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赤い地平線  作者: 原島としはる
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命の価格 -price shimba-

 彼らは神から与えられた知性や友愛を冒涜し、聖書の教えにも従わず、大英帝国の親愛なる友の命を畜生のごとく奪い取っていく。彼らに殺された者の遺体は目を背けたくなるほど損壊されており、彼らが人としての心を持ち合わせていないことは明白である。

──マーカス・ブリストル


英国のアフリカ探検家(1855-1907)

ブニャニア王国の支配に抵抗するドゥベドゥベ族を評して

 そこがどこなのか見当もつかないが、外の明かりが差し込むことのない鬱々とした部屋だった。四方を黄ばんだコンクリートが囲い込み、所々に赤黒い染みが付着している。


 耐え難いのは通気孔から絶え間なく流れ込んでくる強烈な悪臭である。もともと臭いものが腐ったようなひどい臭い。清範たちが頭にずた袋を被せられてトラックに揺られること数時間、この部屋に移送されるより前からこの悪臭が彼らを苦しめた。


 寅清は部屋の隅に設置されたトイレ──ただのバケツ──に一日中吐き続けてようやく嗅覚が適応した。というより、もはや鼻が死んだと言った方が表現としてふさわしい。


 これから自分の身に起きる事への不安や、極めて劣悪な生活環境、そして手首の痛みに泣き叫んでしまいたい気分だったが、若き武道家である兄がそれを許さなかった。


──涙は弱者の武器だから強者がそれを使う事は許されない。


 それが清範の口癖だった。これを己の強さに驕り高ぶった者の不遜な言葉と切って捨てることは適切でない。自分自身を端的に捉えたニヒリズムの一種であると解するべきであろう。


 幼少期から周囲の子供に比べてずば抜けた図体を持っていた清範は、ある種の暴君であることをその人生において定められた。何もしなくても周囲から媚びへつらわれ畏れられてきた者が、ひとたび弱味を見せてしまえばどうなるか。強者とは常に強者でいるよう不断の努力を強いられた存在なのである。


「俺たち、殺されるのかな」

 寅清が何もない床の上で仰向けに寝そべり、伸ばした両脚を壁に掛けながら兄に尋ねた。あまりの悪臭に「死ぬ」「殺される」といった言葉を口には出さないでおこうという暗黙の了解をあっさり破ったようだ。

「かもしれないな」清範ももはやお為ごかしの言葉は言わない。「父さんが言ってた世界一危険な国ってのは俺たちを来させないための方便じゃなかったんだな」

 天井を見上げて嘆息すると、清範は両手を頭の後ろに組んで壁にもたれかかった。まさかホテルの二一階に押し入る誘拐犯がいるとはさすがの父も想定していなかったに違いない。


 臭いも音も素通し状態の薄い壁に後頭部を当てていると、建物の外にいる誘拐犯たちの会話がかすかに聴こえてきた。片方は聴き覚えのある声だった。


「…それで日本のニュースが誘拐事件として報じたらしい。するとどうだ、たった一日であのジュードーボーイの身代金が日本の企業や教育機関から40万ドルほども集まったそうだ。いや、身代金じゃなくて寄付だったか。不特定多数の善意に訴えればチョロいもんだ」

 それに対して聴き覚えのある笑い声が聴こえてきた。

「先進国のガキは命の金額もクソ高ぇよな。俺は三歳の頃にたった100ドルでエベレレ・クランに売られたってのに」

「ところで弟の方はなぜ命を助けたんだ?上が激怒してると聞いたが」

「助けたんじゃなくてチャンスを与えただけさ。あいつの兄の度胸に免じてな。だがそれが『反民族的日和見主義』なんだとさ。俺たち現場の戦闘員にはドゥベドゥベ戦士の美学≪ハチャナ≫ってのがあんだよ。それが指導部のオカマどもにはわからねぇのさ」

「あんたら戦士の流儀は知らないが、慈悲の心は持ってるんだなと知って安心したよ」

「俺たちゃ殺人鬼の変態じゃねぇよ!」



 声は次第に遠ざかってゆき、やがて何も聞こえなくなった。寅清も聞き耳を立ててはいたが、会話の内容までは理解できていない様子だった。


「あいつら、なんて言ってたんだ?」

 寅清が尋ねた。

「俺たちはやっぱり身代金目的で誘拐されたらしい。それ以外は聞き取れなかった」

 清範は敢えて多くを告げなかった。悲観するような内容ではなかったが、吉兆を口にしてしまえば幸運を逃す、そんな験担ぎのような考え方が彼のような現代アスリートにも依然として存在していた。


