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赤い地平線  作者: 原島としはる
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三つの流星 -aquim hayatu-

『皆様が日本で平穏に日々を過ごしている間にも、ここアフリカでは未来ある少年の命が失われようとしています。人は誰しもが平等に生きる権利を持つのです。皆様のささやかな支援で未来ある若者の命を救うことができるのです!』

──『高潔なる日本企業の皆様へ募金のお願い』

「さて…」

 巨人はドアの近くで呆然としている少年を見た。

「こっちの腰抜け野郎はどうするかな?」

 ドアの前で腰を抜かしている少年を尻目に、巨人は自分の親指ほどしかない携帯電話を操作して耳に当てた。

 機械を通した無機質な声が応答した。


『グヂパッパ、人質は確保できたか?』

 何の感情の抑揚も感じ取れない、非人間的な声だった。グヂパッパと呼ばれた大男は、寅清を見下ろしながら言った。

「ジュードーボーイの方は問題ない。だが、もう一人ガキがいる。おそらく弟だろう」

 無線の男も即座に判断は下せなかったらしい。数秒間の沈黙が流れた。寅清にはその沈黙が耐え難い。


『任せる』

「了解」


 無線機を腰にしまうと、グヂパッパがヘラヘラ笑って言った。

「いつも自分の口では言わねぇんだよな、殺せって」

 巨大な靴でどすどすと寅清に近付くと、少年は慌てて手足をじたばたさせた。


「く、来んな!」

「日本語か?『クンナ』ってブニャ語で『キンタマ』って意味だぜ」


 野球グローブほどもある掌を独特の仕草でくるりと回すと、まるで手品のように手中にナイフがひょっこり現れた。寅清が恐怖で半狂乱になって叫んだ。巨人は寅清の髪の毛を掴んで、彼の首筋にナイフの切っ先を当てようとした。


「やめろ…」

 突如、か細い声が部屋に響いた。グヂパッパが立ち止まり、ゆっくり振り返ると、清範がいつの間にか砕け散った窓際にいた。清範のシャツが外の風でびゅうびゅうとはためいている。まだ横隔膜への打撃がじんじんと響いているのだろう、這いつくばって移動したようだった。


「そんなとこで何やってんだ?危ねえぞ」

「お前たちが必要としているのは俺なんだろ?」清範がふらふらの上体を起こした。「弟に手を出せばここから飛び降りてやる」


 グヂパッパは眉毛を上げて一瞬ぽかんとしていたが、やがてゲラゲラと笑った。

「飛べねぇよ、絶対にな」

「そう思うか?」

 清範は無表情のままだった。

「ああ、飛べねぇな。俺はポーカーのプレイヤーでな、ブラフを掛けてる表情は誰より知ってる」


 しかし無言で巨人を睨み上げる清範の表情には一切の変化が認められなかった。グヂパッパはニタニタ笑うのをやめた。ブラフではない、他人の命が自分の命の価値を上回っている、本物のバカ野郎の顔だった。


「わかったわかった、フォールドしてやるよ。お前の身代金とこいつの命じゃ釣り合わねぇしな」


 清範は、こいつポーカー弱いんだろうなと思った。寅清は少し失禁していたものの、正常な精神はまだ保っているように見える。ドアを開けて自力で廊下へ逃げてほしいところだが、恐らくそんな素振りを見せれば、あのナイフが弟の心臓を貫いてしまうだろう。いや、ナイフだけでなく銃を隠し持っている可能性だってある。もしそうならば、逃げた先にいる外の人たちにも危害が及ぶかもしれない。


 窓が爆発してから二分ほど経過した。異変を察知したセキュリティが守衛室からやってくるまで十分な時間があったはずだが、ドアの外は不気味に静まり返っている。


 この男は先ほど「身代金」と確かに言った。父は大使館勤めとはいえ、食べざかりの息子二人を抱える身である。母も中学校の英語教師であり、そこまで裕福な家庭とは言い難い。なぜ柔道バカの中学生を人質に取ろうとするのか理解できなかった。


