ep.3
笹美さんの息が整ったところで、僕は笹美さんをランニングマシンの前に連れていく。
「それでは、ランニングマシンをやっていきます」
「えっ、走るんですか……?」
笹美さんの表情が強張った。
「走らなくて大丈夫ですよ。ちょっとだけ歩くだけです」
「ほ、ほんとに走らなくていいんですか? だったらやります」
笹美さんはランニングマシンの走行ベルトの上に乗る。
僕は笹美さんに安全クリップを装着させると、ランニングマシンを起動させた。
「それでは歩いてみてください」
笹美さんが一歩踏み出す。ランニングマシンから静かな機械音が鳴り、走行ベルトが動き出す。
「わあっ! なんかすごいです!」
笹美さんは喜びながら、手すりをぺちぺちと優しく叩く。
僕はランニングマシンを設定しながら、笹美さんに説明する。
「筋トレの前にランニングマシンをするのは脂肪を燃焼しやすくするためです。代謝が上がりやすくなるので筋トレをしたときに効果が絶大になります」
「な、なるほど、これは筋とれに必要なんですね。頑張りますっ!」
走行ベルトは徐々に速度が上がっていく。笹美さんが少し早歩きになり、走行ベルトの速度が一定になる。
「笹美さん、これぐらいの速さで大丈夫ですか? 変更するなら前にあるボタンで操作できますよ」
「余裕ですよ~。なんならもっとはやくてもいいくらいです!」
「最低でも二〇分くらいはやるんですけど、本当にいいですか?」
「任せてくださいっ!」
笹美さんは余裕そうな笑みで告げた。
五分経つと、笹美さんの表情から余裕が消えた。
一〇分経つと、手すりを使うようになった。ランニングマシンが自動的に速度を調節しているので、笹美さんが歩きを止めることは無かったが、それでも辛そうな表情をしていた。
二〇分が経過し、僕は笹美さんに聞く。
「もうちょっとやれますけど、どうしますか?」
「げ、限界です……」
笹美さんがボタンを押すと走行ベルトの速度が少しずつ落ちていく。やがて完全に止まると、笹美さんは走行ベルトから降りた。
膝に手をつきながら苦しそうに呼吸をする。額から流れる汗を拭いながら、必死に空気を吸おうとしている。
僕は笹美さんの背後に回り、膝にある手を掴んで腰におかせる。
「膝に手をつくと回復に時間がかかります。腰に手をおいて空気を全身に送り込むようなイメージをしてください」
「わ、分かりましたぁ」
笹美さんは何度か深く呼吸をする。触れているところから呼吸のリズムが一定になっていくのが分かる。
「な、なんか楽になってきました!」
「それはよかったです。これで準備運動は終わりです」
僕は笹美さんを全身鏡の前に立たせて、筋トレの説明をする。
「それでは筋トレをはじめます。まずはスクワットからです」
スクワット。下半身の筋肉を鍛える筋トレで、ダイエットに一番効果的とされている。
「ポイントは膝を足先の前に出さないのと背筋をビシッとして姿勢をよくすることです。とりあえず、やってみましょう」
「が、頑張りますっ!」
笹美さんは膝を曲げて、地面に着かないギリギリまで尻を下ろすと、再び膝を伸ばした。
一番強度が高いスクワットをしている⁉
シンプルなスクワットでも膝の角度や姿勢によって強度が異なる。さらに筋トレをやりはじめた人は無意識のうちに力を制限することが多い。
だが、笹美さんの筋肉は制限をしなかった。
僕の筋肉がピクリと疼いた。
「あ、あの国緒さん? これでいいんですか?」
「……とても素晴らしいです。このまま一〇回ほどいけますか?」
「たぶんいけます!」
笹美さんはスクワットをはじめた。回数を重ねていくと姿勢が曲がってきたり、下ろす位置が上がってきたりする。そのたびに僕は調整をする。
「笹美さん、少し触りますね」
「ストレッチでちょっと慣れましたし、大丈夫です……んっ」
笹美さんの筋肉は、青春を謳歌する少年少女のような成長と未来が感じられ、もっちりとした柔らかな筋肉が特徴的だった。
九回、一〇回とスクワット終わり、僕は笹美さんに問う。
「まだいけますか?」
「かっ、かなり頑張れば……!」
一一回、一二回と頑張る笹美さん。僕は腰に手を伸ばす。
「ひにゃっ」
「あと数回、補助をしますね」
笹美さんが力を入れるタイミングに合わせて、僕は腰を掴んだ手を上下させる。笹美さんからくぐもった声が聞こえる。
「あっ、あっ……もう、イッ――」
