神の奇跡 -bamram moram-
「そこを聖地と呼んだことで大勢の人が亡くなったことは知っている」
──アンプラオ・オシメーリョ
東アフリカ共和国の政党UACP上院議員、現セントラルタウン市長。
アキモンベについての歴史誤認を記者に指摘されて
──そうか、ここがこいつらの急所か。
アブドゥルハミドは東アフリカ最強の武人たちが意外にも弱点を備えていたことに驚いた。
何を企んでいるかは知らないが、この反応はよほどの事を隠しているに違いない。いくら頭のおかしいドゥベドゥベ戦士とはいえ、立ち退きを拒否されたくらいで皆殺しというのは考えにくい。この施設をアジトとしていた〈ジハード収束〉系『赤道のモスク団』の同志達は、最初から口封じの為に殺される予定だったのではないか。少なくとも、そう考えた方が『戦士』の暴挙も同じ人間の行動原理としては理解できる。それにあの死体だらけの貯水池──。
「ただ死体を切り刻んで変態心を満足させていただけではなさそうだな。ここで何らかの研究を行う事自体が明るみに出るのを恐れて、私の同志達の口を封じた、と」
アブドゥルハミドがカマをかけた。もし真相がその言葉通りであれば自分も口封じのために今ここで殺されてしまうだろう。それならば、せめて天国へ旅立った仲間達へ顔向けできるよう、彼らが殺された本当の理由くらいは知っておきたい。
「私を殺す前に教えてほしい、あれは何の研究なんだ?」
アブドゥルハミドが貯水池を指で差し示しながら、尋ねた。こんな絶体絶命の状態でも好奇心だけは抑えられないのかと思うと妙に可笑しかった。
部外者が命を懸けてまでした質問にしばし沈黙した後、グヂパッパの低い声が無線に乗って届いてきた。しかし、それはこの敬虔なムスリムに向けられた言葉ではなかった。
『トジャキ、そいつの視床下部に230kg以上の衝撃を与えろ。そいつを〈アンゲル〉にするしかない』
通信機から聞こえてきたおぞましい提案はアブドゥルハミドをして恐怖におののかせた。ドゥベドゥベ戦士はその長い戦いの歴史の中で数多の肉体を破壊してきた。その特殊な知識が部族相伝の技として昇華された結果、相手の脳へ与える衝撃をコントロールして、任意に〈アンゲル〉と呼ばれる人格を作り出すことを可能としたのである。確かに彼を〈アンゲル〉にしてしまえば、ここで見たことを言葉にすることもできないほどに知能は落ちる。
「や、やめろ。私を〈アンゲル〉にするくらいなら、いっそ殺してくれ」髭面の男はここに来て初めて狼狽えた。「私は初めてキリスト教神父をこの手にかけた時から、いつでも戦いの中での死を望むようになった。お前達のような強い戦士に殺されることは名誉ですらある。だが〈ジハード収束〉の戦士として、私は自分が何のために戦い、そして戦死したのかを知らなければならない。我々の生には使命があり、死には意味が必要なのだ」
一見殊勝な言葉だが、考えてみれば随分と身勝手な言い分である。彼らがこれまで無差別に殺傷してきた多くの非武装民間人たちの死には意味などなかったのだから。
その矛盾に満ちた言葉にグヂパッパは鼻を鳴らすに留まったが、高説を真横で聞いていた若いドゥベドゥベ人は違った。
「お前の言う事ももっともだ。自分の死には何らかの価値があってほしいという願いは、戦いに生きる者なら誰しもが共感するところだろう。グヂパッパ、あんたが嫌だと言っても俺はこいつに本当のことを知ってもらいたくなった。なぜこいつの仲間は全滅しなければならなかったのか、なぜこんな臭くて汚い施設に俺たちはいるのか知る権利があると俺は思う。戦士としての誇りにかけて」
トジャキがやや演技掛かった口調でそう言うと、ビルの上で様子を見ている仲間の戦士たちの位置をちらっと確認した。
『勝手にしな!』
トジャキの熱意に打たれた形で、年長者の戦士が折れた。トジャキは満足した様子でアブドゥルハミドを立たせ、両肩に手を乗せて言った。
「いいか、お前はこれから人類史でも類を見ない素晴らしいプロジェクトに参加することになる。毎日休まず粉骨砕身働き続ければ、ここで何を作っているのかをその身をもって知ることができるだろう」
自分の人生が意外な展開を見せたことでムスリムの男は戸惑った。「ど、どういうことだ?」
トジャキが貯水池に目を向けた。フナムシに似た形状の昆虫が側壁に群れをなしてへばりついており、さながら動く影絵である。言うまでもなく、それは絵でもフナムシでもなかった。「あのゴキブリどもを見ろ」
言われるがまま、アブドゥルハミドが貯水槽の側壁を見た。痒みを伴う不快な鳥肌が全身に拡がり、反射的に見てしまったことを深く後悔した。