 巨人グヂパッパは部屋の隅に置いたバッグ──人の大きさほどもあるウェストポーチ──をまさぐると、ハーネスの付いたリュックサックのようなものを取り出して、全身に装着し始めた。


 それを見た清範は顔を歪めた。

「な、何をする気だ」

「分かりきったことを。飛ぶんだよ」

 グヂパッパは清範の背後を指差した。若い日本人兄弟が同時に青ざめた。

「待てよ、それはパラシュートか!?俺も飛ぶのか?パラシュートの使い方なんて知らんぞ!」

 慌てる清範にグヂパッパは何も答えず、底意地の悪い笑みを浮かべていた。

 寅清も慌てふためいて、窓際にいる兄に言った。

「清範、そいつ何て言ったんだ!?」

 寅清自身、先ほどのグヂパッパの言葉は九割方聴き取れている。しかし、残りの一割が文章全てを否定する意味を持っているかもしれない。

「飛ぶらしい。恐らく…俺たちを抱えながら」

 兄の解釈は弟が予想していたものと同一であった。空を飛ぶ前から、寅清は床が失われたような感覚を覚えて全身を震わせた。「どうやってパラシュート操作すんだよ…」


 パラシュートの装着を終えたグヂパッパが寅清に近付くと、胸ぐらを引っ張って無理やり引き起こし、搬入作業員が建材を運ぶかのように寅清の胴体を軽々と小脇に抱えた。中学一年生にして180cmほどもある弟が年齢相応の小さな子供のように見える。

 巨人はそのまま窓際へとのしのし歩いていった。


「暴れたら落っこちて死ぬから、じっとしてろよ」

 グヂパッパが清範に言った。下手な抵抗をすれば"弟が"窓から落っこちて死ぬぞと言っているのだ。自分の太腿より太い腕で易々と抱え上げられた清範は、成す術なくされるがままになっている不甲斐なさに、ひどい無力感を覚えた。

 丸太のような巨人の胴体にがっちり固定されると、動こうとしても微動だにせず、思ったよりは安全なのではないかという思いが頭をかすめた。このままパラシュートで地上に降りることも不可能ではないのかもしれない。しかし自分の命を完全に他人に委ねている状態は気分の良いものではない。


 巨人は二人の兄弟を両脇に抱えたまま、ドア前まで戻った。助走を取るつもりだろう。清範は生まれて初めて神に祈った。外国の雰囲気に影響されたのかもしれない。死を前に無力でいると神に祈ることくらいしか自分にできることがなくなってしまう。しかし、グヂパッパが寅清に告げた言葉で、神頼みではどうにもならない状況であることを知った。


「パラシュートを操作しなきゃならねぇから、お前を抱えたまま降りることはできねぇ。死にたくなければテメーで何とかしろ」


 グヂパッパの言葉が理解できなかった寅清はぽかんとしていたが、清範は巨人が滑走路を走り出す前に、大声で弟に今の言葉の大意を説明した。


「寅清!こいつは飛んだ後でお前を離す気だ!だから、腕を伸ばして死ぬ気で俺の手を掴め!地上に着くまで絶対に離すなよ!」

「う、う、嘘だろ!急に!そんなの無理だよ!!」

 想像しただけで寅清の横隔膜は萎縮し、クンナが縮み上がった。

「やれ!お前ならできる」

 兄の熱い励ましの言葉にこれほど勇気づけられなかったことはかつてない。寅清はここで離してくれと喚き散らしたが、巨人の膂力は中一少年の身体をいとも容易く封じ込めてしまった。寅清がパニックに陥る様子を面白がっているようなフシすらある。


「夜空を切り裂く真っ赤な流星になろうぜぃ、ひゃっほー!」

 二人の少年を両脇に抱えたまま、妙な興奮状態にあるグヂパッパがどすどすと部屋を駆け抜け、そのまま夜空へと飛翔した。寅清の叫び声が風との摩擦音で掻き消えた。落下する肉体に五臓六腑が追いついていないような感覚。先程まで退屈していた寅清にとって刺激的すぎる思い出の一つとなった。


