ep.0
僕は筋肉が好きだ。
とくにむっちりもっちりとした鍛えがいのある筋肉が大好きだ。
筋肉は朝から鍛えるといいとされている。だから、僕は朝から鍛えている。
自宅であるマンションの一室。
リビングにある全身鏡の前に立ち、マットの上で筋トレの準備を行う。
30キロのダンベルを片手ずつ持ち、ゆっくりとした動作で肘を曲げる。
肘を曲げ終えると、再び肘を伸ばす。それを何度も繰り返す。
アームカール。上腕二頭筋を鍛える筋トレで力こぶがもっこりするのに大事だ。
「ふっ……ふっん……」
丸太のように太い腕に血管や筋が浮きでる。
「うっ……」
一〇回くらいを超えてから、腕に力が入らなくなってきた。筋肉からも悲鳴が聞こえてくる。
もう終わりにしてくれぇぇええ‼ はやく楽にしてくれぇぇええ‼
そうなると、僕はもう止められない。
「はぁっ……はぁっ……」
呼吸が乱れ、全身から汗が滝のように流れる。汗が滴り、雨粒のように床に落ちていく。
僕が興奮しているのを感じたのか、筋肉はより一層悲鳴をあげた。
筋トレとは、限界を超えてからがホントの筋トレである。それまではただの準備運動だ。
「や、べ……」
力が尽き果てるまで。意識が飛ぶギリギリまで。そして体を壊さないくらいで。
「……っ」
腕が動かなくなった。ダンベルを持つ手の感覚が薄っすらと無くなっていく。
僕は最後の力を振り絞り、根性と気力と筋力で肘をぐっと曲げた。
「……~っしゃあ‼」
みなぎってくる達成感。そして同時に押し寄せてくる脱力感。
僕はダンベルをそっと床に置き、全身鏡を見る。
汗で濡れている銀髪。親譲りの褐色肌。爽やかな笑顔。
23歳にして10代の学生に間違えられるほどの若々しさがあり、キリッとした眉が清潔感を醸しだしている……。いや、違う。そこはどうでもいい。それよりも筋肉だ。
僕は汗で濡れたタンクトップを脱ぎ、上裸になる。
はきちれんばかりの大胸筋。
チョコレートみたいに割れた腹筋。
お腹まわりよりも大きい大腿四頭筋。
筋肉量はもちろんながら、上半身と下半身の筋肉のバランスも完璧である。
「……また筋肉に夢中になってしまった……このままじゃパンプが冷めてしまう」
僕は台所にそそくさと移動し、シェイカーにプロテインの粉と水を入れた。
何度か振って混ぜた後、シェイカーに口をつける。
本日のプロテインはチョコ味だ。他にもバナナやヨーグルト、バニラなど色々な味がある。味を変えて飽きないようにするのも、筋肉にとって大事なことだ。
一口飲むと、乾いていた喉が潤った。
チョコの風味が鼻をくすぐり、プロテイン特有の独特な味が口にひろがっていく、
「くぅ~……‼」
全身に染み渡る多幸感。
筋肉も喜んでいるようで、ぴくぴくと動いている。もう一口飲もうとしたところで、
――ピンポーン、と遮るようにインターホンが鳴った。
「もしかして頼んでいた新作のプロテインが届いたのか?」
僕はプロテインを一気に飲み干して、玄関に向かう。玄関に近づくにつれ、全身の筋肉がビクビクと痙攣しだす。僕は少しだけ警戒心を持って、ドアノブを握った。
扉を開ける。
「すみません、お待たせしました~……ん?」
そこには唐揚げがあった。
大皿からあふれるほどの山盛りの唐揚げ。それを持った少女が立っている。
少女はもぐもぐと唐揚げを頬張っているらしく、扉が開いたのに気づいて、ごくりと飲み込んだ。少女がペコリと頭を下げる。
「あ、朝からごめんなさい! それとおはようございます!」
耳がとろけるような甘美な声。
聞き心地がよく、耳から心にじっくりと染みてくる。
「お、おはようございます……」
僕がとりあえず挨拶を返すと、少女は顔を上げ嬉しそうに微笑んだ。そして、僕が上裸なのに気づいて、頬を赤く染める。
「あ、あの……どうして服を着てないんですか?」
「鍛えていたからですね。海では水着になるのと一緒です」
少女は戸惑いながらも、ふむふむとどこか納得したように頷いた。
10代前後であろう可愛らしい少女。
腰丈まで伸びた艶のある黒髪。
もちっとした色白の肌。
ふにゃっとした幼い顔立ち。
小さな体つきながら胸はとても大きく、太ももはむっちりしている。
服装はラフな恰好で、だぼっとした猫耳パーカーとぴっちりとしたデニムのショートパンツ。
少女は緊張したようすで、山盛りの唐揚げが乗った大皿を渡してきた。
「こ、これはおすそわけですぅ! ぜひ、食べてください!」
「ありがどうございます」
僕は渡されるがままに大皿を受け取り、絶句する。
唐揚げにたっぷりのマヨネーズがかかっている⁉
間近で見るまで分からなかったが、唐揚げと唐揚げの間にマヨネーズが緩衝材のように入っている。
唐揚げだけでも高カロリーなのに、それにマヨネーズを追加するなんて、油の暴力だ。憎き敵である脂肪が歓喜し、愛しの筋肉が嘆き悲しむ。
僕が唐揚げとにらめっこしていると、少女がおどおどしながら聞いてくる。
「あの大丈夫ですか? もしかして、唐揚げが苦手だったりしますか……?」
不安げなようすを感じとったので、僕はニコリと笑って感謝を伝えた。
「いえ、唐揚げは好きですよ。(チートデイの日に)ありがたくいただきますね」
「よかったです! 筋肉には鶏肉がいいって調べて、頑張ってつくったんです!」
少女は自慢げに胸を張る。パーカーの上からでも分かるくらい、大きな胸がたゆんと揺れた。
僕は苦笑を浮かべ、ふと、少女に見覚えがあることに気づいた。
何度かマンションの廊下ですれ違ったり、エレベーターで一緒になったりしたことがある。
そのときの少女はスマホを見ていたり、本を読んでいたりするので、会話を交わしたことは無かった。
「たしか隣に住んでいる方ですよね?」
「そうです。お隣の海柱笹美です!」
笹美さんは興奮したように話を続ける。
「おにいさんって筋トレをしていますよねっ?」
「僕は鳥宗国緒です。それと筋トレについてですが……もしかして、うるさかったですか?」
僕は恐る恐る尋ねる。
実家で筋トレをしていたときも、両親から苦情があった。トレーニングのときに漏れる声や、器具を使うときの物音がうるさかったようだ。
それにこのマンションは壁が薄い。上下は問題ないが、隣の笹美さんの部屋からも声が聞こえてくる。楽しそうに笑う声や、馴染みのある曲を元気よく歌っている。
日常生活に支障はないので、気にしていなかったが、笹美さんはそうじゃなかったかもしれない。
「そ、そうじゃないです」
笹美さんは首をぶんぶんと横に振る。
「たしかに色々と声は聞こえてきますけど、うるさくはなかったです」
「でしたら、僕に何のようですか?」
笹美さんはごくりと喉を鳴らした。
何度か深呼吸をすると、覚悟を決めたような表情になった。
「わたしに筋トレを教えてくだしゃいっ‼」