アッシュトレー -The Ashtray-
結局は人肉食である。ひどい思い出もあったものだ。寅清は未だにニャファドの命令で無理やり口に入れさせられた肉の味を思い出しては吐き気を催す。
だが何故だろう、ここから一万キロメートル離れた日本にいた頃にはモノクロだった記憶が今は妙な色彩を持ち始めてきている。夜な夜なうなされていた苦い記憶なのに、ここに来てからというもの、過去のトラウマを寛解させていく効果が確かに感じられた。これが過去と向き合うというやつなのだろうか。
「おい、そこのフード被ったヤツ。その先には進むな」
思索顔のまま狭い路地に入ろうとした寅清を、親切なカナズラ人が引き止めた。むき出しの風邪薬を路上で販売していたその男は、寅清と目を合わせると、そう、お前だよと首を縦に振った。
「なぜだ?」
寅清は理由を尋ねた。
「なぜって…お前さん、あの肉塊が見えないのか?」男は路上に転がるバラバラ死体を目で示した。「ああいう死に方したいのか?」
おじさんの忠告に寅清はふんと笑った。
「死を畏れるほどの未練などないが、奪おうとする者は誰であれ報いを受ける。それだけだ」
寅清は右手をくるりと回して手中からナイフを出現させた。薬売りのおじさんは思わず目をシパシパさせた。あの奇術自体はこの国で知らない者はいない。だが、それをおかしな東洋人が会得しているとなると話は変わってくる。
「おいおい…あ、行っちまった。なんだあいつは?」
そう言うと風邪薬売りの男は欲しいものを念じながら手首をくるりと返してみたが、手中にコインが現れることはなかった。今日、路地の先で輝くのは黄金のコインか、はたまた白銀の刃か。
ブロサル・アヴェニューの中心地に、四方をビルに囲まれた狭くてじめじめとした陰気な空間がある。ここには闇カジノ『アッシュトレー』に繋がる地下への階段があるのだが、一般人はその入口を見ることすらできない。歴史ある遊技場に足を踏み入れて良いのは、それなりの風格と財力を備えた者のみである。
そんな格調高い地下カジノだが、犯罪組織『ブニャニア青年団』と『アキモンベ司令部』との間で90年代に結ばれた停戦合意により、このアッシュトレーが中立地帯に定められたという経緯がある。そこから四半世紀の時を経て何も起きないはずはない。
アッシュトレーを実効支配する者こそがセントラルタウンのボスだとする見方は昔から確かにあった。そのため、時として味方でさえも追い落として自らが玉座に座ろうと企む者も出てくる。悪党にしばしば見られる見栄の張り合いで多くの血がこの賭場を巡って流されてきた。では、現在の支配者は誰なのか──。
2021年現在のアッシュトレーに目を向けてみよう。扉に厳重なカギを施された第一VIPルームの中に男が六人いる。真ん中には、後ろ手に縛られたまま床に座り込んでいるカナズラ人男性が一人。彼は昨夜、一人の男が裸にされて目の前でじわじわ殺されていく様をまざまざと見せつけられた。状況的に次は自分の番に違いないが、あまり恐怖を感じている様子はない。
彼の周囲を五人のドゥベドゥベ人が取り囲んでいる。
うち三人はドゥベドゥベ人系犯罪組織『司令部』のメンバーだ。探せば体のどこかに必ず役割を示すタトゥーが見つかる。例えばブニャ語のドゥブ("kill"の意味)の字が彫られていれば、そのメンバーは殺し屋である、といった具合に。彼らが組織内で軍隊式の階級制度を用いていることは広く知られているが、各々のメンバーがどのように役割を割り振られているのかは明らかになっていない。
一方、司令部ではない二人には身体のどこにも彫りものはなく、どちらも比較的年配でどこにでもいるおじさんといった顔立ちだった。しかし、歳を取っても未だ筋骨隆々とした肉体が若いギャングどもの侮りを許さない。
「スジャナン巡査部長、このカナズラ人のガキは?」
