秘策
氷壁。
砦の正面――ナギが攻めてくる東側の平地に、一夜にして巨大な城壁を現出させたのである。
仕掛けは単純だ。まず兵士たちに簡単な骨組みだけを作らせ、その上から雪を盛り固めさせた。天辺まで雪が盛られたところで全体に水をふりかければ、たちまち雪は凍りつき、堅固な防壁が誕生する!
雪の国では今冬、開闢以来と言われるほどの厳寒に見舞われていた。雪は際限なく降り続き、大気は凍てつくように冷たい。そのような環境下なればこそ、このような奇策が実現できたのだ。
子供の頃、雪合戦でナギが作ってみせた見事な雪の防壁を見ていなければ、そんなものはとても思いつかなかっただろう。
奴は期せずして将来の敗北の種を自ら招いてしまっていたことになるのだ、これ以上の意趣返しはないではないか! ヒョウは内心で快哉をさけんだ。
防備の薄い砦だと油断して侵攻してきた風の国の兵たちは、度肝を抜かれたことだろう。元の砦のみなら五千の兵で攻略できたかもしれないが、そこにもう一枚巨大な防壁が加わるなどとは、夢想だにしなかったはずだ。
事実ナギの軍勢は到達するや、氷の城壁に進軍を阻まれていた。
今の季節、冷気に固められた雪の壁は鉄壁にも等しい硬度を誇る。そこに直接取りついて登ろうとしても、表面が滑りやすい氷りついた壁は通常の石の城壁とは比較にならぬ程登りづらい。
難儀しながら時間をかけて登ってくる風の国の兵たちへ、雪の国の守備兵たちは氷壁の頂から矢や氷塊、握り固めた雪玉などを容赦なく浴びせかける。風の国の兵たちは次々と落下し、氷の城壁の下にはたちまち彼らの屍が重なっていった。
ならば雪の壁など溶かしてやろうと敵も火箭を射かけてきたが、この寒さでは矢先の炎は突き刺さるや即座に消え失せ、わずかに溶けた氷壁の一部はたちまち再凝固する、といった具合だった。
銃火器の存在しない時代である、風の国の軍は万策尽きたかにみえた。
それでも諦めきれないのか、敵はいく度撃退されても押し寄せてきた。襲来してから八日もの間、吹雪で戦闘継続が困難になる九日目に差し掛かるまで間断なく攻撃を仕掛け続けた。だが氷の城壁は、小揺るぎもしなかった。
途中からは攻め方にこれといった工夫も見せず、ただ闇雲に突進してきてはすごすごと引き返すという醜態を繰り返す始末だった。
「風の国の猪どもめ、意地でもこの氷壁を落とそうと躍起になっているぞ。いくらやっても無駄なことなのに!」
敵軍の様子を見て、雪の国の兵たちは砦の内でせせら笑っていた。主将のヒョウも同感だった。あのナギが率いているとも思えない、無様な用兵だ。難攻不落の氷壁という予想外の障害に直面し、相当頭に血が昇っているらしい……
ナギの取り乱した様を想像するだけで、愉悦が込み上げてくる。
激しい吹雪により戦闘は一時中断となったが、それでも風の国の軍に諦めて退却する素振りはなかった。氷の城壁に向かい、やや距離を置いてではあるが依然対陣を続けている。
視界さえままならない雪原の中に整列する兵、翻る軍旗の影が浮かび上がっていた。
「未練がましいことだな。冬の野営も楽ではないだろうに」
氷壁の上から遠方の敵影を眺めながら、ヒョウはひとりごちた。
彼にはナギが退却を選択できない理由がわかっている。武力により風の国を奪ったナギは、「勝利」という戦果によっておのれの覇権を繋ぎとめねばならないのだ。一応の平定をみたとはいえ、内心で簒奪者の独裁を快く思っていないものはまだ風の国には無数にいるだろう。
ここで雪の国に進攻しておきながら砦ひとつ抜けずおめおめ逃げ帰るなどという失態をおかそうものなら、「新王ナギ恐れるに足らず」と見なされたちまち反乱の火の手があがりかねない。現在のナギは敵にも味方にも弱みを見せられない、常勝を求められる立場なのだ。
だから如何に困難だろうと無謀だろうと、氷壁の攻略に固執せざるをえない。そのようなナギの事情も、当初からヒョウは計算に入れていた。
とはいえ、ただ距離を置いて対陣しているだけで氷壁が崩れるはずもない。
このままいたずらに時が過ぎれば、自然と勝利は我が方に転がり込んでくるはずだ。雪の国首都から、すでにこの砦へ向けて五万の援軍が進発しているという報を受けていた。援軍が到着次第、砦の守備兵と合わせて打って出て、成す術なく城外に留まっている五千の兵などひと呑みにしてくれる!
その際、叶うならば主将のナギは生かしたまま捕らえたい。目の前で雪に埋もれた地べたにひれ伏させ、屈辱に歪んだ顔を見下ろしてやるのだ……
これでようやく、積年の屈辱を雪ぐことができそうだ。
ヒョウは高揚がおさえられなかった。