隣の家の後輩に恋の相談をしたら、お互いのことを話していた件
十一月の夕方、空気はひんやりと頬を刺すけれど、まだコートを着るほどでもない。そんな微妙な季節の放課後、僕は隣のクラスの扉の前でスマホを弄りながら誰かを待っていた。
「お疲れ様でした」
教室から出てきたのは、見慣れた制服姿の少女。肩にかかるくらいの髪を後ろで一つに束ね、少し疲れた様子だけれど、僕を見つけると自然に微笑む。
桜井美月。隣の家に住む、僕より一つ年下の後輩だ。
「今日も遅かったね」
「生徒会の仕事がちょっと長引いちゃって。ごめん、待たせちゃった」
美月は申し訳なさそうに眉を下げる。でも、僕はもう慣れっこだった。
「別に待つのは平気だよ。どうせ家で一人だし」
これが僕たち田中蓮と美月の日常だった。美月の生徒会の仕事が終わるのを待って、一緒に帰る。特別なことじゃない。お隣さん同士、帰り道も一緒なんだから当然のことだ。
「そういえば、今日お母さんから連絡あった?」
下駄箱で靴を履き替えながら、美月が聞いてくる。
「ああ、今日も遅いって。多分十時過ぎかな」
「じゃあ、うちで夕飯食べていく?お母さんが作りすぎちゃったって言ってたから」
この提案も、もはやルーティンだった。母さんの帰りが遅い日は美月の家で夕食をご馳走になる。逆に、美月の両親が出張で不在の時は、僕の家で一緒に食事をする。
「お世話になります」
そう答えながら校門を出ると、美月が少し歩幅を合わせて隣に並んだ。
「あ、そうそう。蓮くんに相談があるんだ」
相談、という言葉に僕の足が少し止まる。美月からの相談は大抵、僕にとって少し複雑な気持ちになるものが多かった。
「何?」
「実は、クラスの男子に告白されちゃって」
案の定だった。
僕は表情を変えないよう気をつけながら、「へえ」とだけ返事をする。
「田村くんって知ってる?サッカー部の」
「ああ、知ってる。背の高い人だろ?」
知っている。というより、美月のことを見つめている男子のことは大抵把握していた。別に監視しているわけじゃない。ただ、美月は自分が思っているより遥かに男子から注目されていることに鈍感で、時々心配になるのだ。
「うん。それで、今度の土曜日に映画を見に行かないかって誘われて」
「で?」
僕の声が少しぶっきらぼうになったのを、美月は気づいただろうか。
「どうしようかなって思って。蓮くんはどう思う?」
どう思うって言われても。
僕が何を答えればいいのか、美月は本当にわかって聞いているんだろうか。
「美月がどう思うかじゃないの?」
「うーん。田村くんはいい人だと思うんだけど、なんかピンとこないっていうか」
「ピンとこない?」
「なんていうのかな。一緒にいても、特別ドキドキしないし、楽しいんだけど、なんか物足りないような」
美月は少し困ったような顔をして、手をひらひらと振りながら説明しようとする。その仕草が、昔から変わらなくて、僕は少しだけ口元が緩むのを感じた。
「それなら断れば?無理して付き合うことないでしょ」
「でも、せっかく誘ってくれたのに悪いかなって思って」
美月はこういうところがある。人の好意を無下に扱うのが苦手で、自分の気持ちより相手のことを先に考えてしまう。優しいのだが、時々もどかしくなる。
「美月の人生なんだから、美月が決めればいいよ」
そう言いながら、僕は内心複雑だった。美月に恋人ができるのは、いつかは起こることだとわかっている。でも、実際にその話を聞くと、胸の奥が重くなる。
「蓮くんはさ、どんな子がタイプなの?」
突然話題を振られて、僕は少し慌てた。
「え?」
「だって、蓮くんも高二なのに、今まで彼女いたことないでしょ?どんな子が好みなのかなって思って」
美月は純粋な好奇心で聞いているようだった。でも、この質問に正直に答えるわけにはいかない。
「別に、特に考えたことないよ」
「えー、嘘でしょ?男の子なんだから、絶対あるよ」
美月は不満そうに頬を膨らませる。この表情も、小学生の頃から変わらない。
「しつこいな。そんなの聞いてどうするの?」
「だって、気になるんだもん。蓮くんの好みを知っておけば、いい子がいたら紹介してあげられるし」
紹介。その言葉に、僕の足が完全に止まった。
「別に、そんなのいらないから」
声が少し荒くなってしまったのを、美月は敏感に察知したようだった。
「あ、ごめん。余計なお世話だったかも」
「いや、そういうわけじゃ...」
気まずい空気が流れる。こういう時、僕はいつも不器用になってしまう。美月の好意はわかるのだが、どう説明すればいいのかわからない。
「あ、もうこんな時間」