 その時、ドアが開いて白衣をまとった長身の男がものも言わずに部屋へ入ってきた。白いマスクにナイロン手袋をしっかりと装着し、首から聴診器を下げた初老の男性である。

 清範と寅清を交互に見やると、まず兄の前にしゃがんで彼の腕を取り、いきなり脈を取り始めた。


「目眩や頭痛、幻視はあるかね」

 いささか限定的な訊き方が多少引っ掛かるものの、ごく普通の問診である。少なくとも危害を加えてくる様子はないので清範はほっと胸を撫で下ろした。短く刈り込まれた白髪交じりの頭髪が頭頂部まで後退しており、それは人生において何かを修めるために寝る間も惜しんでたゆまぬ努力を重ねてきた人間であることを表している。

 清範は警戒を緩めずに応答した。

「あると言ったらここから出られるのか?」

 白衣の男はふんと鼻で笑いながら清範の額に手を当てた。今まで粗雑に扱われ続けたことで心が荒んでいた清範は、仕事とはいえ自分の体調を気遣ってくれる人の手の温もりから人間の優しさを感じて思わず目がとろんとしてしまった。


「心身ともに健康そのものだな。ここに連れて来られた外国人は皆、恐怖とストレスからすぐに体調を崩してしまうが、君は壮健だ」


 男は道具箱からガーゼとエタノールの入った瓶を取り出すと、何の説明もなく清範の腕を消毒していった。さも脈を取るついでといった具合に。


「だがいくらタフな君でも、ここらの空気を吸い続ければ、たちまちの内に"呪われて"しまうだろう」

 そんな意味深な言葉を掛けながら、男は小さな器具を道具箱から取り出して、先端を清範の上腕へ押し当てた。それが注射器であると気づいた清範は慌てて腕を引っ込めた。


「なにをする!」

 当たり前のように注射針を刺そうとする無神経な医師が信用できるはずもない。ましてやこの男は正規の医師であるかどうかも定かではないのだ。清範が怪訝な表情で睨みつけているのを見て、初老の男は自らの行為を今更ながらに弁明した。

「ワクチンのようなものだと思ってくれ。これを打たなければ君らはこの辺りの風土病であるカーズという病に罹って最悪死んでしまう」

「いきなりそんなことを言われても信用できない」

「しかし闇雲に疑ったところで真実を見抜くこともできまい」


 医師風の男は注射針を強引に注入するわけでもなく、ただ清範の返答を待っていた。


「じゃあせめて説明してくれないか、そのカーズという病を」

「悪いがそれはできない」


 拒絶されるとは夢にも思わなかった清範は一瞬言葉を忘れた。


「どういうことだ!医師なら病気の説明くらいできるはず!」

「余計なことを漏らせば私が彼らに殺される。命を懸けてまで君に説明する義務などない」


 男は清範を真っ直ぐに見ていた。てっきりこの男も"彼ら"の一員であると思われたが、そう単純な話でもないらしい。仮にこの男が騙す気であったとしても、それを見抜く方法が思いつかない以上、このまま抵抗を続けても事態が好転することはない。

 清範は体育会系らしく、己の直感を信じることにした。


「疑ってすまなかった。その注射針を打ち込んでくれ」

 清範が自ら豪腕を差し出したことで医師らしき男は頷いた。

「それでいい。すべてを疑う姿勢は"科学的"だが、ここでは余計なことを知ってしまうと二度と故郷へ帰れなくなることもある。下手に詮索しないことだ」

 その言葉は「上手に詮索すれば問題はない」という意味にも解することができる。知りつつ、知らないふりをする大人の演技力が清範に求められていた。


「なんだ、結局打ったのかよ」

 寅清が非難がましい目で兄を眺めた。もともと注射が苦手な彼は何をどう説得したところで、この怪しげな男のワクチンと称する物質を体内に注入することを拒否することだろう。


 やや感情的に人の厚意を受け入れた兄と、わけのわからないものを徹底的に疑い続ける弟。どちらの行動にもそれなりの理屈がありながら、両者の性格の違いで済ませてしまうにはあまりに大きな結果の違いをもたらすことになる。


