第11話:初めての散歩と…小さな事件
ひかり――
新しく名を得たその小さな犬は、翌朝からどこか誇らしげだった。
葵の後ろをちょこちょこついて歩き、名前を呼ぶと耳をぴんと立てる。
昨日まで臆病だった姿が嘘のように、胸を張って歩いている。
「ひかり、こっちだよ」
呼びかけるたび、ひかりは尻尾を振り、葵の足元へ寄ってくる。
その様子を見て、亮と奏が微笑んでいた。
「なんか…昨日より堂々としてない?」
亮が言う。
奏も頷きながら言った。
「名前が決まるって、こういう力もあるんだね」
葵は胸が温かくなるのを感じながら、リードを手にする。
今日はいよいよ――
ひかりの、初めての散歩の日だった。
施設の外に出るのはまだ不安もある。
けれど、ひかりの瞳にはもう昨日までの怯えはない。
葵はしゃがんで目線を合わせ、優しく微笑んだ。
「ひかり、いこっか。
外の世界、ゆっくりでいいから、見てみようね」
ひかりは小さく鳴いて応える。
三人と一匹は、施設の門を出て、舗道をゆっくり歩き始めた。
晴れた空、ふわりと吹く風、暖かい陽射し。
街路樹の葉が揺れ、影が道に模様を描く。
ひかりは初めての世界を、慎重に、それでも好奇心いっぱいの瞳で見つめていた。
「大丈夫だよ」
葵が声をかけると、ひかりは尻尾をゆっくり揺らした。
亮と奏はその様子を後ろから見守る。
しかし――
角を曲がった瞬間。
「ワンッ!!」
突然、近所の大型犬が吠えた。
ひかりは驚いてぴょんっと跳ね、葵の足にしがみつく。
体が小刻みに震え、目をぎゅっとつむってしまった。
葵はすぐにしゃがみ、ひかりをそっと抱き寄せる。
「大丈夫、大丈夫だよ。怖くないからね」
亮がその大型犬の飼い主に会釈して、状況を静かに整えてくれる。
奏はひかりの頭を優しく撫でながら、落ち着いた声で言った。
「ひかり、葵がいるよ。…安心していいんだよ」
しばらくして、ひかりは震えをおさめ、葵の胸元から顔を上げた。
耳がまだ垂れていたが、葵の顔を見るとすこしずつ表情が戻っていく。
「…えらいね、ひかり」
葵のその言葉は、ひかりの心にまっすぐ届いたようだった。
三人でゆっくり歩き直すと、ひかりは慎重ながらも前へ進み始める。
その姿に、葵は胸がじんと熱くなった。
しかし――事件はその後に起こった。
商店街に入ったところで、ひかりがふと足を止め、何かに気づいたように首をかしげた。
葵が目線を追うと、小さな紙袋が道端に落ちていた。
(おやつかな?)
そう思い近づこうとした瞬間――
ひかりが急に走り出した。
「ひかり!? 待って!!」
紙袋目がけて猛ダッシュ。
衝撃的なスピードだった。
「っ、速っ!!」
亮が叫ぶ。
「ひかり、危ない…!」
奏が駆け足で追う。
葵は必死にリードを握り、ひかりを追いかける。
「ひかりっ!! ダメ!」
紙袋の前でぴたっと止まり、鼻先をツンツン。
そして――
袋の中身を咥えた。
亮が追いつき、袋の文字を見て叫ぶ。
「これ…パン屋の新作ドーナツじゃん!!」
葵は真っ青になる。
「ひかり! 食べちゃダメー!!」
しかし――
ひかりはドーナツを咥えたまま、
どこか誇らしげに尻尾を振った。
三人は一瞬沈黙し、
次の瞬間――
「いや、かわいいけど!!」
亮が吹き出した。
奏も肩を震わせながら
「ひ、ひかり…それは…泥棒になっちゃうよ…ふふ…」
葵は必死で袋を回収しながら
「ひかりー! だめだよぉぉ!!」
と涙目で叫んだ。
通りかかったパン屋のおじさんが状況を察して優しく笑った。
「いいよ、いいよ! 犬にとっちゃいい匂いだからなぁ。
ほら、おまけの欠片。食べていいよ」
ひかりはおじさんの手から小さな欠片をもらい、嬉しそうに食べた。
葵は平謝りしながら、胸をなでおろした。
「……ひかり、心臓止まるかと思ったよ」
葵が呟くと、ひかりは尻尾をゆっくり振り、
申し訳なさそうに頬を舐めた。
葵は堪えきれず笑った。
「もう……かわいいなぁ…」
亮がにやにやして言う。
「完全に“親”だな、葵」
奏も柔らかい声で言った。
「ひかりも、葵が大好きなんだね」
その言葉に葵の胸が熱くなる。
ひかりが信頼しているのは確かに自分。
その重みが嬉しくて、くすぐったくて、
そしてほんの少しだけ怖くなった。
(ちゃんと守れるのかな…)
そんな迷いを感じた瞬間――
ひかりが葵の足元に体を預けた。
その温もりが、迷いをそっと溶かしていく。
夕方、帰り道。
雲の切れ間から差し込む光が商店街を照らし、
三人とひかりの影が長く伸びた。
「ひかり、今日は大冒険だったね」
葵が言うと、ひかりは誇らしげに鳴いた。
亮が笑う。
「事件もあったけどな!」
奏も続ける。
「でも、いい経験になったよね。…葵も、ひかりも」
葵はふと、ひかり越しに奏の横顔を見た。
柔らかい光が奏の髪に反射して美しく揺れていた。
胸が、小さく跳ねる。
ひかりと共に歩いた初めての一日。
事件だらけで、笑いだらけで、
そして何より――
葵の心はまたひとつ、大切な何かに触れた。




