千年の戦士 -mocoputi du vesurre diqueta-
本物の悪党は常に清廉潔白なんだ。汚れ仕事は下っ端にやらせるからな
──@JimMe2001(セントラルタウン在住のルポライター系YouTuber)
「若き柔道家よ、武に生きる者としてお前を歓迎する」
エベレレという氏族を中心としたドゥベドゥベ族の<戦士>たちが各種訓練を行っているベースキャンプの中を行きながら、戦士長と名乗る男がそう言った。NBAの選手だと言われても信じてしまいそうな上背の高さに、猛禽類のように吊り上がった目、側頭部を剃り上げた攻撃的なヘアスタイルで彩られた大きな頭部が190センチの清範を見下ろしている。器官の集中する胴体から頭部にかけては常人ほどにしか伸びないせいか、手足が非常に長い。
清範にとってネグロイドは教科書やスクリーン上の存在でしかなく、彼らの年齢を外見から経験に基づいて推定する事は容易ではない。だが恐らく四十代半ばくらいではなかろうか。口元のしわや荒れた皮膚もそうだが、射すくめられそうな眼光や惑いの如きものが一切認められない表情からは、青臭さや、やり場のない世間への不満などといった若々しい感情が一切伺えない。
「冬休みを利用して単身赴任中の父に会いに来るとは、見上げた孝行心だ。敬せずんば何を以て別たん」
『論語』を引用したその男に、他のドゥベドゥベ人たちとは異なる雰囲気を感じ取った清範は、彼をここの責任者と見込んで訊いた。
「とりあえず、俺や弟の安全は保障されたと考えていいのか?」
すると、クチャリンコは意外にも、はっきりと肯定の意を示した。
「元よりお前たちに危害を加えるつもりはない。我々の会計士が事務処理を済ませ次第、セントラルタウン市警に引き渡してやろう。それまで適当にぶらぶらしていればいい。ここには柔道場もあるぞ」
清範は安心すると同時に、疲れがどっと押し寄せた。この二日間は非常なストレスで精神が疲弊しており、死の重圧からようやく解放された心が、今まで気づかなかった細かな身体的苦痛をようやく認識し始めたのだ。今回の事件と会計士がどう関係あるのかは未成年の身に知る由もないし、考えても仕方がない。
自分たちの身の安全が確保されれば、次に気掛かりなのは父の行方である。今頃は息子たちの身を案じてあちこち探し回っているのではないか、そう考えた清範がクチャリンコに訊いてみた。
「俺の父・カズオは日本大使館でモンガラ大統領と同席していた。今彼がどこで何をしているのか知っているなら教えてほしい」
クチャリンコは「Mr.ケイズーオゥか」と思い出したように言った。「お前の父親なら違法薬物所持の容疑でセントラルタウン市警に拘束されたと聞いた」
清範は、この筋肉男がジョークを言ったのかと思って笑った。しかし、そのジョークが全然面白くないことに気づくまで、さして長い時間を必要とはしなかった。
「カズオは酒も煙草も飲めない真面目な男だ!薬物になんて手を出すものか!」
父を侮辱され激昂する少年にクチャリンコは、だろうな、と言った。
「この国の司法に何を言っても無駄だ」
この国の、度を越した正義の不在に少年は二の句を継げなかった。兄弟のみならず、父もこの国に一杯食わされたらしい。鉄格子の向こう側にいる不憫な父を思い、清範は嘆いた。クチャリンコは彼の両肩に手を置いた。
「麻薬関係で有罪となれば、通常ヴィクトリア刑務所へ送致される(※1)。あそこはこの世の地獄だ。一度入ればギャング同士の抗争に巻き込まれるか、自らギャングとなって抗争で死ぬしかない。君のお父さんがそうならないよう願っている」
デリカシーのない男である。いや、わざと清範を翻弄して楽しんでいるのかもしれない。
「父は、誰かにハメられたのか?俺と寅清が人質に取られたのも全てそいつのせいなのか?」
クチャリンコは、だろうな、と言った。
「親が警察に拘束され、子の元に誰かが訪ねてくる。気の毒だが、この手の事件は近頃多い」
では、この誘拐事件の黒幕は誰だろう?清範は心当たりがあるわけもないのに、思考を巡らせた。
ゆすりをサイドビジネスにしている汚職警官なのか、低賃金に不満を抱く役人なのか、はたまた身内であるはずの特命全権公使・大黒芳和か。父から聞かされてきた話ではこの大黒が最も信用できなさそうだが…。
そうだ、このふんどしモヒカン男だってグヂパッパらの一味じゃないか。味方のような口振りだが、中身も肌も真っ黒に違いない。
