ep.5
「あ、あれっ……?」
「どうしましたか?」
「す、すみません……ま、まったく体が動かないです」
笹美さんは一歩も動けないようで、お尻と足がぴくぴくと震えていた。
筋トレをしているときは脳からアドレナリンが分泌される。そのおかげで限界まで鍛えることができるが、その反動として鍛え終わったあとに疲労が一気に押し寄せてくる。
僕は屈んだ上体で、笹美さんに問いかける。
「少しずつ動かせますか?」
「や、やってみます……」
笹美さんは拳を握りしめ、踏ん張るように声を出しながら、体を動かそうとする。
声にならない声を漏らしながら、足がピクリと動いた。
「頑張ればっ……動けそうですっ……」
「ですが、このままでは筋トレの効果が激減してしまいますね」
このままではパンプが冷めてしまい、筋トレの効果が下がってしまう。すぐにでも栄養補給しないと筋肉への鞭と飴が成立しなくなってしまう。
僕は笹美さんを抱き寄せると、そのままの勢いでお姫様抱っこをした。
「ちょっと失礼しますね」
「く、国緒さんっ⁉」
笹美さんは動揺したように、頬を朱に染めて、落ちないように身を縮ませた。
僕は笹美さんを抱えながら、玄関に移動する。
歩くたびに笹美さんのふにゃんとした柔らかさと熱が伝わってくる。
玄関の扉を開けると、マンションの風が頬を撫でた。左右を見渡して、廊下に誰もいないことを確認し、隣の部屋の前に移動する。
「部屋の鍵って持ってたりしますか?」
笹美さんは首を横に振り、鍵を閉めていないことを教えてくれた。
僕は笹美さんのドアノブに手をかけて、扉を開く。
そのとき、笹美さんはハッと正気に戻ったような顔になった。
「へ、部屋に入るのは、ちょっと待っ――」
同じマンションである笹美さんの自宅。間取りは一緒のはずだが、不気味なオーラが漂っていた。空気が重く、妙にどんよりとしている。
僕は腕の中にいる笹美さんに、動揺を隠しながら聞いた。
「整理整頓が苦手なんですか?」
「うぅ……見ないでくださいっ……」
玄関前には積まれたゴミ袋があり、中にはカップラーメンや総菜の空箱が詰まっている。廊下の隅には飲みかけや空のペットボトルが鎮座しており、隅にはホコリが溜まっている。
ゴミ屋敷とまではいかないが、汚部屋といって差し支えない空間。
「……もしよければ掃除をしましょうか?」
「えっ、いいんですか⁉」
「筋肉を育てるためには周囲の環境も大事なんです。新鮮な空気を取り入れ、ストレスが無い生活を送らなくてはいけません」
僕は笹美さんをゆっくり下ろしながら、
「その前にシャワーを浴びてきてください。僕は先にしておきますので」
「シ、シャワーですか⁉ それにシておくって……」
笹美さんは飛び跳ねて距離をとり、驚いたようにこちらを見てくる。
「掃除です」
「な、なるほど……ビックリして足が動いちゃいました。まあ、さっきよりは動くので、頑張って歩きますけどぉ……」
笹美さんは壁に手をつきながら、ゆっくりと風呂場の方に向かっていく。
僕は笹美さんの背中に、部屋を自由にして良いかと問うと、笹美さんは無言で親指をグッと立てて、脱衣所に入り、カーテンを閉めた。
カーテンの向こう側からしゅるりと服を脱ぐ衣擦れ音が聞こえはじめる。
僕は廊下を進み、キッチンとリビングを確認する。
キッチンには唐揚げを作った後の残骸があり、洗っていない食器がいくつかあった。
リビングには漫画や小説が床に積み重なっている。近くにある本棚には空いているスペースがある。
「……ちょっと冷蔵庫を失礼しますね」
冷蔵庫を開けると、中には数本のエナジードリンクとマヨネーズが入っていた。野菜室や冷凍庫には何も入っておらず、唐揚げを作ったときの材料は全て使ってしまったらしい。卵の殻や鶏肉の空パックがまな板の上に置いてある。
僕が唖然としているなか、シャワーの音と共に機嫌が良さそうな鼻歌が聞こえてきた。
「二〇分くらいですかね……」
僕は無い袖を捲った。
床に落ちているゴミを回収し、積まれている本を順番通りに本棚に並べる。流し台にある食器を洗って、廊下にあるペットボトルをゆすいでゴミ袋に入れていく。寝室は扉が閉まっていたので入らなかった。
五分も経たない内に、どんよりとした空間は新築の部屋みたいに綺麗になった。
「それにしても、笹美さんの栄養バランスを調整しないと……」
掃除をするなかで、笹美さんが野菜やビタミンなどをほとんど摂っておらず、油や炭水化物などを多く摂っているのが分かった。タンパク質は少なからず摂取しているものの、筋肉を育てるなら、まだ足りない。
シャワーの音が止まった。
カーテンが開き、上下黒のジャージを着た笹美さんが現れた。首にはタオルをかけており、眠たそうに欠伸をしている。
「ふうぅ……だいぶ動けるようになりましたぁ……」
眠たそうな笹美さんは綺麗になった部屋を見て、目を見開いた。
「ものすごくきれいになってますっ⁉ ありがとうございますっ!」
僕は微笑を浮かべながら、笹美さんに提案をした。
「……笹美さん、もしよろしければ料理をしてもいいですか?」
「いいんですか~⁉ ぜひお願いします~!」