「気色悪いものを見せるな」
「そっちじゃねぇよ」
トジャキが貯水槽の真ん中を指差した。そちらもあまり見たいものではないので気乗りはしないが、プールサイドまで移動して恐る恐る目を凝らして見てみると、屍や水面が不自然に揺れ動いている。
「わ…わ…わ…!!」
アブドゥルハミドは己の両眼が信じられなかった。ハエやゴキブリの飛び交うおぞましい貯水槽の中に、生きている人間が二人潜んでいたのだ。それもここに来る前から、ずっとそこにいたのである。
濃縮された死臭に浸り続けたせいか、片方の男は死体とさして変わらぬ虚ろな表情で小刻みに震えながら自分の指と会話していた。やつれてはいるが、恐らくアブドゥルハミドがよく知っている人物である。
もう一人は痩せた背の高い男で、こちらはその不潔な場所にいることをほとんど感じさせないほどに意識がはっきりしている。何かの火傷の痕なのか、醜くただれた顔の中央上部でぎらついている二つの鋭い光が、アブドゥルハミドをしっかりと捉えていた。
ガンジス川で体を洗う貧民さながらの衝撃的な光景を目の当たりにしたムスリムの男は最悪の展開を予期して震え上がった。その予想を裏付けるかのようにトジャキがいつの間にか彼の背後に立っていた。
「や、やめろ!蹴るな、頼む!」
振り返って必死に訴えたが、それを無視して──むしろその反応を楽しむかのように──トジャキが彼を靴の裏でぐいっと押し出した。悪名高いテロリストの情けない叫び声と、70kgほどの物体が水面に勢い良く飛び込む音が無線に乗った時、建物の上でその様子を見ていた戦士らの耳に、地平線の向こう側からグヂパッパの爆笑する声が確かに聴こえたという。
「こ、ここから出してくれ!頼む、私は泳げないんだ!!」
カナヅチのテロリストが水面から顔を出そうと必死でもがき、浮き輪のような物体にしがみついた。それが誰かの肋骨と肺であることを知ると半狂乱になってそれを押しのけた。手足をじたばたさせればより深みに沈んでいく。動けば動くほどプールを埋め尽くす死体の山が彼の身体ににじり寄って底へ底へと引きずり込もうとするのである。アブドゥルハミドは恐怖でパニックに陥り、反対にドゥベドゥベ人達は笑い過ぎて腹がよじれていた。
このままでは体力を消耗し尽くして溺死するのも時間の問題だろう、その場にいる誰もがそう思っていたが、思わぬ救いの手が差し伸べられた。火傷顔の男がゆっくりと近づいて、じたばた暴れながら沈んでいくアブドゥルハミドの身体を背後から掴み、水面から引き上げたのである。
「助けてくれ!死体が襲ってくる!死体がこっちを見ていた!!」
水や死体への恐怖から、五感を通して得られる情報を正しく認識できず、それが幻覚症状によく似た状態を作り出していた。火傷の男が両腕で彼の身体を胸の高さまで引き上げてやると、耳元で言った。
「落ち着け、ただの死体だ。じっとして自分の心が落ち着くのを待て。ここでパニックに陥れば汚水と嘔吐物を喉に詰まらせて窒息死するぞ」
この背の高い男ですら積み重なった死体の上に立っているらしく、アブドゥルハミドの身の丈では到底プールの底に足が届かない。泳げない者にとっては清潔な水であってもパニックに陥るような場所で落ち着けというのも無理な話である。
絶対に口を開かないよう唇を固く結んでいたが、唇に付着する汚水が少しずつ口に入ってくるのだけはどうすることもできない。苦味と悪臭が彼の口の中に拡がり、半ば条件反射的に胃から嘔吐物を、顔面から鼻水と涙を水面にさんざん吹き散らした。汚水よりも自分の吐瀉物の方がまだ清潔だと感じてしまう。しかし、吐くものを吐いてしまえば少し楽になるのも事実だった。
「何なんだ、お前達は」
滝のような涙を流しながらアブドゥルハミドが『汚水浴』の先輩に尋ねた。そちらに質問したわけではないのだが、プールサイドで様子を見ていたトジャキが先に答えた。
「そいつは俺たちの元リーダーだ。そっちの指と喋ってるヤツを見逃そうとしていたから、今その大事なお友達と仲良く一緒にプールを楽しんでもらっているのさ」
そんな気はしていたが、この火傷顔の男は戦士であり、あのアンゲルはかつての同志だったようだ。確かに敵をみすみす見逃してやるような上司はアブドゥルハミドの世界観においても許されざる存在だが、世の中が平和にならないよう努力していると揶揄されるほど戦争好きのドゥベドゥベ戦士にそんな人道主義者がいるとは夢にも思わなかった。