男が後ろ手に腕を縛られている事情が呑み込めないムンヅ巡査の問い掛けに、スジャナンと呼ばれた年配の男性は独特の丁寧な口調で答えた。
「”仙薬”を司令部から騙し取った男だそうです」
「ということは…」ムンヅは心当たりがあったらしく『司令部』の面々を見渡した。「さっきの地上に転がっていたバラバラ死体は”仙薬”を騙し取られた大マヌケ野郎ってわけか。お前ら仲間のミスにも容赦ないんだな」
ムンヅが嫌悪感もあらわに言うと、司令部メンバーは目こそ合わせないものの不穏な沈黙で不服を示した。なにも好き好んで仲間に"ネルタ"を行ったわけではない。そもそも元はといえば、そこにいるスジャナンが招いた事態なのだ。
読者の中には犯罪組織と警察が一堂に会していることを不思議に思う方がおられるかもしれない。このセントラルタウン市警と司令部との関係には、例によって少々込み入った事情がある。
本来、『司令部』は同胞意識が強く、余程のことがない限り仲間を手にかけることはなかった。だが古き良き時代はとうに過ぎ去り、今は犯罪者にとって厳しい冬の時代である。賄賂の通じない人物がセントラルタウンの市長に就任してしまったからだ。いや、正確には、賄賂を受け取るだけ受け取ってから「悪党どもとの約束は守らない」と言い放ったので、よりタチが悪い。
裏切られた形となった『司令部』は市議2名を銃撃する。騒動渦中の人、アンプラオ・オシメーリョ市長は古巣であるセントラルタウン市警の警官を総動員、一斉検挙で捕えた司令部メンバー幹部4名をテレビの前に引きずり出すと、生放送にも関わらず全員をその場で射殺させた。この事件がきっかけとなってセントラルタウン麻薬戦争(通称オシメーリョ戦争)の火蓋が切られる。オシメーリョはカナズラ人とグアテマラ人とのハーフであるため、当時はこれを人種間対立に落とし込んで見る向きもあった。
市警と司令部が数年に渡って血みどろの戦いを繰り広げる中、オシメーリョはとんでもない決断を下した。南部ドゥベドゥベ族で構成された最強の武装勢力、いわゆる『戦士』たちをセントラルタウン市警へ直に雇用したのである。スジャナンやムンヅはその混沌とした時期に招聘されたドゥべドゥべ戦士である。かなりの高待遇だったらしい。麻薬戦争が司令部側の降伏で終結した今も警察に留まり続けていることから、それが見て取れる。ドゥベドゥベ戦士は同国で最も危険なテロ組織として特別対策法に定められているほどであり、警察と組むなど本来は考えられなかった。
異色のタッグに司令部は衝撃を受ける。自らのルーツとして敬愛するドゥベドゥベ戦士が敵側についたのだ。そうしている間にも市警は容赦なくキアモ・シンバ生まれの仲間たちを駆逐していく。今や司令部の構成人数は全盛期の8割にまで落ち込んだ。警察のみならずライバルの『青年団』もここぞとばかりに攻撃を仕掛けてきている。オシメーリョ市長はそれでも攻撃の手を緩めない。前回の公開処刑で味を占めた彼は、司令部メンバー8人の生首を市庁舎に晒して「私が悪党どもとの戦いに敗北すれば、ここに並ぶのはあなたがたの首だろう」と自身の強硬手段を批判する報道陣を脅迫、世界中から非難された。これではどちらが無法者だかわからないが、セントラルタウン市民は92%の高支持率をもってオシメーリョに賛意を示した。
司令部は降伏するより他なかった。しかし、降伏には条件をつけた。市長室に鎮座する暴君にではなく、警察内のドゥベドゥベ戦士に忠誠を誓うという形でのみ降伏を受け容れると。警察としては今後彼らを従えておくのに、この先ずっと戦士の顔が必要となってしまった。戦士と司令部の同士討ちを図ったオシメーリョだが、よりによって戦士に国家権力を割譲してしまう結果となってしまったのである。
