第12話:ひかりの秘密と、揺れ始める心
翌朝。
施設の庭に柔らかい光が差し込み、朝露がきらきらと輝いていた。
ひかりはいつものように葵にくっついて歩き、葵はその後ろ姿を見ながら微笑む。
「昨日は大冒険だったね」
ひかりは尻尾を揺らして返事をした。
だがその足取りの裏に、葵は小さな違和感を感じた。
(ひかり…少し足をかばってない?)
昨日のドーナツ事件で走り回ったせいだろうか?
気のせいであってほしい。
葵は胸がざわつきながらも、朝の作業に向かった。
亮と奏が既に来ていて、犬舎の掃除をしている。
奏が気づいて手を振った。
「おはよう、葵。ひかり、今日も元気そうだね」
葵は曖昧に微笑んだ。
元気に見える。でも…ひかりの足取りは、やっぱり微妙にぎこちない。
「亮、奏…ちょっとだけ、ひかりの足見てもらってもいい?」
声が震えるほど不安だった。
亮がしゃがみ込み、ひかりの足をそっと持ち上げる。
「ん…腫れてないな。でも、ちょっと捻ったかもな」
奏も覗き込み、穏やかに言った。
「大丈夫。ひかりならすぐ治るよ」
その言葉に少し安心はしたが、胸の奥の不安は小さく残った。
ひかりは心配する葵の手を舐め、
「大丈夫だよ」と言うように小さく鳴いた。
葵は胸がきゅっとなった。
(ひかり…本当は痛いのに、私が心配しないようにしてるの?)
動物は言葉を話せない。
でも、その仕草がちゃんと伝えてくるものがある。
葵はひかりを抱きしめた。
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朝の作業を終えると、三人は休憩室で軽くお茶を飲んだ。
亮はドーナツ事件を思い出してゲラゲラ笑い、
奏は「ひかり、意外と食いしん坊だよね…」と穏やかに笑う。
その笑顔を見て、葵の胸はふと温かくなる。
亮の無邪気な明るさ。
奏の柔らかい眼差し。
二人と一緒にいる時間が、少しずつ日常になっていく。
けれどその温かい気持ちの奥に、
なぜかざわざわと揺れる感情があった。
(奏を見てると…なんか胸が苦しくなる)
(亮と笑い合うと…なんでだろう、安心して嬉しくなる)
名前のつかない感情が、葵の胸に静かに芽を出していた。
恋なのか、友情なのか、まだ分からない。
ただ……
ひかりの存在が、その揺れ動く心を優しく見守ってくれている気がした。
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昼過ぎ。
職員の一人から驚きの情報が伝えられた。
「葵ちゃん、ひかりのことで…少し気になる話があってね」
不安が胸に走る。
「もしかしたら…ひかり、元の飼い主がいるかもしれないの」
葵は思わず息を止めた。
「……飼い主?」
「ええ。特徴が似た犬を探していた人がいるって連絡があってね」
亮が真剣な顔になる。
奏も静かに息を飲んだ。
ひかりは葵の足に寄り添い、不安げに葵を見上げた。
その瞳を見た瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。
(ひかり……誰かに捨てられたんじゃなかったの…?
迷子だったの…?
もし元の飼い主がいるなら…私たちと一緒にいられなくなる…?)
考えが渦を巻き、喉の奥がキュッと締まった。
職員は続けた。
「まだ確定じゃないのよ。本当にひかりかどうかも分からない。
ただ、もしそうなら…」
葵は唇を噛む。
胸の中で、熱くて苦しい感情がせり上がった。
ひかりを抱きしめたい。
離したくない。
失いたくない。
でもその気持ちは、
エゴなのかもしれない。
そんな自分が嫌になり、葵は視線を落とした。
そのとき――
ひかりがそっと手に顔を寄せた。
「きゅぅん……」
不安そうに鳴くひかり。
葵の胸に痛みが走る。
(ひかりも、感じてる…?
私が動揺してるの、分かるの…?)
亮がそっと肩に手を置いた。
「大丈夫。まだ決まったわけじゃないし、
ひかりがどこにいたいかは…ひかりが決めることだよ」
奏も、優しく寄り添うような声で。
「葵は何も悪くないよ。
大切な存在だから…不安になるのは当たり前だよ」
その言葉が胸にじんわり染みていく。
優しさに触れた瞬間、涙がこぼれそうになった。
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その日の夕方。
葵はひかりと庭に座り、沈む夕陽を見ていた。
ひかりは葵の膝に体を預け、
まるで「ここが私の場所だよ」と言うように静かに寄り添ってくる。
葵はひかりの頭を撫でながら、小さく呟いた。
「ひかり……
もし元の飼い主さんがいたら……
あなたはその人のところに戻りたいのかな」
ひかりは何も言わない。
ただ、葵の手に鼻を押し付けてきた。
その瞬間、涙が一粒、頬を伝った。
「怖いよ。
ひかりがいなくなっちゃうの、考えたくないよ……」
ひかりはそっと葵の涙を舐めた。
その優しさが、胸を締めつける。
(ひかり…
あなたがいなかったら、私……ここまで来れなかったよ)
心が揺れ、痛み、そして深く深くひかりを求めている。
夕陽の中で、葵は静かに目を閉じた。
その腕の中で、小さな命が確かに温かく息づいていた。




