第2話 仮面舞踏会
白い手袋を嵌めた。今日から、この手は私のものじゃない。
鏡の中の少女が、微笑んだ。口角を上げ、目を細める。柔らかく、穏やかで、少しだけ冷たい笑み。練習は三日間でこなした。処刑台で覚えた唯一の技術、恐怖の中で表情を制御すること。
「お嬢様、お仕度ができました」
リリアーナが声をかけた。深紅のドレスに着替える。前の人生ではこの夜会に薄桃色を選んだ。赤葡萄酒をかけられて台無しになる色。今度は最初から、染みが目立たない色を選ぶ。
そうじゃない。今度はそもそも、かけられない。台本に書いてある。
◇◇◇
王城の大広間は蝋燭の灯りで満ちていた。
シャンデリアの光が床の大理石に反射し、令嬢たちのドレスが揺れるたびに色とりどりの影が生まれる。楽団の演奏。甘い香水の匂い。銀の盆に載った葡萄酒のグラス。
全部、覚えている。前にも見た景色。
ただ、立っている位置が違う。前は壁際で居心地悪そうにしていた。今は、広間の中央に向かって歩いている。
「あら、クロイス公爵家のお嬢様」
マリアンヌ・フォン・ヴァイスの声。柔らかく、慈愛に満ちて、そして計算通りの間で放たれる。前と同じ声。前と同じ微笑み。
「今日は素敵なドレスですのね。赤がよくお似合いですわ」
前はここで「ありがとうございます」と返した。従順に。善良に。その三十秒後に、赤葡萄酒がドレスにかかった。
今は違う。
「お褒めいただきありがとうございます、ヴァイス嬢」
微笑む。目を細める。口角を上げる。けれど瞳の温度を一段下げる。台本通り。
「赤にしたのは、万が一のことがあっても染みが目立たないからですの。社交界には、うっかり飲み物をこぼす方もいらっしゃいますものね」
マリアンヌの表情が一瞬、固まった。
周囲の令嬢たちの間に小さなざわめきが走る。私の言葉は告発ではない。ただの予防策の説明。でも、前にドレスに葡萄酒をかけられた噂を知る者には別の意味が届く。
マリアンヌは微笑みを取り戻した。さすがに立て直しが速い。
「ご心配には及びませんわ。今宵は皆さま行儀がよろしいですもの」
「ええ。そう祈っておりますわ」
お気の毒に。
その言葉は、まだ声には出さない。台本の三ページ目に書いた台詞。今夜は、まだ早い。
◇◇◇
夜会を一通り回った。挨拶を交わし、社交辞令を述べ、ダンスの誘いを丁重に断った。前の人生では、ここでアルベルト殿下が手を差し伸べてくれたのだけれど。
殿下の姿は広間の奥にあった。マリアンヌと談笑している。殿下が笑っている。前も、こうだった。私がいなくても殿下は笑う。私がいなくても世界は回る。
胃の上のあたりに、何かが引っかかっている感じ。前に感じた嫉妬とは違う。なんというか、もっと冷めた感覚。舞台の上で、自分だけが脚本を知っている俳優の孤独に似ている。
殿下は今、マリアンヌの冗談に笑っている。肩の力が抜けた自然な笑い方。あの笑顔を向けられていた頃、私はそれだけで一日を過ごせた。もう、その頃の自分には戻れない。戻りたいとも、思わない。そう思うことにしている。
殿下のことは台本に書いた通りに処理する。感情を台本に書き込む欄は、ない。
バルコニーに出た。夜風が冷たかった。星が出ている。葡萄酒のグラスを欄干に置いて、一人で空を見上げた。
「美しい夜ですね」
声がした。背後から。聞き覚えのない声。
振り返ると、男が立っていた。長身で、灰色がかった金髪。外交官の正装を着ている。けれど仕立てが微妙に違う。襟の刺繍がこの国のものじゃない。
「ルクセイア王国外交副官、レナード・クロイツと申します。クロイス公爵令嬢でいらっしゃいますか」
敵国の外交官。台本に書いていない人物。
指先がかすかに冷えた。
「ええ、セレスティア・フォン・クロイスですわ。ようこそ、我が国へ」
微笑む。悪女の微笑み。完璧に。
レナードという男は、私の微笑みを見て、笑った。
ほかの誰もがしない反応。マリアンヌは警戒した。令嬢たちはざわついた。アルベルト殿下は眉をひそめるだろう。でもこの男は、笑った。口元に浮かんだ笑みが、目にまで届いている。
「面白い」
小さな声で、そう言った。
面白い? 何が。私の微笑みが? それとも。
「先ほどのヴァイス嬢とのやり取り、拝見しておりました。赤いドレスの理由をあのように説明される方は初めてです」
見ていたのか。この男は、広間の隅から私たちの会話を観察していた。
「お耳が早いのですね、クロイツ殿。外交官のお仕事柄でしょうか」
「ええ。人の言葉を聞くのが仕事ですから」
穏やかな声。丁寧な口調。でも目が笑っている。何かを見透かすような、試すような、それでいて純粋に楽しんでいるような。
この男は、危ない。
台本に書いていない。前の三年間に存在しなかった人間。計画の外にいる変数。
「それでは、良い夜をお過ごしくださいませ」
踵を返した。背中にレナードの視線を感じながら、広間に戻る。足取りは乱さない。微笑みも崩さない。
でも耳の後ろがじんと冷たくなっていた。警戒が、身体の奥に染みている。
◇◇◇
馬車の中で手袋を外した。
掌に、三日月形の跡が四つ。赤く腫れている。
「お嬢様」
向かいに座ったリリアーナが、私の手を見た。何も言わなかった。ただ、小さな軟膏の瓶を鞄から取り出して差し出した。
「……ありがとう」
軟膏を塗りながら、考える。
今夜の収穫。マリアンヌの出方を確認した。予想通り、前と同じパターンで来る。台本通りに対処できる。
そしてひとつ、想定外。
レナード・クロイツ。ルクセイアの外交副官。台本に書いていない名前。前の三年間には出会わなかった男。
前は、出会う前に死んだのかもしれない。
あの男は、何を見ている。
私の悪女の仮面の、どこに笑ったのか。
窓の外で、銀木犀の甘い匂いがかすかに揺れた。前と同じ匂い。けれど今夜は、少しだけ息が吸いやすかった。
演技は、思ったより身体に来る。でも、少なくとも今日は、死ななかった。
それだけで、十分だ。