それはともかく、ゴリゴリの犯罪組織である『司令部』は現在、形式的にはセントラルタウン市警の完全な傘下にある。これが警察と司令部が相席している理由の一つだ。
「しかし…なぜ"仙薬"を司令部の連中が持っていたんですかね?あれは警察が厳重に管理していたはずですよ」
ムンヅが首をひねると、スジャナンは凝固した血便のようなどす黒い物体が入ったビニール袋を手の甲の裂け目に挟んで振ってみせた。
「ご覧なさい、このウ◯コのような物体は仙薬──のニセモノだ。本物と遜色ない出来でしょう?実はこれ、私が作ったんですよ。市警が保管するアンチカーズとこれをすり替えて、本物のアンチカーズはこの子たち(司令部)に渡しました。はい、全て私のせいだと言われても仕方ありません」
自らの悪事を抜け抜けと語る上司にムンヅは歯をぎりぎりと鳴らした。
「仙薬。ドゥベドゥベ戦士呪術師集団"密教"の連中が生み出したとされる奇跡の薬だ。アキモンベの炎に触れ続けると発症する謎の死病『カーズ』の治療に効果があるという。2017年に押収した現物を最後に新たなものは発見されていないが、あんたはそんなものを小遣い稼ぎに使ったと?」
ムンヅがスジャナンに詰め寄ると、この情けない上司は等距離を保ったまま後ろへ下がった。例え部下であっても"間合い"に入られることを厭うのは戦士に生まれた者の性といっていい。
「彼らへの借金を返済したら全て元通りにするつもりだったんですよ」
スジャナンが周囲の刺青男たちを指さした。
「借金ってあんた…また地下カジノで給料を溶かしたのか?そうか、返済金の替わりに仙薬を要求されたんだな!よりによって司令部からカネを借りるとは」
ムンヅの顔が見る見る強張っていく。上司の方は視線を落とし、もはや年長者の威厳の欠片もない。
「横領はヤバいぞ」
ムンヅが冷静に言った。実際には横領どころではない、事件が明るみに出れば国家を揺るがしかねない不祥事なのだが、末端の警察官に過ぎないムンヅの認識もスジャナンとそれほど変わらなかったということになる。スジャナンは頭を抱えた。
「ああ、こんなことがあのグアテマラ男(オシメーリョ市長)の耳に入ったら私は警察を追われ、ヴィクトリア刑務所行きは確実だ」
やや演技掛かった様子で頭を抱えて嘆いているスジャナンを見て、VIPルームの一同は冷たい笑いに包まれた。法の番人が刑務所に行く。実に痛快ではないか。恐らくこんな奴、刑務所に入ったその日の内に殺されてしまうだろう。ヴィクトリア刑務所では警官バッヂを外した人間などドブネズミ以下の価値しかない。例えそれが尊敬すべき戦士の者だったとしてもだ。
「さて…」自分も他人事のように笑っていたスジャナンは、床で縛られている男を見下ろして言った。「事情がわかったでしょう?盗んだ仙薬の隠し場所を言いなさい。私は船に乗りたくないんですよ(注:ヴィクトリア刑務所は巨大客船を改装して造られている)」
カナズラ人の若者は冷ややかに笑った。
「いい気味だよ、カニ手のスジャナン。警官がムショに入ればガソリン飲まされて内部から爆死させられるらしいぞ。カニらしい最期じゃないか」
スジャナンは右手が手首まで裂けている。20年前、右手に刃物の一撃を喰らい、中指と薬指の間をぱっくりと切られた。だが彼は激痛の中でそのカニのような手をいたく気に入り、敢えて縫合せずそのままにしておいた。今ではこの暗黒街でカニの手を持つ彼を知らぬ者はいない。地元民が「カニ」と聞いてまず想像するのは甲殻類の方ではなく、スジャナンである。
カニ男はふてぶてしいカナズラ男に一歩近づくと早口で捲し立てた。