新しく入ってきた「同僚」に目もくれず、ひたすら自分の指とだけ喋っている元〈ジハード収束〉の男は、本来であればアブドゥルハミドと同じ志を持つ仲間としてこれから力を合わせていくべき人物なのだが、恐らくもうその志が彼の助けとなることはあるまい。この過酷な環境で助けとなるものは、どんな過酷な現実でも直視できる堅牢な精神力だけだった。
「飯と寝る時以外はそこに浸かって毎日二回の血液検査を受けろ。何もしなくていいんだから簡単な仕事だろ?」
トジャキがこれからの「仕事」について簡単に説明した。仕事というよりは、まるで治験である。拷問のような責め苦を味わった末に病死することが確定している無茶苦茶な臨床試験。やはり死ぬことは避けられないのかとムスリムの男は力なく天を仰ぎ見た。短期間の間に生きる希望と死の絶望を交互に与えられて、疲れてしまったのだ。
「信仰がお前に奇跡をもたらすならば、生きてまたお前の宗教活動を再開させることもできるだろう。だが、それまではゴキブリどもがお前の友達だ。お前の人生最後の友達かもしれないから大事にしろよ」
そしてトジャキが付け加えた。「俺も何のためにこんなことをしているのか知りたいんだよ」
その頃、清範らの乗るトラックでは、グヂパッパがラジオドラマに集中するリスナーのように通信機にかじりついて汚水処理施設の様子を伺っていた。
「ひでぇなトジャキの奴。お前も知らねぇのかよ」
かく言うグヂパッパですら、あの『不浄水施設』が何を研究している場所なのか何も知らなかった。戦士長補のクチャルから、施設にいる研究員の存在を極秘にし、ヌペペ先生の指示には従うようにと曖昧に伝えられているのみである。
「それにしても、信仰と奇跡ねぇ…。おいキヨノリ、お前は神の奇跡を信じるか?」
予想外にもグヂパッパが名指しで清範に質問してきた。これは文字通りの意味ではなく、アブドゥルハミドの命運をどう見るか、人の命をチップに見立てた賭け事をしようという提案だろう。
「奇跡が起きることなど信じられるはずもない状況で起きるからこそ奇跡というんだろ?だったら信じないでおこう」
清範は、非常に持って回った言い方でプールに突き落とされた憐れな男が助かるよう願った。見ず知らずの他人の死を望む理由など特にないからである。
「そかそか、だったら俺も信じないでいてやるか」
いささかマッチポンプなきらいもあるが、グヂパッパもアブドゥルハミドがその絶体絶命の状況の中で何らかの形で救われることを期待していた。あのムスリムの男に同情したわけではない。ただ、あれほど純粋な信仰に生きてきた者が地獄の一丁目を彷徨っているのなら少しくらいの奇跡を見せてくれてもいいじゃないか。神を試してはならないと人は言うが、試しているのはグヂパッパらであり、皮肉にもアブドゥルハミド自身は今現在、恐らく神の奇跡が起きることなど全く信じてはいないだろう。切り刻まれた死体のプールで毎日漬物にされ、行く末は病死か、汚物を喉に詰まらせての窒息死か、精神異常をきたしての自死か。万が一プールから逃げ出したとしても、その時はドゥベドゥベ人たちがどこまでも追ってきてまたプールに戻すだろう。生き延びられる可能性はほとんどゼロに近かった。
しかし、だからこそ奇跡なのである。神の存在を証明するにはおあつらえ向きの状況ではないだろうか。
「俺は奴らの言う神なんて全く信じないぞ。いや、これはお前らの言う屁理屈的な意味じゃなくて、本当に信じないって意味だ」
「ははは、ウヘロも信じないんだとさ!これはあのアラジン野郎、本当に奇跡が起きるかもなぁ!」
グヂパッパはトラックの屋根の上でいつまでも楽しそうに笑っていた。
人質と誘拐犯という関係にも関わらず、どこかで通じ合っている三人の武人を尻目に、13歳の少年は兄とも口を利かなくなっていた。車の天井に座っているこの騒々しい巨人は清範と楽しげに会話しているが、寅清の方にはただの一度も視線を送っていない。寅清の探るような視線には気づいているはずだが、一度たりとも目を合わせようとしないのである。ヒトが足元のアリを気にすることがないように、このデカブツは寅清をほとんど認識していなかった。
「もし日本に帰れるなら、すぐに帰ってしまうのか?」と、ウヘロが清範に尋ねた。
「あと四時間ほど走れば俺たちのベースキャンプが見えてくるはずだ。そこで俺たちはお前とお別れだ。日本の若い武道家とジュードーができて、なかなか楽しかったぜ。少し寂しくもあるが無事に帰国できたのならもう二度とこんな国に来るなよ」
このグヂパッパらの言葉も寅清にとっては冷ややかなものでしかなく、彼らの会話が理解できない振りをしながら、ただ地平線の彼方に見える赤い光をぼんやりと眺めていた。