雛飾り➁
赤い毛氈の上に並んだ雛人形は、幼い僕にはどこか恐ろしい存在でした。
けれどその日の記憶は、甘酒の温もりとともに、今も静かに胸の奥に残っています。
一段目には内裏雛と雪洞。
二段目には三人官女。
三段目には五人囃子。
四段目には左大臣と右大臣。
五段目には三人上戸と桜と橘。
六段目には箪笥や鏡台や茶道具。
七段目には御駕籠と御所車。
道具は少しくすんでいたが、どれも細かな蒔絵が施されていた。
だが僕には、それらの顔がただただ恐ろしく見えた。
身がすくむ。
「怖い?」
その女性が笑って言った。
「おばちゃんもちっちゃい頃、このお人形すっごい怖かったんよ」
「そうなん?」
「でもねぇ、これ、おばちゃんの宝物なんよ。おばちゃんのおばあちゃんが生まれた時に、おばあちゃんのお父さんが買ってくれたんだって」
「ふぅーん」
「さあ、座って座って」
いつの間にか座卓には雛あられや菓子が並んでいた。
細長い硝子の容器には白く濁った液体が入っている。
「ちょっと飲んでみて」
その女性は小さな器にそれを注いだ。
一口飲む。
どろりとした液体が口の中に広がった。独特の香りがした。ほのかに酒の匂いもする。
僕と弟は顔を見合わせた。
「甘酒っていうのよ。初めてでしょ」
僕たちは照れたようにうなずいた。
もう一口飲む。
身体の中がじんわり温かくなった。
母とその女性は昔話に夢中になっていた。
僕と弟は甘酒を飲みながら菓子をつまみ、古びた雛飾りをいつまでも眺めていた。
その女性の家も、母の実家も、今はもうない。
どちらも洒落たテナントビルに建て替わり、あの細長い石畳の通路も、黒光りする柱も、怪しげな香りのする部屋も消えてしまった。
けれども三月が近づくと、時々思い出す。
薄暗い部屋の奥で、赤い毛氈の上に並んでいた、あの古い雛飾りのことを。
そして、ほんのりと酒の匂いのした、初めて飲んだ甘酒の味を。
失われた風景は戻りませんが、記憶の中の雛飾りは今も変わらずそこにあります。
読んでくださり、ありがとうございました。




