明日じゃない
「便箋と封筒」
三月の下旬、男は会社を辞めた。
外は日が沈みかけていた。
会議室で、四人の男女が椅子に座っている。
従業員の女が「もうこの人とは一緒に働くことはできません」と言った。
もう一人の従業員の女も「私も同じ意見です」と言った。
男は、うつむいて、床を見ている。
経営者の男が、「何か言うことはあるか?」と男に尋ねる。
男は顔を上げずに、「ありません」と答えた。
男はデスクに戻り、残務処理を終えてから、会社を出た。
暗い歩道を歩き、駐車場の車に乗って、家路につく。
マンションのエレベーターを待っていると、年配の女と一緒になった。
男は先に乗り込み、「何階ですか?」と聞いたが、年配の女は聞こえなかったのか、自分で八階のボタンを押した。
男は十四階でエレベーターを降りた。
玄関のドアを開錠し、暗い部屋に入る。
コートを脱ぎ、鞄を置いて、換気扇の下で煙草を吸う。
男は立ち昇る紫煙を呆然と眺めている。
煙草が尽きると、リビングのソファに座り込む。
目を閉じて、何かを思案しているようだった。
暫くそうしたあと、男はコンセントから延びる延長コードを見た。
長さを確認するかのように、目が左右を何度か往復した。
その時、「えっ?」と漏らし、男の動きがぴたりと止まった。
次に周囲をきょろきょろと見まわす。
そして、口元に手を当て、なにやら考え込んでいる。
やがて男は、天井を仰ぎ見ると、「わかりました」と独り言を言って、ソファから立ち上がった。
コートを着て、部屋から外へ出る。
車を運転し、近くにある文具店に入る。
閉店間際の店内は閑散としていた。
男は、便箋と封筒を買った。
*
「別れた妻への手紙」
智子様
元気にしていますか?
毎日、仕事に家事に子育てに、忙しくしているのだと想像します。
離婚して四年が経ちました。
辛く苦しいことがあっても、あなたはくじけずに、必死に家庭を維持してきてくれた。
そして、子供たちを愛し、大切にしてくれている。
それは子供たちを見ればわかります。
咲良の思いやりは、あなたに大切にされている証です。
晴人の素直さは、あなたに愛されている証です。
咲良と晴人が何かに一生懸命になれるのは、あなたが一生懸命に生きている姿を見ているからです。
智子さんが母親で、咲良と晴人は世界一の幸せ者です。
二人はこの先多くの人々を幸せにするでしょう。
智子さん、
僕と結婚してくれて、本当にありがとう。
咲良と晴人を生んでくれて、本当にありがとう。
育ててくれて、本当にありがとう。
もし明日、僕が死んでしまっても、咲良と晴人のこと、よろしくお願いします。
*
「娘への手紙」
咲良様
咲良、志望高校の合格、おめでとう。
雨の日も、風の日も、暑い日も、寒い日も、
嫌なことがあった日も、悲しいことがあった日も、
毎日、毎日、勉強机に向かっている咲良の姿が目に浮かびます。
勉強だけではなく、家事も手伝ってくれていますよね。
晴人のことも、しっかり見てくれていますよね。
ママの話し相手になってくれていますよね。
ママにとって、晴人にとって、咲良はなくてはならない存在です。
心の支えです。
咲良はすごいね。
そう、あなたはパパにとって、誰よりも尊敬できる人なのです。
パパの人生で最大の幸福は、咲良に会えたことです。
咲良、
パパとママの子供として生まれてきてくれて、本当にありがとう。
パパとママを選んでくれて、本当にありがとう。
もし明日、パパが死んでしまっても、ママと晴人のこと、よろしくお願いします。
*
「息子への手紙」
晴人様
晴人は、会うたびに背が高くなっていきますね。
あと何年もしないうちに、パパを追い抜いてしまうでしょうね。
本当に大きくなった。
サッカーの試合で、小さい体で走り回っている晴人が懐かしく思い出されます。
今でも、毎日練習を頑張っているのですね。
サッカー選手になれるといいね。
晴人はおもしろいものを見つけるのが上手です。
晴人に教えてもらったゲームとか、漫画とか、アニメとか、
どれもハズレがなくて、パパもハマってしまいます。
晴人のそばにいたら、いつもおもしろい何かと巡り合う気がして、ワクワクします。
だから、あなたの周りには人が集まるのでしょうね。
人を惹きつける人。
パパはそんな晴人に憧れています。
そして晴人がパパの子供で、誇らしいです。
パパの人生で唯一の自慢は、晴人の父親であることです。
晴人と出会えたこと、それだけでパパの人生には意味があったと思えます。
晴人、
パパとママの子供として生まれてきてくれ、本当にありがとう。
パパとママを選んでくれて、本当にありがとう。
もし明日、パパが死んでしまっても、ママと咲良のそばにいてあげてください。
*
「母への手紙」
輝子様
お母さんも、もう六十五歳になるのですね。
外見だけみれば、とてもそんな年には見えないけれど、加齢による不便は感じているのかもしれませんね。
それでも、熱心に働いて、皆に頼りにされているあなたを、僕は尊敬しています。
思えば、お父さんが亡くなってから、ずっと働きづめではないですか?
仕事が好きだから、とあなたはおどけて言うけれど、本当は僕の為なのではないですか?
仕事が長続きしない息子。
養育費を抱える息子。
心が健康でない息子。
そんな息子だから、いつ何があるかわからない。だからいつでも援助できるように、とお金を残してくれているのではないですか?
それが当たり前のことだとは、僕は思いません。
あなたは僕に、まっすぐな愛情をくれました。
そして、僕を信じてくれました。
何かを始める時も、やめる時も、
何かをつくる時も、こわす時も、
いつでも僕の選択を尊重し、受け入れてくれました。
その選択は間違っていたこともあったけれど、そこから学び、成長することができました。
お母さん、
僕は今、やっと自分を好きになれたよ。
幸せで幸せでたまらないよ。
僕を生み、今までずっと僕の母親であり続けてくれたこと、心の底から感謝します。
僕にすばらしい人生をくれて、本当にありがとう。
もし明日、僕が死んでしまっても……
*
「弟への手紙」
勇樹へ
あなたが自ら命を絶って、もう二十年が経つのですね。
元気にしていますか?
あなたのことだから、誰かの相談に乗っては、やさしく手を差し伸べているのでしょうね。
あの時、あなたを助けられたのは、僕だけでした。
なのに、僕は自分のことで精いっぱいで、あなたのことが全然見えていませんでした。
あなたの亡骸を前に、何度も何度も謝ったのに、
あなたは何も言ってはくれなかったね。
僕は、どうしていいかもわからないまま、あれから二十年間生きてきました。
でも、もうとても疲れました。
あなたに会いたい。
あの時のこと、ちゃんと謝るから、あなたのそばにいさせてほしい。
今から会いに行くよ——
「大切な人に手紙を書きなさい」
突然聞こえたその声は、懐かしいあなたの声でした。
あなたの言う通りに、今、四通の手紙を書き終えたよ。
僕はあなたに、何一つしてあげられなかったのに、
あなたは僕に、最高の贈り物をくれました。
僕には、大切にしたい人がいる。
それだけで充分なんだね。
勇樹、本当にありがとう。
僕は生きるよ。
だから、ごめん、あなたに会って、謝れる日は、
明日じゃない。