一五回。笹美さんは体に力が入らなくなったようで、ストンと尻餅をついた。
「も、もうっ、無理っ……‼」
笹美さんはペットボトルの水を一気に飲み干す。
全身から汗を流しており、一生懸命に酸素を取り込もうとして呼吸が乱れている。
僕は笹美さんの呼吸が落ち着くのを待ってから声をかける。
「よく頑張りました笹美さん、ナイス筋肉です」
「な、ないす筋にくぅ……」
笹美さんはタオルで汗を拭きながら、ふと、こちらを見た。
そしてタオルで口元を隠しながら、恥ずかしそうに尋ねてくる。
「あ、汗のにおいしたりしますか?」
これは女性のお客さん、ダイエットをしたいふくよかな人などのトレーナーをしているときによく聞かれる。
そういうときは汗のにおいに関しては一切言及せず、汗をかくことのメリットを最大限伝える。
「筋トレをするときは汗を流すのが大事なんです。汗と一緒に老廃物が流れていくので、代謝はあがり肌もつやつやになります。汗をかくのはとてもいいことなんですよ」
「……もしかして国緒さんって汗フェチだったりするんですか?」
「いえ、汗フェチではないですよ」
筋肉フェチではありますが。
僕は冷蔵庫から二本目のペットボトルをとってくると笹美さんに渡す。
「笹美さん、あと二セットいけますか?」
「や、やってみます!」
笹美さんは力強く頷いた。
次のセットからのスクワットは回数や膝を曲げる角度を調整しつつ、負荷を変えていく。
ずっと同じ強度や回数でやるのも大事だが、色々なバリエーションで筋肉を飽きさせないのも筋トレをするときのコツだ。
僕は笹美さんの腰を持ちながら、
「笹美さん、少し下げる位置をあげましょう。イメージはトイレに座るときです」
「こっ、こんな感じ……ですか?」
「そうです。使っている筋肉が違うのがわかりますか?」
「な、なんとなく分かりますっ……」
「その使っている筋肉だけを意識して、筋トレをしてみてください」
「うっ……あっ……もう、キツいっ……」
筋トレをするときにやってはいけないことが二つある。
怪我をすることと他の筋肉に浮気をすることだ。
脳の構造上、筋トレでは鍛えている筋肉以外を使って楽をしようとしてしまう。
そういうときに鍛えている筋肉を意識することで、よりキツくなり筋肉が喜ぶ。
じっくりと時間をかけながら、回数を重ねていく笹美さん。
スポーツウェアは汗が染みており、本来の色より暗くなっている。
「笹美さん、ラストスパートです」
「……一〇回、一一回……もう、限界っ……」
笹美さんは流れるように仰向けに倒れた。
お腹が膨らんだり小さくなったりしながら、近くに置いてあったタオルを手に取り、顔にあてた。しょんぼりしたようすで口を開く。
「すみません……最後はあんまり回数ができなくて……」
「いえ、笹美さんの筋トレは初めてとは思えないほど優秀です」
最初のセットと比べて、限界までの回数は減っているが、それは正しいことだ。全力を常に出し続けているのだから、限界が近くなるのは必然である。
「ほ、本当ですか⁉」
そもそも初めて筋トレをする人は倒れるまで全力を尽くすことが難しい。小休憩を挟みながらとはいえ、二〇分以上も同じ部位の筋トレをするのは並大抵のことじゃない。
「筋とれでえっちな声ってちゃんと漏れてましたか⁉」
「……」
僕は小さく頷いた。筋肉を鍛えているときは、そういった欲がほぼ無くなるので、答えづらかったが、トレーナーとしてしっかりと応じるべきだと思ったから。
笹美さんは小さくガッツポーズをする。
「や、やっぱり私の考えはあっていました……!」
「笹美さん。まだ筋トレは残っていますよ」
「えっ」
笹美さんが絶句したので、僕は少し口角を上げた。
「まあ、残っていると言っても、最後の筋トレなので、頑張りましょうね」
笹美さんは安堵したように息を吐く。そして強がったように言葉を並べた。
「ま、まだ余裕がありましたけど、仕方ないですね~」
「初日はどれくらい筋力があるのか調べるため、軽めのメニューにしたつもりだったんですが……もうちょっと増やしますか?」
「すみません、調子に乗っちゃいました」
笹美さんが両手を合わせて頭を下げてくる。
僕はニコリと笑いながら、笹美さんの横に移動して正座する。
「それくらい気合があるなら、最後の筋トレも頑張れそうですね」
「もちろんですよ!」