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第8話:小さな試練と逆転劇

翌朝、空は晴れ渡り、施設の庭には朝陽が柔らかく差し込んでいた。

水たまりはほとんど乾いていたが、草の葉にはまだ露が残り、小さく光っている。

葵は臆病な犬を抱き上げ、小道を歩きながら深呼吸した。

「今日も頑張ろうね」

犬は胸の中で小さく鳴き、温かい鼓動が伝わる。


しかし――施設へ入ると、微妙な空気に包まれていた。

職員の一人が険しい顔で言う。

「昨日の騒動、聞いた? あの犬、また逃げ出しかけたらしいのよ」


葵の心臓は一瞬止まったように感じた。

亮と奏がすぐ近くに来てくれる。

「大丈夫だよ、葵。あいつ、ただ遊びたいだけなんだよ」

亮のさりげない言葉が心を支え、奏の優しい眼差しが背中を押す。


その時、問題の犬がまた小さな柵をすり抜け、庭へ飛び出してしまった。

「え!? 待って!」

葵は反射的に走り出した。

犬は嬉しそうに尻尾を振りながら芝生を駆け回り、職員たちはあたふたする。


亮も走り、奏も後からついてくる。

犬は三人の周りをくるくる回り、水飲み場の桶をひっくり返し、さらに勢いで杭にぶつかって転がり――


ザバァッ!!


後ろ足を水の桶に突っ込み、尻餅をついて固まった。

その姿が、どうしようもなく可愛くて、葵は思わず――


「ぷっ…ふふっ」


笑ってしまった。


亮は吹き出し、奏は口元を押さえて肩を震わせる。

職員も、怒っていたはずなのに口元がゆるむ。

「まったく…元気な子だねえ…」


その場の空気が、ふっと和らいだ。


葵は泥だらけの犬を優しく抱き上げ、タオルで包み込む。

犬はしょんぼりしつつも、葵の胸に顔をうずめて安心したように目を閉じた。

「大丈夫だよ。逃げたんじゃないよね。遊びたかっただけだよね」

心の奥から湧き上がる優しさが、言葉を柔らかくする。


その後、職員たちが騒動を振り返ると――

「逃げ足が速いと思ってたけど、今日はすぐ捕まったな」

「葵ちゃんたちがいたからだよ」

「信頼してんだねぇ、この子」


自然と、犬の評価が“問題児”から“甘えん坊のやんちゃ”へと変わっていた。

これが、小さな逆転劇だった。


その昼、亮がベンチで笑いながら言った。

「なんかさ…葵、犬にめちゃくちゃ好かれてない?」

「え、そ、そんな…」

葵の頬がほんのり赤くなる。


奏も優しく微笑む。

「でも、確かに。葵が呼ぶと、すぐ近くに来るよね」

奏の声が少し柔らかくて、葵は胸の奥がくすぐったくなった。


犬は葵の膝に頭を乗せ、満足そうに寝息を立てている。

その姿に、三人の間に静かな時間が生まれる。

風が優しく吹き、木々の葉が揺れ、露がキラキラと光る。


ふと亮が言った。

「なぁ、この子の名前…そろそろ決める?」

葵は犬の顔を見つめる。

泥だらけになりながらも笑わせてくれた、小さないたずら好きの命。


葵は胸の奥が温かくなるのを感じた。

「…うん。でも、ちゃんと向き合って決めたいな」


奏も頷く。

「いいね。じゃあ、三人で考えようよ」


犬が小さく鼻を鳴らし、三人の手に触れた。

その瞬間、友情、絆、恋心がふわっと重なる。


試練と笑いが交錯しながら、葵は確かに気づいた。


――“この子”も、亮も、奏も、私の世界を広げてくれる。


その日の帰り道、葵は歩きながら小さく微笑んだ。

「怖がってた頃の私じゃない。少しずつでも前に進めてる」

犬の温もりが、そっと背中を押してくれるようだった。


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