第13話:飼い主の影と、涙の選択
翌日。
施設に朝の光が差し込む頃、葵は胸の奥に重い石を抱えたまま、ひかりと一緒に犬舎へ向かった。
ひかりはいつもより少し静かで、葵の歩幅にぴたりと寄り添って歩く。
(ひかり…もしかして、気づいてる?
今日…“あの人”が来るかもしれないことを)
昨日職員から、「ひかりに似た犬を探している人物が、今日訪ねてくる」と聞いていた。
胸がざわついて、一晩中眠れなかった。
亮はいつも通り明るく声をかける。
「よっ、おはよ葵! ひかりも元気か?」
でも、その笑顔の奥にひそかな緊張があるのを葵は感じ取った。
奏も、静かな声で言った。
「大丈夫だよ、葵。どんな結果でも…僕たちは葵の味方だから」
その優しさに、葵の胸はぎゅっと締めつけられた。
泣きそうになるのを必死で堪える。
---
朝の作業を終えた頃、施設の玄関で職員の声が響いた。
「葵ちゃん、少し来てもらっていい?」
心臓がドクン、と大きな音を立てた。
ひかりのリードを握る手が震える。
亮と奏は黙って葵のそばに立った。
玄関ホールには、一人の男性が立っていた。
四十代くらいの穏やかな顔。
手には、使い込まれた首輪が握られている。
男性はこちらを見ると、優しく微笑んだ。
「あの…この子を探してるんです」
首輪には小さく名前が彫られていた。
「ハル」
葵は息を飲んだ。
ひかり――いや、“ハル”だったの?
男性は続けた。
「この子、避難中に離れてしまって……ずっと探していました。
小さくて臆病だけど、人が大好きで、優しい子で……」
その言葉ひとつひとつが、葵の胸に突き刺さる。
ひかりは男性をじっと見つめていた。
不安げに、でもどこか懐かしそうな目で。
葵の心に鋭い痛みが走った。
(ひかり……あなたはこの人の…)
男性は声を震わせた。
「会えて…よかった」
その瞬間だった。
ひかりが一歩、男性に近づいた。
葵の胸がきゅっと縮む。
呼吸が浅くなる。
(やだ……
ひかりが取られるみたいで、
ひかりが遠くに行っちゃうみたいで……
どうしてこんなに苦しいの……)
亮が小さく囁いた。
「葵……大丈夫か?」
奏も心配そうに見つめてくれる。
でも、葵には答える余裕がなかった。
ひかりは男性の手をそっと嗅ぎ、そして――
顔を上げて、葵を見た。
その目が言っていた。
「どうすればいい?」
葵の喉は締めつけられたように苦しく、
手足が震えた。
(私は……どうしたらいい?
ひかりを手放さないでって言っていいの?
でも、ひかりの“本当の家族”がいるなら……
私は……邪魔なの?)
胸の奥がぐちゃぐちゃにかき乱される。
職員が優しい声で言った。
「葵ちゃん。
最終的には、飼い主さんと話し合いになるけど……
葵ちゃんの気持ちも、ちゃんと聞きたいんだよ」
葵は俯いていた顔をゆっくり上げた。
ひかりと目が合う。
その目には、
葵に寄り添った夜の温もりがあった。
名を呼んだ時、尻尾を振ってくれた情景があった。
自分の涙を舐めてくれた優しさがあった。
“家族”のように寄り添ってくれた時間が、胸に溢れた。
(ひかり……
あなたが戻りたいなら……
私は…)
葵は唇を噛み、そして――
震える声で言った。
「……ひかりの気持ちを、尊重したいです」
男性が目を細める。
葵は涙を堪えながら続けた。
「ひかりが……“ハル”として戻りたいなら……
私は……大丈夫じゃないけど……
受け入れます」
声が震えていた。
ひかりは葵の足元に寄り添い、鼻を押し付けてきた。
亮は拳を握りしめた。
奏は静かに目を伏せた。
男性はひかりの頭を撫でようとして、
しかし途中で手を止めた。
「……この子が、そちらのお嬢さんを選んだ場合は……
どうなりますか?」
職員は静かに答えた。
「動物にも選ぶ権利があります。
ひかりちゃんの反応を見て、決めましょう」
ひかりは男性を見た。
そして、葵を見た。
数秒が永遠に感じられる沈黙。
葵は息を呑んだ。
ひかりは――
ゆっくりと、葵の足に体を寄せた。
葵の胸が熱く震えた。
涙があふれる。
男性はその光景を見て、
静かに、悲しそうに、でもどこか救われたように微笑んだ。
「ありがとう……
あなたに救われたんですね……」
葵は声にならないまま頷いた。
ひかりを抱きしめると、
ひかりは葵の腕に頭を預けてきた。
その温もりに、涙がぽろぽろと落ちた。
(ひかり……
あなたがここにいたいって思ってくれてるなら……
私は……あなたを守るよ)
夕陽が差し込む玄関で、
葵はひかりを胸に抱きしめ、
静かに泣き続けた。
その涙は、
悲しさと、
喜びと、
そして確かな“絆”の証だった。




