第9話:初めての“失敗”と涙
その日の空は曇っていた。
朝から風が強く、庭の木々がざわめくたびに犬たちがそわそわしていた。
葵は臆病な犬――まだ名前のない彼――を抱えて施設の準備をしていた。
しかし胸の奥には、不安がうっすら広がっていた。
昨日の逆転劇の余韻は確かにあたたかく残っている。
けれど同時に、
「今日は何か、うまくいかない気がする」
そんな直感がまとわりついて離れなかった。
午前、施設では小さなイベントが行われた。
地域の親子を招き、犬たちと触れ合う会だ。
職員が言った。
「葵ちゃん、今日のメインはこの子よ。あなたが一番信頼されてるから」
胸の奥がぎゅっと緊張した。
“この子” …つまり葵が毎日抱きしめてきた臆病な犬。
今日こそ、人前でも少しずつ慣れてほしい。
優しい未来へ進んでほしい。
そう願っていた。
――しかし。
子どもたちが近づいた瞬間だった。
犬の体が強張り、震え、
次の瞬間、葵の腕から飛び降りてしまった。
「まって!!」
葵が必死に追いかけるが、犬は隅に逃げ込み、体を小さく丸めた。
子どもたちは戸惑い、職員たちが困った顔を見せる。
室内の空気がピンと張りつめた。
亮が駆け寄る。
「葵、大丈夫だよ! 気にすんなって!」
奏も心配そうに近づく。
「葵、無理してない? …一回深呼吸しよう?」
だけど葵は震える犬を見つめたまま、何も言えなかった。
胸の中に、痛みと失望が少しずつ降り積もっていく。
自分のせいだ。
私が抱えすぎた。
私が、もっと上手く導けていたら――。
犬を落ち着かせるのに時間がかかった。
イベントは職員主導でなんとか進んだが、
葵はその間ずっと胸の奥が苦しかった。
夕方、片付けが終わった頃。
亮が明るく言う。
「ほら、帰ろうぜ! 今日は疲れただろ」
奏も寄り添うように微笑む。
「葵が悪いんじゃないよ。あの子は…まだ少し怖かっただけ」
優しい言葉。
優しい表情。
それでも、心に届かない。
「……ごめん。ちょっとだけ、一人になりたい」
言った瞬間、二人の顔が少しだけ悲しそうに揺れた。
でも何も言わず、そっと背中を押してくれた。
外へ出ると、空からは細かい雨が降り始めた。
街の明かりが雨粒に反射し、地面がぼんやり滲んで見える。
葵は歩きながら、胸に溜まっていたものが溢れ出すのを止められなかった。
施設の裏のベンチに座り、両手で顔を覆う。
「私…あの子を助けたいって思ってるのに…
全然できてないじゃん……」
涙は雨と混ざり、頬を伝って落ちていく。
そのとき。
服の裾を、そっと引っ張るものがあった。
振り向くと――
そこにいたのは、臆病なあの犬だった。
雨で濡れながら、小さく震えていて、
それでも葵のもとへ来て、座り込んだ。
「……え?」
犬は葵の膝に顔を寄せ、おずおずと鼻先を押し当てた。
その温かさが、壊れそうな心をそっと包む。
「来て…くれたの……?」
葵の声は震えていた。
犬は静かに尻尾を一度だけ振った。
その仕草が、まるで “ぼくは逃げたりしないよ。葵が好きだよ” と伝えているようだった。
温かい涙がまた溢れる。
今度は、悲しみではなく――
救われた涙だった。
葵は犬を抱きしめ、雨の中で小さく笑った。
「失敗じゃなかったんだね。
…ありがとう。気づかせてくれて」
そのころ、少し離れたところで亮と奏がそっと見守っていた。
二人の顔には安堵と、言葉にできない優しさが滲んでいる。
雨の音が静かに響き、
三人と一匹の絆が、またひとつ深く結ばれていった。




