妄執
幼年学校を卒業後、ヒョウもナギも祖国へ帰り軍務についた。
以来十数年、ヒョウはたゆまず研鑽を積み、周囲が目を見張る速さで出世を重ねている。
名門出として縁故を存分に活用したことは事実だ。だが彼が地位に相応しいだけの功績を挙げてきたことは、何人も否定できない。周辺国との争いが絶えない群雄割拠の時代、武名をあげる機会には事欠かなかった。
そして三十手前にして、風の国との国境沿いの砦を任されるに至った。これは雪の国開闢以来の快挙と言っていい。
「名将」
「天才」
「稀代の風雲児!」
様々な阿諛追従に彼は包まれた。
だがそれらが耳に入るたび、彼は苦い表情を浮かべた。人々が誉めそやす彼の躍進も、隣国から聞こえてくるナギの噂の前ではたちまち霞んでしまう。
若年ながら風の国の軍人として最高の地位まで登り詰めたナギが、子飼いの将兵を率いて反乱を起こし自国の国王を追放した、という報に接したのは今から1年前だった。
覇権を手中にしたナギはそのまま風の国の新王として即位し、ナギ一世を名乗った。まごうことなき簒奪である。
雪の国首脳部は恐怖した。これまで比較的良好な関係を保っていた隣国が、若く貪欲な独裁者に乗っ取られてしまった。弱肉強食の世だ、いつこちらに牙を向けてくるとも限らない。
一方、ヒョウは胸中で「やはりな」と頷いていた。
「俺には戦の神がついている」と豪語した、幼少期のナギが脳裏に浮かぶ。恐れを知らない顔だった。あの頃から、不逞な野心を抱いていたに違いない。
そしてその野心が、風の国一国に留まるはずもない。首脳部のおいぼれどもの憂慮は、早晩現実のものとなるだろう。
己が才に絶対の自信を持つあの男は、いずれ必ず大陸制覇に乗り出す。手始めは、隣国であるこの雪の国だ。その時緒戦で若き覇者と対峙するのは、国境の砦を任される自分となるはずだった。
「そうそう思い通りに、ことが運ぶと思うなよ」
密かに闘志を激らせた。幼年学校で味わった屈辱を、依然ヒョウは忘れていない。これは実戦の中で雪辱を果たす、格好の機会ではないか。
一歩たりとも我が国の領土に踏み込ませるものか、逆に貴様の軍を殲滅してやるぞ!
ヒョウはナギの軍勢を迎え撃つ支度にとりかかった。寸暇を惜しんで、旧知の野心家から勝利をもぎ取るための秘策を練りはじめたのである。
それは妄執に取り憑かれた男の、凄絶な知的作業だった。日々やつれて行く主将の様子を、砦の部下たちは薄気味悪そうに眺めていた……
1年後。
政変後の混乱をおさめ風の国を完全に掌握したナギが、精兵五千を率い雪の国への侵攻を開始した。冬の季節、寒波を突き破りながらの進軍であった。
東の風の国から西の雪の国中心部へと続く唯一の街道は、国境沿いの山間部においてヒョウの守護する砦が塞いでいる。
砦の南側には急峻な山嶺がどこまでも連なり、北側にはやはり険阻な山並をわずかに挟んで広大な内海が鎮座している。まして今の季節、山岳部は分厚い雪に閉ざされ、内海には流氷が漂い舟を浮かべることさえできない。
北からも南からも、迂回は不可能だろう。ナギの軍勢が雪の国領内へ攻め入るには、ヒョウの砦を抜くしかないのである。
その砦の守備兵はわずかに二千。造りは決して堅牢とは言えなかった。
ナギが覇権をにぎるまで、風の国とは良好な関係を維持していた。雪の国としては、大金を投入して国境の砦を強化する必要に迫られなかったのである。
そしてナギが新王に即位した後も、改築されないままでいる。中央の為政者たちが出費を惜しんだこともあるが、何より責任者であるヒョウ自身が砦の防備強化を求めなかった。
これはナギを油断させる為の策だった。気に食わない相手だったが幼年学校を共に過ごした間柄である、相手の性格は熟知している。
子供の頃から、奇襲や速攻を好むのがナギという男だった。「戦の神がついている」という絶対の自信が、一見無謀にも見える突飛な策を実行させるのだ。
もしこの砦が以前と変わらない、城兵もわずかで攻略が容易なままだという情報を得れば、奴は必ず国内平定から時をおかず侵攻してくる。腰を据えて十分な兵力を整えるよりも、相手国の防備が固まる前に寡兵で攻め寄せる道を選ぶはずだ。
それもおそらく兵法の常道に反して冬、雪煙に紛れた進軍を強行してくるだろう。その方が敵の意表をつくことになるーーヒョウはそこまで予測していた。
予測はほぼ完全に、現実となった。ナギが率いる五千という兵数は決して少なくはないが、攻城戦を挑むにはやや物足りない数である。
それでも防備の薄い砦ならば早々に突破する自信があったのだろうが、当然ヒョウも手をこまねいていない。
ナギの軍勢が砦に迫っているという報を物見から受けるや、胸中に思い描いていた秘策を実行に移した。
それが、"氷の城壁"だった。