第15話:芽生える想いと、はじめての衝突
ひかりが“ここにいる”と決めた翌日。
空は晴れ渡り、初夏の風が駆け抜ける気持ちのいい朝だった。
葵は犬舎に向かう途中、ひかりのリードを握りながら
胸がふわっと温かくなるのを感じていた。
(ひかり……私を選んでくれたんだよね)
昨日の出来事は、葵の心の奥に優しい力をくれた。
ひかりの温もりが、孤独だった心を少しずつ満たしていく。
――だけど、その温もりの横で
胸の奥にもうひとつ、別の感情が静かに芽を伸ばしていた。
奏の言葉。
「葵のこと……僕も困るよ」
ふとその場面を思い出して、心臓がひゅっと縮む。
(なんで……あんなにドキッとしたんだろう)
答えの見えない気持ちが、葵の胸をざわつかせていた。
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犬舎では亮がすでに作業を始めていた。
バケツをひっくり返しそうになりながら、誰よりも大きな声で挨拶してくる。
「おはよーっ!! 葵! ひかり! 今日もいい天気だぞー!」
「亮、声大きいよ……」
奏がため息をつきながらも、口元は小さく笑っている。
そんな何気ない朝。
だけど葵は、ふと亮の表情がいつもと少し違うことに気づいた。
(亮……今日、なんか変?)
いつもは無邪気に突っ走るのに、どこか落ち着きがない。
視線が妙に葵のほうに向いては逸れる。
まるで何かを言いたそうで言えない…そんな顔。
「亮、どうかしたの?」
葵が声をかけると、亮は一瞬肩を跳ねさせた。
「えっ!? な、なんもねぇし!」
わざとらしいほどの声の裏返り。
奏がくすっと笑う。
「亮、分かりやすいね」
「はぁ!? なんもねーって言ってんだろ!!」
亮は耳まで真っ赤になりながら掃除に戻った。
葵は思わず苦笑してしまう。
(なんだろ……亮、変だな)
けれど、その瞬間は深く気にしなかった。
まさかこのあと、亮と初めて“衝突”することになるなんて
葵はまだ知らなかった。
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午前の作業を終えた後、三人は散歩に出かけることにした。
ひかりはもちろん、いつも葵の足元から離れない。
その姿に亮がぼそっと呟く。
「なぁ、ひかり……お前、葵にくっつきすぎじゃね?」
「え? 亮、ひかりのこと嫌いなの?」
「嫌いじゃねーよ!! ただ、その……なんか……」
亮は言葉を濁す。
奏がひかりを撫でながら言う。
「ひかりは葵の家族になったんだよ。
くっつくのは当然だよ」
亮はぷいと横を向いた。
どこかトゲのある態度。
その様子に、葵の胸がざわっとする。
(亮……どうしたの?)
散歩道の途中、小さな川沿いに差し掛かったときだった。
ひかりが急に立ち止まり、どこかをじっと見つめる。
「ひかり?」
葵がしゃがんで覗き込むと、
草むらの奥に怪我をした小さな猫がうずくまっていた。
体を震わせ、弱い声で鳴いている。
「猫ちゃん……!」
葵は思わず駆け寄ろうとした。
「待て、葵!」
亮が葵を腕で止めた。
「怪我してる猫は怒りやすい。噛まれるかもしれねぇぞ!」
「でも……助けなきゃ」
「危ないって言ってんだろ!」
亮の強い口調に、葵は思わず身をすくめた。
奏が間に入るように言った。
「亮、言い方がきついよ。葵は猫を助けたいだけだ」
「べ、別に怒ってねーし!」
亮は耳を赤くしながら、でも苛立ちを隠し切れていない。
葵はそんな亮の態度に胸がチクリと痛んだ。
(なんで亮、こんなに怒ってるの……?
私……何か悪いことした?)
亮は猫を見ながら、歯を食いしばって言った。
「葵が怪我したら……嫌だからだよ」
その言葉は、風に飛ばされそうなほど小さかった。
葵は一瞬だけ息を呑む。
でも、亮はすぐ顔を背け、ぶっきらぼうに続けた。
「……奏がやるから。お前は下がってろ」
奏は静かに頷くと、猫の元へ慎重に近づき、
優しく声をかけながら抱き上げた。
猫は最初こそ警戒していたが、
奏の手の中で安心したように目を閉じる。
「よかった……」
葵は安堵しながら猫を見つめた。
「ねぇ、亮……ありがとう。心配してくれたんだよね」
そう言うと、亮は耳を赤くし、顔をそむけた。
「べ、別に……俺は……」
その声は途切れ、言葉にならなかった。
葵はふと気づく。
(亮……
これ、もしかして……
私のこと……心配してくれて……嫉妬……した?)
奏が穏やかに言った。
「亮、もう少し葵の気持ちも考えようね。
葵は優しいから、見捨てられないんだよ」
亮はむすっとしながらも反論できずにいる。
葵は胸がじんわりと温かくなった。
亮が怒鳴ったのは、
葵が猫に近づいて危なかったからだ。
(なんだ……亮って、ほんとはすごく優しいんだ)
その気づきと同時に、
胸の奥に小さな灯りがともる。
奏の優しさとは違う。
亮の不器用な優しさ。
どちらも、葵を包んでくれる光のようだった。
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猫は施設で保護されることになり、
ひかりは心配そうにその様子を見守った。
散歩を終えた帰り道、亮がぽつりと言った。
「……さっきは悪かった」
葵は首を振る。
「ううん。亮が心配してくれて嬉しかったよ」
亮は照れたように、でもどこか安心したように笑った。
「お前って……ほんと危なっかしいんだよ」
「え!? なにそれ!」
「図星だろ!?」
いつもの軽口。
でも、そこには確かな思いやりがあった。
奏はそんな二人を見て、少しだけ遠い目をした。
その表情を葵は気づかずにいた。
――ほんの少しだけ、胸が痛そうに。
(奏……どうしたんだろう)
その疑問は、
これからの三人の関係を揺らす“予兆”になる。
そして葵の心もまた、
二つの光の間で静かに揺れ始めていた。
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その夜。
葵はひかりを抱きしめながら、
胸のざわつきにそっと触れた。
亮の不器用な優しさ。
奏の静かな想い。
そしてひかりの温もり。
(私……どうしたいんだろう)
答えの出ない感情を抱えたまま、
葵は静かに目を閉じた。
夜風が窓を揺らし、
ひかりが寄り添うように息をする。
揺れ動く心は、
この先さらに大きな波を呼ぶことになる。