「あなた、昨日ここで行われた処刑を見たんでしょ?あんな死に方したいですか?あれは"ネルタ"といってね、本来は若い戦士が破壊医学を学ぶために行う解剖訓練の一つなんだ。ナイフ一本、相手を生かしたまま目や耳、指や足首など多くの部位をパズルのように解体していく。死なせてはいけない。司令部のギャングどもはそれを表面的に真似ているだけだが、本当にネルタが上手な戦士は頭部と心臓だけを残した状態で半日以上も生かしておくことができるとか。いや、私にはそんな芸当は不可能ですがね。私は人の内臓に触るのが苦手で苦手で…」
「クソ気持ち悪いなお前ら」
ドゥベドゥベ戦士の風習に常識的な反応を返したカナズラ人を見て、スジャナンは話が逸れていたことに気づいた。
「…今はそんなことどうでもよろしい。仙薬の隠し場所を言いなさい。言えばネルタで苦しみながら死ぬことはないと私が保証する」
これで楽にしてやろう、という意味でスジャナンが拳銃を手中に出現させた。あまりの見事な早業にドゥベドゥベ人一同は息を呑んだ。皆が知る奇術シャバーナイーンではなく本当に拳銃を無から生成したように見えたのだ。金にだらしなく頼りない男だが、カニの手を利用した未知の技を持っている辺りは他のドゥベドゥベ戦士にも一目置かれていた。
しかし、どんな華麗な戦技も使命感を持つ者にとってはただの器用な手品でしかない。カナズラ男は自信に溢れた表情でスジャナンを真っ直ぐに見つめ、言った。
「お前らがサド趣味全開で俺の肉体を切り裂こうとも、数分我慢すりゃ苦痛から解放される。俺の死体をばらばらにして内臓を引きずり出そうが俺は既にあの世にいて痛くも痒くもないのさ。口を割るつもりなんてないね」
カナズラ男の口上にスジャナンは両手を口に当てて目をきょろきょろさせた。
「…行きましょうムンヅさん」
カニは踵を返して彼に背を向けた。その目はうっすらと潤んでいる。
「しかし、いいんですか?」
ムンヅが念を押した。仙薬の居場所を知る人物はこの男以外にいない。最大限口を割らせる"努力"をしてみてもいいのではないか。
「私は人を見抜く目を持っている。この男は決して口を割らないでしょう。ここにいても無意味です。かくなる上は、署に戻って他の誰かに罪をなすりつけましょう、それしかない」
スジャナンは第一VIPルームの重いドアを開くと、軽やかな足取りでカジノホールへ出ていった。
「おいおい!このカナズラ人のガキはどうすんですか?」
「お好きになさい!こっちは忙しいんです!」
ムンヅと司令部の男たちはお互いの関係性も忘れて顔を見合わせた。
ドゥべドゥべ戦士の警察官二人がアッシュトレーから地上へ出ると間もなく、フードを目深に被った怪しげな東洋人とすれ違った。ブロサル・アヴェニューは外国人の滞在者も珍しくはない。ムンヅは気にも留めなかったが、しばらくするとスジャナンが振り返った。
「──今の男」
一日中ずっと締まりのない笑みを浮かべていたギャンブル狂のダメ男が初めて表情を消した。
「さっきの男がどうかしましたか?」
いつもと様子の違うスジャナンを怪訝に感じたムンヅが尋ねた。
「私の知っている男に似ていた──」
そう、その男は確かに東洋人だった。東洋人なのにドゥベドゥベ戦士の生き方を選んだ変なヤツ。東洋人なのにクチャリンコ戦士長のお気に入り。本当に何が何やらさっぱりわからない。
「へぇ…意外ですね、チャイニーズに知り合いがいるとは。闇カジノの友人ですか?」
「いや、もっと昔の記憶だ。確かジャパニーズの少年だったような…」
スジャナンは自分の記憶を辿ってみたが、同じく闇カジノで借金地獄に陥っている魏さんの顔が邪魔をして何も思い出せなかった。
ブニャニア青年団【 Bnyanya Youth League 】
ブニャニア王国時代に暴力革命による王政打倒を目的としてブニャニア大学で組織された政治結社。当初はソ連と中国による支援の下で純粋に革命を目指す学生たちの集まりであったが、ソ連崩壊後、資金難とアイデンティティの喪失状態に陥ってからは凶悪な犯罪組織へと変貌した。