「父を、助けたい。どうすればいい?」
清範は立ち止まって、戦士長を見上げて言った。
「心配はいらん、お前の身代金の一部を検察庁にこっそり届けておけばいい。ただ…」戦士長は腕を組んで表情を曇らせた。「今、政府は例のテロ事件に掛かりきりで、もしかするとそのまま忘れられてしまうかもしれない」
清範はこの素敵な国に感謝の言葉を述べた。中三の嫌味である。腐敗しているのは国家機関だけではない、ホテルで見たテロの光景を思い出すと、未だに吐き気を催す。
「他人事のように言っているが、セントラルタウンでのテロも、俺たちを拉致したのも全部あんたらドゥベドゥベ人が関わっているのは知っているんだぞ」
清範は、下手に詮索をするなという先のヌペペの言葉を思い出した。詮索しなければいいのだろう。
「方々から恨まれているようだが、あんたらは一体何者なんだ?傭兵なのか?それともテロリストか?」
"詰問"してくる人質に、クチャリンコは苦笑した。
「我らは『暴力』だ」
クチャリンコが答えた。
「リスニングには自信があったんだが…」
「聞き違いではない、Violenceだ。お前は暴力と聞いてどんな事をイメージする?」
「…血、痛み、死、理不尽、悪…」
清範は思いつくままにネガティブな単語を並べ立てた。しかしそれらの語群は時として魅惑的に響くこともあり、そして必ずしも「悪」であるとは限らない。アンパンチもバイキンマンからすれば暴力ではないか。試合で相手を畳に投げつけるのだって暴力と言えなくもない。投げられた相手は自分より弱いのだ。
「…力、強さ、男性性、筋肉、支配者…な、なにっ!?」
清範はいつの間にか、口にする語群がポジティブな色彩を帯びてきたことに気がついた。困惑する清範を見て、戦士長は腕を組み、深く頷いた。
「さすがは武道家だ、お前にもおぼろげに見えているのだろう。武は暴力、暴力は武。我らは千年の時をかけてこの力を研鑽してきた。正義の武力、邪悪な暴力、そのどちらに与しようと、我らはただ<戦士>と呼ばれる純粋な暴力以外の何ものでもない」
「純粋な暴力…」
暴力が純粋なんてことがあるのだろうか?
武道における礼儀、戦争における人道主義。戦いにおいてそれらは「不純」であると、このふんどしモヒカンは言いたいのだろうか。
クチャリンコは悩める若者を振り返ると、突如スマイルマークのように口の端を上げ、体育館のような建物を指差した。
「どうだ、ここは一つ、我ら<戦士>と柔道で勝負でもしてみないか?」
突然の提案に清範は身体の疲労や睡魔が瞬時にして消え去ったことを感じた。多種多様な脳内物質がカクテルとなって未成年の清範を悪酔いさせる。クチャリンコとしては清範をからかうつもりでそう言ったのかもしれない。
しかし、望むところである。恥ずかしげもなく自分は強いなどと思い上がっている連中を、最も得意とする柔道で成敗する。これを想像しただけでたまらなく快感なのである。清範の中に眠るサド気質が今度は彼の脳味噌をアドレナリンまみれにした。
「"千年の戦士"たちと柔道ができるなんて、光栄だ」
清範は自信過剰のきらいはあるが、日本のスポーツメディアなどから柔道界の若き至宝などと持て囃されているほどにはその力を自分自身が信じていない。事実、この大男よりも格下らしき男に先日セントラルタウンホテルで完膚なきまでに敗北したばかりなのだ。
だが柔道場となれば話は別だ。柔道以外の技を警戒しなくてもいいし、死の恐怖に心を支配されることもない。また、他の誰かを守る必要もない。
あの下品な巨人は現在、相方の陰気な男や、清範の弟、寅清と共に《キアモ・シンバ》という謎の施設へ運ばれていった。クチャリンコに鼓膜を破られたのに平然と笑っていたのが、ただただ不気味だった。
兄は自分の誇りを取り戻すために、己の戦場へと足を踏み入れた。建物の中は道場やトレーニング室、体育館などに分かれていたが、目指す所は最初から決まっている。この無遠慮な少年を彼らに引き会わせてもいいものかと思案しているクチャリンコの脇をすり抜けて、懐かしい稽古の音が響き渡る道場の扉を自らガラガラと開け放った。半ばやけくそである。
「畳だ…」
清範が驚いたのは、アフリカの奥地で畳を見たからではない。柔道の稽古をするに当たって彼らが安全性を考慮していたことに驚いたのである。コンクリートの上で稽古しかねない連中だと思っていただけに意外だったのだ。
