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赤い地平線  作者: 原島としはる
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巨人 -pappa-

《2000年12月31日、東アフリカ時間20時15分、惨劇は唐突に起きた。セントラルタウン検察庁舎前に停車していた自動車爆弾を起爆させたのを合図に、ドゥベドゥベ人過激民族主義組織ゲリラ15人が分乗していた三台のピックアップトラックが繁華街を暴走。台座に備え付けられたマシンガンや手持ちのアサルトライフルで市民を無差別に殺傷した。死亡者数61名の内、応戦した警察官が11名、REA軍兵士8名、東アフリカ軍情報局の責任者1名も含まれる。同国建国以来最大規模のテロである》

 テロリストによる銃声はある時刻を境にぴたっと止まり、今更ながらに出動してきた警官や軍、救急車のサイレンがセントラルタウンの夜に狂ったように響き渡っている。清範がテレビを点けると、セントラルタウン放送局の緊急速報が現場の様子を映し出していた。殺された市民の遺体をぼかすこともなく、そのままテレビに映し出している。その死体にすがりついて泣いている市民の映像は後に全世界へと届けられた。


 食い入るようにTVモニタを凝視している兄が言った。

「11月にオッポンカモッチョ大父が死刑執行されたことへの報復かもしれない…ってアナウンサーが言ってる」

 清範は通訳を生業とする父の影響か、英検準一級を持っている。母も帰国子女とあって語学学習に最適な環境は生まれた日から整えられていたといってよい。


「なに、モンガラ大統領が非常事態宣言を発動したって?大統領は生きているんだな?だったら一緒にいた父さんも無事だ!」

 清範が寅清の背中を叩いて叫んだ。モンガラ大統領と父・和夫は本日、日本大使館で同席していたが、何らかの理由があって清範たちのホテルへ帰ってくるのが遅れているのだろう。

「清範、お前怖くねえの?」

 寅清が兄に尋ねた。膝に力が入らず、自分が立っているのか寝ているのかすらわからなくなっていた。

「伊東先生のご指導より怖いことなどない。お前こそどうなんだ、怖くて泣きそうか?」

 兄が弟をからかった。

「うっさい、殺すぞ…」

 寅清が強がりを言う時には必ず口にする"殺すぞ"も、いつものような巻き舌ではなかった。本当に殺された人々を目の当たりにしたばかりなのだから無理もない。


 アグンバ通りに目をやると、ようやく事態が収束した安心感からか人々が犠牲者の周囲に集まって冥福を祈っていた。軍用車両が車列を作って道路を封鎖しており、さすがのテロリストもそこを襲撃するような自殺行為は行わないだろう。上空では二大放送局の報道用ヘリ数機がせわしなく飛び回っていた。



「父さんのケータイに電話して無事を確認しよう」

 寅清が自分の携帯電話を掴んで言うと、清範が頭を振った。

「繋がるわけないだろ。備え付けの電話から大使館に確認するしかない」

 そう言ってから清範は口をつぐんだ。

「ていうか…大使館に私用で電話かけていいのか?」

 部屋に備え付けの電話機に触れたまま思案していると、逆にロビーからの内線が入った。予想外の呼び出し音にドキリとして兄弟は顔を見合わせた。清範はある程度の英語であれば理解できるが、実際に外国人と会話するのはやはり緊張する。

 ゆっくりと受話器を持ち上げると、清範はそれを無言で耳に当てた。相手方もしばらく黙っていたが、訛りの強い英語で語り掛けてきた。


『グッド・イブニング。君がジュードーボーイのキヨノリくんかい?』

「…なんだ?お前、誰だ?」

『誰だと思う?』


 通話はそこで途切れた。

 清範は受話器を置くことも忘れ、不気味な電話の正体に頭を悩ませていた。こんなふざけた会話がロビーからの電話であるはずがない。大使館員や父の関係者からの電話でもないだろう。簡単な会話でしかなかったが、その響きには相手を嘲笑うような底意地の悪いトーンが多分に含まれていた。しかし、なぜ俺の名前を…。


 ふと寅清の方を見ると、弟は窓際に視線を向けたまま目を見開いて固まっている。こんな弟の顔は見たことがない。


「…寅清?どうした?」

 兄の問い掛けに弟は震える右腕をゆっくりと上げると、窓の方を指差した。


「窓に人がいる…」


 清範は弟の言葉の真意が掴めず、窓の方を振り返った。二一階の窓である。弟の言葉通り、窓の「外」に人がいた。平べったい窓に蜘蛛のごとくへばり付いて清範たちを真っ直ぐに眺めている。窓越しに日本人少年らと目が合うと、男は笑顔で右手を振ってみせた。その手には先程清範と会話する為に使ったと思しき携帯電話が握られている。


「…」


 普段は他人にふてぶてしい清範もさすがに言葉を失い、目の前の人物が何者なのか、はたまた幽霊の類なのかを考えて腕毛が粟立った。しかし幻覚にしては鮮明であり幽霊の類にしては筋骨隆々過ぎる。あの筋肉で外壁の僅かな突起を伝ってここまで登って来たのだろうか。寅清もどう反応して良いものか分からず、恐怖心からか無意識的に手を振り返した。


 男は大きな顔を破顔させると、おもむろにウェストポーチから四角い粘土のようなものを取り出して、それを窓の中央に勢いよくドンと叩き付けた。


「これは…」


 嫌な予感がした。清範の脳裏に先月の全国大会決勝戦での場面が鮮明に蘇る。修克中学の主将・宮内が僅かにバランスを崩した瞬間を好機と見て大外刈りを狙った、あの瞬間の、全身にごく一瞬だけ電光のように奔る、あの冷やりとした感覚。


