような作業はしなかったのに。そう思っているに違いない。


 言い訳は用意していない。台本には「侍女の疑念」の項目がなかった。書き足さなくては。


◇◇◇


 王都中心部、商業地区の一角にある貸事務所。


 マリアンヌが慈善事業の名目で進めている孤児院建設計画には、建設用地の取得という裏がある。孤児院を建てる土地は、来年の王都再開発計画で価値が跳ね上がる区画だ。前の人生で、私はこの事実に気づくのが遅すぎた。


 今は違う。


 計画書の控えを手に入れるのに半日かかった。商業地区の登記所で、公爵令嬢が地目変更の記録を閲覧する姿は、さぞ奇妙に映っただろう。登記係の老人が何度も目を瞬かせていた。


 「お嬢様、このような場所にお一人で来られるのは……」


 護衛の騎士が小声で言った。


 「お勉強ですわ」


 微笑んで答えた。嘘ではない。これも台本の一部。


 取得した情報を元に、再開発計画の担当官、マリアンヌの影響が及んでいない人物を特定した。手紙を書く。差出人は匿名。内容は「孤児院用地の取得目的に疑義あり。再開発区画との重複を調査されたし」。


 直接手を下さない。火をつけるだけ。あとは制度が勝手に動く。


 台本通り。


◇◇◇


 帰路で、使用人街を通った。


 公爵家の裏手にある小さな通り。洗濯物が軒先に干してある、庶民の生活の匂いがする道。近道として使っているのは、台本に「目立たない移動経路」と書いたからだ。


 子供の泣き声がした。


 角を曲がった先に、小さな男の子がうずくまっていた。膝を擦りむいている。石畳に躓いたらしい。傍に大人はいない。


 足が止まった。


 台本には、こんな場面は書いていない。


 通り過ぎればいい。悪女は子供の怪我など気にしない。通り過ぎて、台本の次のページに進む。それが正しい。


 でも、膝から血が滲んでいる。小さな膝。赤い血。泣き声。


 気がついたら、しゃがんでいた。


 「大丈夫? ここ、痛い?」


 声が出ていた。手袋のまま、子供の膝の砂を払っている。自分の声が、自分のものじゃないように柔らかい。十五歳の声。十八歳の記憶を持たない、ただの十五歳の女の子の声。


 子供が涙で濡れた目で私を見上げた。


 「お姉ちゃん、だれ?」


 「……誰でもないわ。ほら、立てる?」


 子供の手を取って立たせた。小さな手。温かくて、少し湿っている。


 背後に気配を感じた。


 振り返る。使用人街の角に、誰かがいた。いや、もういない。見間違いかもしれない。


 咳払いをした。手袋を直す。表情を戻す。悪女の微笑み。


 「……服が汚れると始末が面倒ですから。それだけのことですわ」


 誰に言っているのだろう。子供は、もう走り去っていた。


 残されたのは、手袋についた砂埃と、胃の奥にじわりと広がる温かさと、その温かさが怖いという、妙な感覚。鎖骨の下がきゅっと縮んだ。優しさの残滓が、悪女の器に収まりきらない。


 悪女は子供を助けない。台本に書いていない行動は、計画を狂わせる。


 わかっている。わかっているのに、膝の血を見たら身体が勝手に動いた。


 前の人生で、処刑台に向かう途中に聞いた泣き声を思い出す。群衆の中に子供がいた。泣いていた。あの子は、誰の子だったのだろう。


 やめよう。今は考えない。


◇◇◇


 夕方、リリアーナが報告してくれた。


 「お嬢様、ヴァイス家が進めていた孤児院計画に、登記所から照会が入ったそうですわ。再開発区画との重複が問題視されているとか」


 マリアンヌの計画が空振りに終わる。利権の取得は白紙に戻る。これで彼女の資金源のひとつが断たれた。


 台本通り。


 自室に戻り、台本を開いた。三ページ目の余白に「予定外」と書き足した。


 使用人街の子供のこと。膝の血。「お姉ちゃん、だれ?」


 台本の余白に書くべきことではないのに、ペンが勝手に動いた。


 あの角にいた気配は、誰だったのだろう。


 見間違いならいい。でも、もし見間違いでなかったら。


 誰かが、悪女の仮面が外れた瞬間を見ていたことになる。


 台本を閉じた。明日は四ページ目。婚約辞退の準備に入る。


 手袋を外した。掌に砂が残っていた。子供の膝を払った時についたもの。洗えば落ちる。洗えば、何も残らない。


 でもしばらく、洗わないでおこうと思った。理由は、うまく言えない。

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