andata
人が死ぬ度に、幾度となく、自分が相手のことを知らないのか思い知らされる。
何ということもない、ごく普通に死んでいく。何年もの間、毎日一緒に過ごしてきたのに、相手が本当はどういう人間だったのかということを、ぼくは知らない。
同じようにぼくも死ぬ。俺の人生、終わった。ようやく、ぼくが登る山にたどりついたら、ぼくのエントロピーが尽きた。
「Wed.19961206
「f」、「救い」の章。疑問。なぜ庭の木の枝は先だけ白いのか?Perfectな「美」とは、自然なのか?美しさと快適さは無縁だということ。」※
「たすけて」
無機質である温かい水の中で思わず声が出て、意識を取り戻す。もう、ぼくに残された時間は幾許もないだろう。
身体を温める終末ガン緩和ケアと意識を別の身体に移す実験は同時並行に行われている。この身体に戻るたびに、動かない身体が終わりを告げる。
「さあ、ベッドから出ましょう!少しでも身体を動かして。さあさあ!」
人間の不寛容さは、その人間と人間の超えられない溝の深さに、由来するのではないか。
「わかりました、ちょっと待って」「1分で支度しな!」「はい、はい」
人はわかったフリをしながら、何もわかってない。死の先はない。だから死んだら終わりだと、怖くないと思っていたが、いざ動かない身体となれば今までのことなどさっぱり忘れて生きることに執着した。
本当は車椅子を押されてまで、出歩きたくない。だが、今日はぼくが生まれた街に行こうと連れ出される。遠い昔に自由学園があった、ヒッピーな感触の街はあれから変わることなく、今日もぼくを受け入れた。
変わらない桜坂の下を通ると、小さな3人組に出会う。遠くから映画の宣伝トラックが勇ましくも「大和魂」を連呼している。
信号待ちの交差点でトラックが通り過ぎると、子どもがトンチンカンなアクセントで「ヤマトタマシイ!」と、笑って、信号半ばでくるりと回った。
では、大和魂はどんなものかとつい聞いたら、 「ヤマトダマシイ」さと答えて子どもたちは反対側に走って行く。
交差点の対岸からエヘンと云う声が聞こえた。
ああ、さて、ぼくの話はひとまずここで終わりにします。こんなとるにたらないぼくが見た夢に付き合ってくれてありがとう。
1978年11月25日 「まだ何者でもないぼく」
『Now is the time, Now is the time』