美月が空を見上げた。確かに、もう薄暗くなり始めている。
「早く帰ろう。お母さんが心配するから」
そう言って歩き始めた美月の後を、僕は無言でついていった。
◇◇◇◇
美月の家の夕食は、いつものように賑やかだった。美月の母さん、桜井恵子さんは、僕のことを息子のように可愛がってくれる。
「蓮くん、最近痩せた?ちゃんと食べてる?」
「大丈夫ですよ。ちゃんと食べてます」
「一人だと適当になっちゃうでしょ?遠慮しないで、いつでも食べに来なさい」
恵子さんは本当に優しい人だった。美月がこんなに思いやり深く育ったのも、この人の影響が大きいんだろう。
「そういえば、田村くんって子に告白されたんだって?」
恵子さんが美月に向かって言った瞬間、僕の箸が止まった。
「お母さん、そんなこと蓮くんの前で言わないでよ」
美月が顔を赤くして抗議する。
「あら、蓮くんにも相談してたんでしょ?隠すことないじゃない」
「それはそうだけど……」
美月がちらりと僕の方を見る。僕はできるだけ平静を装って食事を続けた。
「で、どうするの?その子、美月のこと本気で好きみたいよ」
「本気って、お母さんどうしてそんなこと知ってるの?」
「この前、スーパーでその子のお母さんに会った時に聞いたのよ。美月ちゃんのことをいつも家で話してるって」
恵子さんの言葉に、美月の顔がさらに赤くなる。
「もう、お母さんたちったら...」
「美月も高校生だし、そういうお年頃よね。蓮くんはどう思う?」
突然話を振られて、僕は困惑した。
「え、僕ですか?」
「ええ。美月の一番の友達でしょ?男の子の意見も聞いておきたいじゃない」
友達。その言葉が胸に刺さる。確かに僕たちは友達だ。でも、僕にとって美月は、ただの友達以上の存在になっていた。いつからかはわからない。気がついたら、美月のことを考えない日はなくなっていた。
「美月が決めることですから」
僕はそう言うのが精一杯だった。
「そうね。でも、蓮くんも美月のこと、ちゃんと見ててあげてよ。この子、人がよすぎるから、変な男に引っかからないか心配なの」
恵子さんの言葉に、美月が「お母さん!」と抗議の声を上げる。でも、僕は恵子さんの気持ちがよくわかった。美月は本当に純粋で、人を疑うことを知らない。だからこそ、誰かが守ってあげなければいけない。
でも、その「誰か」が僕であっていいのだろうか。
◇◇◇◇
夕食後、美月の部屋で宿題をしていると、美月が突然口を開いた。
「ねえ、蓮くん」
「ん?」
「さっき、田村くんのこと聞いた時、なんか変だった」
美月は机に向かったまま、振り返らずに言った。
「変って?」
「なんか、不機嫌になったような気がして。気のせいかな?」
美月の声は普段より小さかった。僕の反応を気にしているのがわかる。
「別に不機嫌になってないよ」
「本当?」
「本当」
嘘だった。でも、他に何と言えばいいのかわからない。
「よかった。もし私が変なこと言って、蓮くんを不快にさせちゃったのかと思って」
美月がくるりと振り返る。その顔には、安堵の表情が浮かんでいた。
「蓮くんに嫌われたら、私、どうしていいかわからないもん」
その言葉に、僕の胸が締め付けられる。美月にとって僕はそんなに大切な存在なんだろうか。でも、それは恋愛感情とは違う、家族のような愛情なのかもしれない。
「僕も同じだよ」
気がつくと、そんな言葉が口から出ていた。
「え?」
「美月に嫌われたら、僕もどうしていいかわからない」
美月の目が少し大きくなる。
「なんで?」
「なんでって...」
僕は言葉に詰まった。なんでだろう。美月がいない生活なんて考えられない。毎日美月を迎えに行って、一緒に帰って、たわいもない話をして。それが当たり前になりすぎて、失うことが想像できない。
「美月がいなくなったら、寂しいから」
それが僕の本音だった。美月がいない時間は、いつも何かが欠けているような気がする。家で一人でいる時間も、美月がいてくれれば全然寂しくない。
「私も」
美月が小さくつぶやいた。
「私も、蓮くんがいなくなったら寂しい。すごく寂しい」
美月の声が少し震えているような気がした。
「だから、変なこと言って嫌われたりしたくないの」
「美月」
「何?」
「田村の件、無理しなくていいからね」
美月が少し驚いたような顔をする。
「もし美月が嫌だったら、断ればいい。誰かの期待に応えるために、自分の気持ちを犠牲にする必要はないよ」
僕の言葉に、美月の表情が少しずつ和らいでいく。
「ありがとう。蓮くんにそう言ってもらえると、なんだか安心する」
「なんで?」
