其の八
新三郎の持っている長屋に、伴蔵、おみね という夫婦が住んでおります。
この夫婦は、大家である萩原新三郎の、色々と身の回りの世話をする代わりに家賃がかからず、小遣い程度のお駄賃もいただけるのですが、
やはり良い着物、少し美味しいご飯、となると、おみねさんが内職をしないといけないという生活をしております。
この夫婦ですが、ある晩の事、なにやら揉めておりまして。
「あたしが知らないとでも思ってるのかい!」
「何だよ、何だよ」
「夜な夜な女と話してるでしょ!しかもこの長屋の目の前で!
……おまえねえ、女の家に行く男ってのは聞いたことがあるよ。
女を妻がいる家の前に連れ込む男ってのは初めて聞いたよ! なに考えてんだい!」
それは、最近の伴蔵にとってあまりしたくない会話でございました。
「わかったよ。わかったよ。全部はなす。……ただな、一度話したら終いまでやめねえぞ」
「なんだいその言い方は」
「お前がいくら途中で『やめて』って言ってもやめねえって言ってんだ」
そして伴蔵は語り始めます。夏の蒸し暑い夜でした。
あまりにもの暑さに辛抱たまらず、伴蔵は長屋の外で涼んでおりました。
清水の向こうから…… カラン……コロン……
二人分の下駄の音が聞こえてまいりますと、
片方は手に牡丹の灯籠を下げた実に品のいい女。もう一人は文金高島田に髪を結いた美女。
こんな時間に幻でも見てるのかな……もしかしたら夢でも見てるのだろうか。
そんな事を思っていたら……
「伴蔵さん……伴蔵さん……」
初めて会うのに彼の名前を知っていたそうなのです。
はい、伴蔵でございますが。と彼が申すと……
「萩原新三郎さんの家の『しまり』にお札が貼っており、家に上がれないのでございます。剥がしてはいただけませんか」
美人にものを頼まれたんで、
「へえ。お安い御用です」
と安請け合いしたのが悪かった。
次の朝、新三郎の部屋に、掃除に入った時に驚いた。
『しまり』どころか部屋中にお札が貼ってある。
これはどう考えてもおかしい。
それに同じ長屋の白翁堂勇斎という変人が、「最近女の幽霊がどうこう……」と言っていた!
もしかしてあの二人がそうか!
本物の幽霊ってのはすげえぞ。
後が透けて見えるんだ。
そんなのが毎晩毎晩……伴蔵さん……伴蔵さん……お札が剥がれておりません……
お札が剥がれないとお嬢様がおむずかりになります……お札を剥がしてくれないと………
お 恨 み 申 し 上 げ ま す よ。
「やめてよ!!」
「やめねえっつったろ!! あの二人が幽霊だとしたら、お札を剥がしたら新三郎さんは幽霊に呪い殺されてしまう。
かといって剥がさないと毎晩毎晩家の前にやってくる。
お前が何にも知らないで寝てる間、俺は毎晩毎晩脅迫されてんでい!」
萩原新三郎が呪い殺される、それはすなわち雇い主を失うことになります。
新三郎のおかげで何とか食い繋いでる二人にとっては絶対にあってはならないことでございます。
しかし、お札を剥がさないと……いずれ自分が殺されてしまうかもしれない。
これは相当なジレンマだと思います。
ジレンマに足掻いていると、おみねはこう、口にします。
「こんなの不公平じゃないさ!」
「何だよ不公平って」
自分達は幽霊に一方的に怖い思いをされている。
なのにお札を剥がしても自分達に得することはなにもない。
こんなの不公平だ。と、おみねは申しております。つまり……
「いくらかお金を請求したって、バチは当たらないんじゃ無いかね!!」
という結論に至ります。
もちろん、相手は幽霊ですので『おあし』が無いのは常識でございまして……
だから、お金がいただけないなら、無理です! と言い返しなさい。との事でした。
いやー……いつの時代も女性は賢いですね。