「おじさん、名前は?」清範が男に尋ねた。

「ヌペペ・エベレレ。元ブニャニア大学の生物医学博士だ」

 その自信に満ちた所作に相応しい、権威ある肩書きだった。そんなインテリの学者がこのような異臭漂う異常な空間にいるという事は謎の安心感を生みもした。だがその物々しい肩書きにこびり付いている「元」という接頭辞は一抹の不安を感じさせるに十分なものだった。


 その時、にわかに外が騒がしくなった。声の数から察するに、建物の周辺で十人ほどが互いに連絡を交わしているようだった。ブニャ語が使われているため清範には一語たりとも理解できないが、状況はおおよそ察することができる。ここに招かれざる客がやってくるのだろう。

 しばらくするとドアの外を慌ただしく駆ける複数の足音がそのまま上階へと過ぎ去っていった。見晴らしの良い場所を確保する、間違いなく敵襲だった。


 清範は、招かれざる客が自分たちを助けに来た国軍か、あるいは警察であることを期待した。とにかく、誘拐犯どもを無様に蹴散らしてくれる者であれば誰でもよい。


 内心では救いが来たという期待感に満ち溢れていたが、この状況に興味がないという態度を装って清範と寅清が床に視線を落としていると、予想通り部屋のドアが開いて誘拐犯の一人が入ってきた。清範や寅清を今まで何度か殴りつけたウヘロという乱暴な男である。


 ウヘロは自動小銃を担いでいる。人質を奪い返されるよりはと、あのいかつい銃で今あっけなく撃ち殺されるかもしれない──。努めて落ち着いた態度を維持していたが、実のところ、兄弟の心臓は破裂せんばかりに激しく拍動していた。


 ウヘロはヌペペの姿を確認すると一瞬戸惑った表情を見せたが、すぐに人質たちに言った。


「二人とも、急いでトラックに乗れ。ここから移動する」


 どこに移動するのか?とか、何が起きている?のような質問を今してはいけないことはヌペペに教わったばかりだった。軍か警察が到着するまで何とかこいつらを釘付けにしておきたいところだが、あの戦争映画のような銃は、清範の学校の不良たちが装備している小型ナイフなどとは比べ物にならないくらい威圧感がある。


 少年らはゆっくりと立ち上がった。寅清などは雰囲気に呑まれてウヘロに黙礼までしている。この痩せ型のテロリストは極めて肌が黒く、その中で際立つ白く大きな目が猛禽類のようで、寅清を萎縮させていた。


「外が騒がしいが何かあったのかね?」

 ヌペペが白々しい口調でウヘロに尋ねた。


「ムスリム系テロリストの一団がこの施設に接近している。元はといえばここはあいつらのアジトだったからな。俺たちがやってる事が外部に漏れるのはまずい。ここで奴らを片付ける。戦闘になればこのガキどもが危険だということで、エベレレ・クランのベースキャンプまで連れて来いとクチャルが要請してきた」


 ウヘロの言葉を聞いたヌペペは清範を見下ろして言った。

「"本陣"に招待されるとは、君らはずいぶんと特別なんだな」

 初老の学者は清範らを安心させるつもりでそう言ったのかもしれない。だが寅清は無表情で床を眺めていた。



 ウヘロの先導で部屋を出ると鼻腔内に入ってくる臭気が一段と濃くなった。ここは汚水処理施設のように見える。運転を停止してから長い年月が経過したのだろう。誰も手入れせず、一階床のコンクリートは割れて雑草が生え放題、壁はあちこちが崩落して陽光とその影が幾何学模様を描き出していた。


 二階の階段に差し掛かった時、サッカーボールほどの大きさの穴が壁に開いていた。そこから敷地内のフェンスに囲まれた貯水槽がちらっと見えた。


 大型トラックが一台すっぽり入るほどの水槽の周囲に、靴や、服が散乱している。プールの水は赤黒く変色しており、黒い霧状のものが上空で陽炎のように揺らめいている。それは陽炎などではない。何百万匹の虫──ハエの大群である。


 あの貯水槽…。清範は見てはいけないという本能による警告が、見たいという好奇心に負けてしまったことを猛烈な吐き気の中で後悔した。汚水に浮かぶ何十、何百もの物体。皮膚と筋肉と内臓と骨。この悪臭の原因は40トンもの人間のシチューだった。


「ジープに急げ。余計なものは見るな」


 ウヘロの言葉は高圧的でありながら、その実、清範にとって優しいものであった。

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