その柔道場は畳50枚ほどの広さだが、四人の大柄な柔道家が乱取りで入り乱れており、実際より狭く見えた。畳に投げつけられた者の受け身の音を聞いた瞬間、清範の全身は溢れんばかりの闘志に武者震いし、また母校での稽古を思い出して胸が締め付けられる思いもした。最後に部で練習してからまだ一週間も経っていないことに驚く。
戦士長と大柄なアジア人少年が道場にひょっこり現れたことで、四人の柔道家は荒々しい稽古に集中しながらも意識が僅かに乱れたのが清範に感じ取れた。日本では考えられないことだが、誰一人として挨拶も目礼もしない。武道における礼節の精神が伝わっていないのか、それとも「暴力」に礼儀は不純だからか。
清範の見るところ四人とも有段者の動きだが、講道館が認めた正式な柔道ではないという事実がその純白の帯に表れていた。
乱取りを終えた彼らは息も表情も崩さず、無駄話もせず、ただ直立姿勢のまま戦士長を見上げている。
「Def butu owa ngewa du djapona」
クチャリンコが清範には理解できない言語で喋り始めると、四人の大男たちは初めて清範を直接見た。見る許可を与えられたといった方が正しいのかもしれない。彼らは笑顔を向ける事もなければ威嚇するわけでもなく、ただ八つの目が視線の先で交差している。
普段の彼らが特に寡黙というわけでもないことは今までに出会ったドゥベドゥベ人を見ればわかる。恐らく沈黙が目上の人間に対する彼らの儀なき礼なのだろう。それが清範には懐かしい雰囲気として映った。余計なことを考えず、ただ技を磨くために最適な環境は日本でもアフリカでも静寂の中にあるということだ。
「誰か、俺と乱取りしてくれ。誰が相手でも絶対畳に叩きつけてやるから」
クチャリンコのブニャ語に英語で割って入った清範は、わかりやすく挑発した。クチャリンコは口を開けたまま止まっている。四人の男たちは表情にこそ変化が見られないが、いずれも戦いのプロであるという自負がある。視線に軽蔑や怒気が混じったのが感じ取れた。
──これが殺気だ。
グヂパッパと対峙した時の脚がすくむような重圧。あの下品な男から殺気を感じるくらいなら、清範もこの魔法のような圧力を我がものとしなければならない。殺されるかもしれないプレッシャーの中でこそ、その極意を掴み取る事ができるだろう。
だが、もしここでまた彼らに負けるようなら、柔道とは決別する気でいた。柔道は清範の全てである。彼を知る者の殆どが若い柔道選手としての彼しか知らないし、また興味もないのである。二度目の敗北は、即ち彼にとって全ての終わりであった。
「僕がやるよ」
重苦しい沈黙を破ってそう申し出たのは四人の中で最も体格の良い、坊主頭の男だった。クチャリンコの倍ほどの筋肉で柔道着がレオタードのようになっている。
クチャリンコは少し思案してから言った。
「ベケマンチ、わかっていると思うが、その少年は…」
「わかってるよ。これはただの"ドゥベドゥベ族とのスポーツ文化交流"さ」
ベケマンチと呼ばれた男は、乱れた道衣を直そうと帯を外した。異常な分量の筋肉に悪趣味な刺青がびっしりと彫り込まれていた。15歳の清範にとって刺青はまだまだ非現実的な存在であり、漫画のようなリアリティのない筋肉にも思わず目を奪われた。
「あっちで柔道着に着替えてきなさい。ロッカーに入っている僕のお古を使うといい」
ベケマンチはにっこり笑いながら、幼児に語りかけるような口調で言った。言うまでもなく、清範を怯えさせるための演出である。
清範は無理に強がらず、恐怖を感じる自分の心の弱さを素直に受け入れてみた。すると自分はあの男の未知なる筋力、刺青から伺える試合後の報復、そして敗北すれば全てが終わることに対して恐怖していることが明瞭に見えてきた。
筋肉も刺青も強さの指標ではない。そもそもまだ戦ってすらいないし、敗北してもいないのだ。あれこれ考えるのは後にしよう。そう考えると不思議と清範の心から恐怖心が薄らいでいった。
※1「ヴィクトリア湖に浮かぶ客船を改造した東アフリカ共和国の刑務所。2016年現在、同国2大犯罪組織(アキモンベ司令部とブニャニア青年団)の幹部が多数収監され、連日の抗争により毎年数多くの死亡者が出ている」
(『ヴィクトリア刑務所(東アフリカ共和国)』Wikipedia)