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悪女の台本  作者: 秋月 もみじ


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第1話 処刑台の記憶


 首が落ちる瞬間、不思議と痛みはなかった。


 冷たい石の上に額を押しつけられたとき、頬に触れた露のほうがよほど鮮明だった。朝露だ。処刑は夜明け直後に行われる。それだけのことを、私は三年かけて知った。


 群衆の声が遠い。泣いている人がいた。誰だろう。私のために泣く人が残っていたとは思えなかったのに。


 視界の隅に、赤黒い花弁が揺れている。冬薔薇。季節外れの薔薇が、処刑台の脇に一輪だけ咲いていた。


 ああ、きれいだ。


 いや、違う。きれいだとか、そういうことじゃない。


 私は死ぬのだ。


 冤罪で。


◇◇◇


 目を開けた。


 天蓋が見えた。白い、刺繍入りの天蓋。見覚えがある。私の部屋の、私の天蓋。けれど三年前に見た天蓋だ。刺繍の銀糸がまだ新しい。日焼けしていない。


 身体が、小さい。


 手を持ち上げた。爪が短い。手袋の跡がない掌。ペンだこもインクの染みもない、十五歳の手。


 首筋に手をやった。冷たかった。でも、傷はない。刃の感触も、ない。


 しばらく、天井を見つめていた。


 窓の外で小鳥が鳴き始めて、ようやく理解が追いついた。


 戻ったのだ。三年前に。


 理由はわからない。理屈もわからない。でも首筋の冷たさだけが、あれが夢ではなかったと教えている。


◇◇◇


 ベッドから降りた。足が震えていたので、壁に手をついた。


 鏡があった。十五歳の私が映っている。頬はまだ丸い。瞳の下に隈はなく、髪も艶がある。三年分の疲労も、牢獄の痩せも、ここにはない。


 指先で頬に触れた。温かい。生きている肌の温度。


 泣きそうになって、唇を噛んだ。今は泣いている場合じゃない。何に泣きたいのかが自分でもわからなかった。安堵なのか、恐怖なのか、それとも、もう一度やり直せることへの途方もない重さなのか。


 机の上に羊皮紙の束があった。白紙の羊皮紙。インク壺。ペン。十五歳の私の勉強道具。


 椅子に座った。


 ペンを取った。インクの匂いがした。鉄と樹脂の混ざった匂い。安心する、と思った。安心している場合じゃないのに。でも手が勝手に動いた。


 書き始めた。


 前の三年間で起きたことを、全部。


 マリアンヌ・フォン・ヴァイスが社交界デビューの夜会で私に仕掛けた最初の嫌がらせ。飲み物をこぼされた。薄桃色のドレスに赤葡萄酒の染みが広がっていくのを、マリアンヌは手で口を覆いながら見ていた。あの手の下で、唇が笑っていたことを私は知っている。


 アルベルト殿下が彼女の涙に動かされて、私との婚約に距離を置き始めた日。グレーテ侯爵夫人が品位審査で私を落とそうとした手回し。慈善事業の利権を横取りされた経緯。冤罪の告発。裁判。処刑。


 全部書いた。


 誰が。いつ。何をしたか。


 ペンを走らせながら、前の私が何を間違えたのかを考えた。善良でいた。正直でいた。嘘をつかなかった。助けを求めた。信じてもらえると思った。


 それがすべての間違いだった。


 そして、私が処刑された後に王国で起きたことも書き記す。ルクセイア王国との外交交渉が決裂したこと。暗号書簡を解読できる者が誰もいなくなったこと。戦争。王都の炎。処刑の直前に看守が漏らした噂話が、私の最後の情報だった。


 「お嬢様の解読がなきゃあ、この国は終わりだったって話ですがね」


 看守はそう言って、気まずそうに目をそらした。私の首を落とす準備をしながら。


◇◇◇


 三日かかった。


 一日目は記憶の奔流をそのまま紙に叩きつけた。順番も構成も無視して、思い出すままに。指がインクで黒く染まり、爪の間にまで入り込んだ。


 二日目は整理した。時系列に並べ直し、因果関係を矢印で繋ぎ、「ここで私が別の選択をしていたら」という分岐点に印をつけた。分岐点は十一箇所。そのすべてで、私は「善い人間」の選択をしていた。


 食事を運んできたリリアーナが「お嬢様、お顔の色が……」と声をかけた。


 「大丈夫よ」


 そう答えた気がするが、リリアーナの表情までは覚えていない。インクの匂いと羊皮紙の繊維が指に引っかかる感触しか、あの三日間には残っていない。


 干し肉のスープが盆に載っていた。一口だけ飲んだ。塩が足りなかった。前と同じ味。厨房のレシピは三年後も変わらないらしい。その事実がなぜか少しだけおかしくて、唇の端が持ち上がった。


 三日目の夜。


 台本は完成に近づいていた。誰をいつ怒らせ、誰をいつ遠ざけ、どの噂をどの順番で流すか。社交界という舞台の脚本。主演は私。役どころは、悪女。


 最後の一枚の前で、ペンが止まった。


 台本の最後のページ。


 何を書くべきか、わかっている。三日間ずっと考えていた。わかっているのに、手が震えた。


 インクが乾くまでの間、窓の外を見た。銀木犀が咲いていた。甘い匂いが夜風に乗って部屋に入ってくる。前の三年間にも、この花は咲いていただろう。気づかなかっただけで。気づく余裕がなかっただけで。


 ……書いた。


 最後のページを閉じ、全体を暗号で書き直す作業に入った。独自の暗号体系。ルクセイアの暗号書簡を解読する過程で編み出したもの。記号の置き換えと転置の二重構造。私以外に読める者はいない。


 ひとつだけ、不安がある。


 五カ国語以上を操り、複数の暗号体系に通じた専門家がもしいたら、時間をかければ解かれる可能性がゼロではない。でも、そんな人間はこの王国にはいないはずだ。


 台本を二重底の引き出しにしまった。鍵をかける。鍵は首から下げる。首筋に金属が触れて、一瞬だけ刃の記憶がよぎった。


 振り払う。


 「これで全員救える」


 声に出して言ったのは、自分を信じさせるためだった。


 信じられたかどうかは、正直に言えばわからない。でも、台本はある。計画はある。あとは演じるだけ。


 善人のセレスティアは、三年かけて全てを失った。善良でいれば報われると信じて、信じて、信じ続けて、最後に首を落とされた。


 だから今度は、悪女のセレスティアで行く。


 手袋を一組、箪笥から出した。白い、長い手袋。明後日の社交界デビューで身につけるもの。絹の裏地に、革の表地。指先まできちんと縫製されている。公爵家の令嬢にふさわしい、上等な手袋。


 嵌めてみた。革が冷たかった。少しきつい。十五歳の手には、まだ馴染んでいない。


 掌を握った。爪が革越しに肉に食い込む感触を確かめる。


 痛い。


 でも、大丈夫。痛みは、生きている証拠だ。


 首を落とされた時には、痛みすら感じなかったのだから。

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