「寅清、手を伸ばせ!」

 巨人の左脇から叫んだ。ビルの21階など大した高さではない。すぐにでも弟の手を掴まなければパラシュートを開くためにグヂパッパが弟を手放してしまうのだ。

「兄ちゃん、助けて!」

 中学校に入って以来、聞くことのなくなった呼び方だった。

「絶対、助けてやる!」

「(パラシュートを)開くから早くしやがれ」


 兄弟の手首と手首が繋がった瞬間、グヂパッパは右脇に抱えた寅清を棄ててパラシュートを開いた。落下速度が急減した衝撃で弟の肉体は大きく振れた。

「きゃああ!死にゅぅ!」

「しっかり握り返せ!絶対に離すな!」

 寅清は宙ぶらりんの状態で、無我夢中で兄・清範の手首を強く握り締めた。セントラルタウンの夜空に寅清の尿が降りしきる。もし柔道で鍛えた兄の握力がなければ、もしグヂパッパの足などに自力でしがみついていたならば、今頃は地上まで猛スピードで落下していたはずだ。清範の前腕は燃え盛る鋼鉄と化し、あまりの圧力に寅清の尺骨にはひびが入っていた。死を前にした恐怖によってその痛みはまだ感じない。


 隔絶された空間から眺めるだけだった東アフリカ旅行。今や全ての安全装置は外され、己の力が己の命運を決める厳しい世界、『現実』というものが彼らの目の前に、足元に、果てしなく拡がっていた。

 その冷たく悪意に満ちた世界の中で、兄の大きな手は熱く、力強く、優しいものだった。


「お前ら、やるなぁ」

 グヂパッパが巧みにパラシュートを操作しながら笑った。彼自身、今まで誰も達成したことのない作戦を無事にやり切った高揚感を感じていた。仲間からの畏敬の眼差しは、強者にとって金や女などとは比べ物にならないほどぞくぞくするものだった。


 夜空の三人はホテルから500mほど離れた位置を目指して飛び続けた。暗闇の中、うっすらと見えるのは幹線道路に陣取った巨大なトラック、そしてその荷台の上でパラシュートを待ち構えている複数名の怪しげな人影。彼らは懐中電灯を駆使してグヂパッパに合図を送っていた。


 トラックとパラシュート両者が阿吽の呼吸で速度を合わせて数秒後、清範たちは遂にトラックの荷台に転がり落ちた。二人の大きな少年を片手で抱えていた巨人は車上で踏ん張り、待ち構えていた二人の大男たちが素早く駆け寄ると彼のパラシュートを素早く切り離した。務めを終えた巨大なナイロン製の物体は、風に煽られるままにトラックの後方へと飛んでいった。トラックから100m以上の距離を取って恐る恐る進んでいた後続車両群はそれを見ると、慌てて散り散りに逃げていった。


「無茶な計画だったが本当にやってのけるとは、見事だグヂパッパ」

 誘拐犯の仲間がグヂパッパの肩を叩いた。清範たちは銃を担いだ男たちにロープで後ろ手に縛り上げられた。


「こいつが"日本の宝"か。本当にその価値があるのか、すぐにわかるさ」

 左目が潰れた髭面の男が笑って言った。残った目にも人間らしい輝きがなく、笑顔もただ顔が歪んでいるだけにしか見えなかった。

「日本の将来を担う少年さ」グヂパッパが笑って言った。「アキモンべはお前を歓迎するぜ」


 清範はずた袋を頭に被せられる直前、遥か遠くの地平線をぼんやりと浮かび上がらせている赤黒い光が見えた。あの禍々しい光がアキモンベなのだろうか。


 暗闇の中、南部の荒野へ向かって速度を上げるトラックのエンジン音と、今頃になって手首の痛みに気づいた寅清のうめき声だけが聞こえた。




 六名もの重武装した警察官がニュー・セントラルタウンホテルの21階へ駆けつけ、先程まで清範らがいた部屋に突入したが、既にもぬけの殻だった。犯人が残したと思しき大きなバッグが爆発物処理の人員の手によって慎重に開封された。


 中に入っていたのは『高潔なる日本企業の皆様へ募金のお願い -未来ある柔道少年の命を救おう-』という見出しのお粗末なパンフレットだった。

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