「わからない。でも、蓮くんが味方でいてくれるなら、どんなことでも乗り越えられそうな気がするの」
味方。美月にとって僕はそういう存在なんだ。それは恋人以上に大切な関係なのかもしれない。でも、僕にとって美月は、もうそれだけの存在ではなくなっていた。
◇◇◇◇
次の日の放課後、僕は美月を待ちながら廊下の窓から外を眺めていた。校庭では部活動に励む生徒たちの声が聞こえる。その中に、サッカー部の練習風景も見えた。田村が美月にしたという告白のことを思い出す。
「お疲れ様」
美月の声に振り返ると、いつもより少し元気がない様子だった。
「どうした?」
「田村くんに返事した」
僕の胸が一瞬止まったような気がした。
「そっか。で?」
「お断りした」
ほっとしたような、でも複雑な気持ちになった。美月が誰かと付き合うのを見たくない自分がいる一方で、美月の恋愛を邪魔する権利なんて僕にはない。
「後悔してない?」
「ううん。スッキリした。やっぱり、気持ちがないのに付き合うのは失礼だもんね」
美月はそう言いながら、少し寂しそうな表情を見せた。
「でも、ちょっと落ち込んでる」
「なんで?」
「私って、人を好きになったことがないんだなって思って」
美月は廊下の窓に寄りかかりながら、遠い目をしていた。
「今まで何人かの男子に告白されたことあるけど、誰に対してもピンとこなくて。私、恋愛感情がわからない人なのかなって」
美月の悩みを聞いていて、僕は複雑な気持ちになった。美月が恋愛に興味がないなら、僕にもチャンスがないということなのかもしれない。
「そんなことないよ」
「でも、高校生にもなって、誰かを好きになったことがないって、おかしくない?」
「おかしくないよ。人それぞれペースがあるし」
僕は美月を慰めようとしたが、自分の言葉が空虚に感じられた。
「蓮くんは、誰かを好きになったことある?」
また、この質問だった。今度は逃げられそうにない。
「……ある」
僕は小さく答えた。
「えー、本当?誰?知ってる人?」
美月が急に身を乗り出してくる。その距離の近さに、僕の心臓が早鐘を打った。
「知ってる人だよ」
「誰?気になる!」
「言わない」
「えー、ケチ」
美月が頬を膨らませる。でも、その表情のどこかに、本当に知りたがっているような真剣さがあった。
「その人とは、どうなの?両思い?」
美月の質問が胸に突き刺さる。
「わからない」
「わからないって?」
「その人が僕のことをどう思ってるかわからない」
これは本当のことだった。美月の僕に対する気持ちは、友情なのか、それとも家族愛なのか、はたまた別の何かなのか、僕にはわからない。
「なんで聞かないの?」
「聞けないよ」
「どうして?」
美月の純粋な疑問に、僕は答えに詰まった。
「もし断られたら、今の関係が壊れちゃうかもしれないから」
言葉を口にした瞬間、僕は自分の本音を美月に晒してしまったような気がした。
「今の関係って?」
「友達として、すごく大切な関係」
美月は少し考え込むような表情をした。
「でも、そのままだと、ずっとモヤモヤしたままじゃない?」
「そうかもしれないけど」
「もったいないよ」
美月が僕を見つめる。
「もし私だったら、そんな風に思ってくれる人がいるなら、知りたい」
「美月は?」
「え?」
「美月は、そういう人いないの?友達だけど、もしかしたら...って思う人」
僕は勇気を振り絞って聞いてみた。美月は少し戸惑ったような表情を見せる。
「うーん...」
美月が考え込む。その沈黙が、僕には永遠のように感じられた。
「いるかも」
小さな声だった。
「本当?」
「うん。でも、その人も多分、私のことを友達だと思ってる」
「そうかな?案外、美月のこと好きかもしれないよ」
「そんなことないよ。だって、その人、私が他の男子のことで相談した時も、普通に相談に乗ってくれるもん」
僕の心臓が止まりそうになった。美月の言葉が、まるで僕のことを指しているように聞こえる。
「もしかして……」
「ん?」
美月が首を傾げる。僕は一度深呼吸をしてから、口を開いた。
「美月が言ってる人って、もしかして……」
「蓮くん」
美月が僕の言葉を遮った。
美月の瞳が僕をまっすぐ見つめている。その眼差しに、僕は全てを悟った。
「そういうことか」
僕は苦笑いを浮かべながら答えた。
「なんか、すごく遠回りしちゃったね」
美月も困ったように笑う。
「でも、こういうのって難しいよね。いつも一緒にいすぎて、恋愛感情なのか友情なのかわからなくなる」
美月の言葉に、僕は深く頷いた。
「僕もそうだった。いつから友達以上に思うようになったのか、はっきりしない」