 窓外の男が上に跳んだ。つま先ほどしかない小さな足場から窓の上までたった一度のジャンプで飛び上がったのを見て、清範の全身の血が一瞬で沸騰した。窓ガラスの真ん中に付着した粘土のような物体は──敢えて擬人的な表現を用いるならば──合図を待っているように見えた。


 清範は咄嗟に弟の奥襟を取って引き寄せ、ドアの方へと、少しでも窓から離れるよう渾身の力で投げ飛ばした。その素早い反応はトップアスリートゆえのものだろう。


 不安は的中した。粘土に突き刺さっていた信管は、男が送った無線信号によって電流を生じさせ、凄まじい化学反応を起こさせた。

 窓そのものが凶器と化し、爆発音と破片と、そして気圧の変化によって兄弟は平衡感覚を完全に失った。


 警報ベルがけたたましく鳴り響き、スプリンクラーが作動して一面水浸しになっているらしい。「らしい」というのは、清範の五感が鈍って何も感じ取れなかったためだ。床に這いつくばって必死に周囲を視認していると、彼らにとっての「運命の人」が割れた窓から土足で侵入してきた。


 がっしりした体格、筋骨隆々と呼ぶには少し肥っているかもしれない。坊主頭に見えたが頭頂部にだけ髪を残している。無精髭は生えているが顔は20代前半くらいか。そして…。


──でかい。


 ここまで大きな人間を清範は初めて見た。背筋を伸ばせば部屋の天井に頭が着いてしまうのではないか。240cmを超えている…?


 砕けた漆喰の砂塵が舞う中、巨人が清範の姿を認めてニヤリと笑った。


「へえ、こんなガキがジュードー界の至宝だとはねぇ。俺の母ちゃんの方が強そうだぜ」


 清範は冷静さを取り戻すために、ゆっくりと息を吐いた。感情は稽古で磨いた技を捨てさせ、ただ力を相手にぶつけようとする。だから武道家たる者は常に冷静でなければならない。伊東先生の教えである。


 なぜこの男は高層ビルの外側から侵入してきたのか、なぜ自分を狙うのか、なぜこんな規格外のバカでかい人間がいるのか。様々な疑問が頭をよぎる。何もわからないという強烈な不安がそのまま恐怖へと姿を変えた。だが、清範の人生で培われてきた信条は逃げることを許さなかった。自分より50cm大きい相手を想定して稽古したことはない。だが、自分より小さな者を畳に叩きつける為だけに今まで血反吐を吐くような稽古をしてきたわけでもない。


 清範は腹の底から短く絞り出した咆哮で、臆病風に吹かれそうな自分を鼓舞した。

 そして両手を高く挙げると、狂人のごとき形相で巨人に対峙した。宣戦布告である。修克中の主将宮内などとは比べ物にならぬ強烈な圧力。こんな化け物を相手にして常人ではいられない。


「俺に向かってきたヤツは初めてだぜ」


 巨人が笑った。大人と子供のような体格差、確かに滑稽ではある。だが黒い肌の巨人は半身になると腰に巻きつけていた大きなバッグを取り外し、両腕を頭部の高さにまで挙げた。宣戦布告を受諾したという意思表示である。


 今までの稽古がそのまま通じる相手ではないことは考えなくてもわかる。だが勝たなくてはならない、そんな気がした。常に冷静でいなければ勝てないとする伊東先生の言葉も今は余計である。この恐怖に打ち克つために、清範は怒りを利用した。


「何の罪もない人々を殺しやがって!」

「…?」


 清範の怒気に満ちた表情を見て、巨人はなぜか失望した表情を浮かべた。


「戦いの最中は感情を押し殺した方がいいぜ。せっかく練習した技が出せなくなるからな」

「大きなお世話だ!」


 手指、膝、唇。清範の身体がぶるぶると震えていた。それが恐怖に起因するものであろうと、怒りのそれであろうと、戦う者の手足がそうなっては、もはや普段の力の半分ほどしか出せない。


 やれやれと、巨人は一歩前へと足を踏み込んだ。技ではない、ただの移動、ただのポジショニング。そう見せ掛けていたのだと気づいた時には、既に最悪の間合いを取られていた。

 清範は全ての技を忘れ、少しでも巨人から自分の体幹を遠ざけようとして不用意に腕を突っ張ってしまった。生存本能による反射である。それがあらかじめ決まっていたかのように、巨人の大きな手の中に、清範の腕が自然と吸い込まれていった。巨人の人懐っこい笑顔が消えた。


──殺される。


 この時点で敗北は確定したが、これから全身に与えられるであろうダメージを上手く軽減する必要がある。何もしなければ死ぬと本能が告げていた。


 清範の腕と胸ぐらを掴んだまま巨人が右に半回転した。近づきたくないのに、引き寄せられていた。


──この俺が重心を崩された?


 前につんのめった清範の胴体が、一瞬沈んだ巨人の背中で真上に突き上げられた。交通事故に等しい衝撃。

 腕をがっちりと掴まれたまま離してもらえず、清範の肉体は巨人の背中に乗って浮き上がり、部屋の天井に顔面をすり下ろされた。破れた皮膚から鮮血が吹き出る。

 そして視界が上下反転したかと思えば、ベッドのクッションへ仰向けに叩き落されて呆気なく決着がついた。受け身すら取れなかった。ベッドの木材が「破裂」していた。


「下の連中を殺したのは俺たちじゃねぇよ」


 巨人が悶絶している清範の顔を覗き込んで笑った。

 みぞおちと背中への二度の衝撃で横隔膜が収縮してしまい、完全に呼吸が止まっている。清範はその地獄のような苦しみや、ベッドの上に落とされ慈悲を掛けられたことではなく、たった一つの事実に衝撃を受けていた。


──こいつ、変形でも巻き込みでもない、完璧な背負い投げを使いやがった。

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