「私も。気がついたら、蓮くんがいない時間がすごく寂しくて、他の男子と比べちゃう自分がいて」
美月がそう言いながら、少し頬を染める。
「比べるって?」
「蓮くんと一緒にいる時の安心感と、他の人といる時の物足りなさ。なんで蓮くんじゃないんだろうって思っちゃう」
美月の告白に、僕の胸が熱くなる。
「僕も同じだよ。美月が他の男子の話をする時、嫉妬してた」
「嫉妬?」
「美月を取られちゃうんじゃないかって不安になって」
ふと笑い合って見つめ合った。
「ねえ、蓮くん」
「何?」
「私たち、付き合う?」
美月の提案は自然だった。特別なことではなく、当然の流れとして。
「うん」
僕も自然に答えた。
「じゃあ、今日から恋人同士だね」
「そうだね」
僕たちは笑い合った。
何も変わらないような、でも全てが変わったような不思議な感覚だった。
◇◇◇◇
それから一週間が経った。僕と美月の関係は、表面的にはほとんど変わらなかった。相変わらず一緒に登下校して、美月の家で夕食をご馳走になって、宿題をして。
でも、確実に変わったことがあった。
「蓮くん、お疲れ様」
美月が生徒会の仕事を終えて出てきた時、僕の腕に軽く触れるようになった。
「今日も待たせちゃってごめんね」
「全然平気」
僕も美月の手を軽く握り返すようになった。これまで無意識に避けていたスキンシップが、自然にできるようになった。
「そういえば、お母さんに報告した?」
下校途中、美月が聞いてきた。
「まだ。美月は?」
「私も。なんか恥ずかしくて」
美月が苦笑いを浮かべる。
「でも、お母さん、薄々気づいてるかも」
「なんで?」
「この前『蓮くんと付き合わないの?』って聞かれた」
僕は驚いた。
「何て答えたの?」
「『友達だよ』って言ったら、『そう?』って意味深に笑われた」
恵子さんは、僕たちの関係をとっくに見抜いていたのかもしれない。
「今度一緒に報告する?」
「うん、そうしよう」
僕たちが家に着くと、恵子さんが玄関で迎えてくれた。
「おかえりなさい。今日も一緒なのね」
「ただいま。あの、お母さん、話があるんだけど」
美月が少し緊張した様子で言った。
「あら、何かしら?」
「実は、蓮くんと付き合うことになったの」
恵子さんは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「あら!やっと!」
「やっと?」
「だって、あなたたち、もう恋人同士みたいだったじゃない。見てるこっちがもどかしかったのよ」
恵子さんの言葉に、僕と美月は顔を見合わせた。
「お母さん、知ってたの?」
「母親の勘よ。特に最近の美月は、蓮くんの話ばかりしてたもの」
美月の顔が真っ赤になる。
「お母さん!」
「でも、良かった。蓮くんなら安心だわ」
恵子さんが僕に向かって言った。
「美月をよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
僕は深々と頭を下げた。
その夜、美月の部屋で宿題をしていると、美月が突然振り返った。
「ねえ、蓮くん」
「何?」
「キスって、した方がいいのかな?」
突然の質問に、僕は赤面した。
「え?」
「だって、恋人同士なら普通するでしょ?でも、どうしていいかわからなくて」
美月も顔を真っ赤にしながら言った。確かに、僕たちは恋人になったものの、キスどころか手を繋ぐことすらまだ慣れていない。
「僕もよくわからない」
「そうだよね」
美月が苦笑いを浮かべる。
「でも、したいって気持ちはある」
僕の言葉に、美月の目が大きくなった。
「私も」
小さな声だった。
「じゃあ、してみる?」
「うん」
僕たちは向き合った。お互いに緊張で震えているのがわかる。
「目、閉じる?」
「うん」
美月が目を閉じる。僕も目を閉じて、そっと顔を近づけた。
柔らかな唇の感触。
「どうだった?」
離れてから、美月が恥ずかしそうに聞いた。
「よくわからないけど、嬉しかった」
「私も」
美月が微笑む。その笑顔は、今まで見たことがないくらい幸せそうだった。
「ねえ、蓮くん」
「何?」
「私たち、ずっと一緒にいようね」
美月の言葉に、僕は頷いた。
「ずっと一緒だよ」
夜の窓の外では、初雪がちらほらと舞い始めていた。
お隣さんから恋人になった僕たちの関係は、これまでと同じように自然で、でも今まで以上に特別なものになった。
寂しがりの僕と美月が見つけた、一番自然で一番特別な関係。それは、きっとこれからも続いていくんだと思う。
ちょっと久しぶりの短編です。楽しんでいただけたら、★レビューお願いします!