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赤い地平線  作者: 原島としはる
17/23

A.D.200X -mishi mishi 1-

aquim = "a shooting star"

ombwe = "a nightmare"

──Edinburgh Bnyanya-English dictionary

 アブドゥルハミドは持ち前の信心深さに加えて、奇跡を目の当たりにしたことで、数百の死体──中には同胞の死も含まれる──に浸りながらも至福の時を過ごしていた。今はもう、水も、死体も、自分の肉体が徐々に崩れていくことも恐れない。


 結局、自分は常に何かを恐れ、それにあがき続けた人生ではなかったか。敵と戦うことで神の御下に近づく。だが、その敵とは即ち、自分やムワラジ師が恐れたものに他ならない。当初は純粋に信仰のためであったが、ここに来る頃には既に戦う理由を見失っていたような気もする。


 この忌々しいプールに浸かって死を待つ間、改めて自分の人生を振り返ってみたりもしたが、死して残るものは骨だけだと気づいた。痩せ細った肉体はもはや骨格だけを残すところとなり、ぶよぶよにふやけた皮膚には汚水が染み込んで真っ黒に染まってしまっている。もう痛みすら感じない。それでもこのテロリストは満たされた気持ちでいっぱいだった。


 この涙は自分を憐れんでのものではない。この多幸感は厭世的破壊願望の極地においてしばしば見られるようなトランス状態から来るものではない。


 親愛なる友。いや、真に畏怖すべき者がここに誕生した。長い間待ち侘びた奇跡。それが目の前に、顕然として、この世のものではない何かとして現れた。


 神は慈悲あまねく、慈悲深し。深淵より転生した友は、罪深き戦士トジャキの生首を小脇に抱えたまま、プールサイドで真っ赤な空を見上げている。我が信仰、成れり。彼こそ精霊の力を得た神の御使いであったのだ。


 なぜトジャキは自分の胴体を失うことになったのか。その経緯こそアブドゥルハミドが奇跡を確信した理由である。


 アブドゥルハミドが見ても、トジャキは最期まで立派な戦士であった。いつものようにビールを飲み終えたトジャキが自動小銃を担いで施設の巡回に戻った。途中、尿意を催したため、アブドゥルハミドらのいる貯水槽に向けて用を足す。そこで彼は水槽内の被験者の数が足りないことに初めて気がついた。脱走だと思い込んだトジャキは右手で輪っかを作り、それを口に入れて仲間へ合図を出した。


 だが、誰も脱走などしていなかった。不可解にも、脱走者は目の前にいたのに、見えなかったのである。


 "脱走者"は貯水槽の端まで移動すると、自力でプールから上がった。その途中で「顔」と呼ばれていた物体が頭蓋骨からずるりと剥け落ちたが、気にする様子もない。壁際にびっしりとへばり付いている虫達にも彼が見えていないらしく、避けようとすらしなかった。"脱走者"はプールサイドでゆっくりと立ち上がると、真っ赤な頭部で辺りを見回していた。


「うわっ!!な、な、なんだお前は!?」


 ようやく自分の近くに何かがいたことに気づいたトジャキが、その細くて恐ろしい姿を目の当たりにすると、恐怖で我を失った。歪な形状をした”何か”に慌てて小銃を構えるも、指が震えて使い物にならない。"何か"は、構わず辺りを、この世界を見渡している。


 マガジンの弾丸全てを撃ち切る発射音が夜中のサヴァナに響き渡った。施設にいた者のみならず、付近の獣から鳥類まで全てが慌てて飛び起きるほどの破裂音である。


「な、なぜだ…全弾当てたはず」


 トジャキは英国陸軍での実戦経験もある戦士であり、銃器の扱いには慣れている。ましてや、この至近距離で標的を狙って外すはずがない。はずがないのだが、この得体の知れない存在を倒すことはできなかった。相手は動いていない。ドゥベドゥベ戦士が得意とする"ウィービング"で銃弾を予測回避する動作すら行っていないのだ。


 “何か”は、こうしている間も、うねうねと姿を変え続けている。もっと正確に言えば、姿を正しく見定めることができない。信じられないことだが、見ようとすると万華鏡のように見え方が変わる。


「このバケモノめ!!」


 銃撃で駄目ならばと、トジャキは小銃を振りかぶってストックを肉なき者の頭上へ落とした。


 相手の頭に当てたつもりだが、重い衝撃が自分の後頭部に加わり、トジャキは膝から崩れ落ちた。


「なぜだ…?」


 トジャキは脳への衝撃に意識が朦朧とする中、地を這いながら、”そいつ”を見上げた。

 血と骨しかない。肉どころか皮膚すら一片も残っていない。あまりに痩せ過ぎて、腹部に内臓の形が浮き出ている。だが、間違いなく生きていた。生と死の境界線ぎりぎりに立ち、本人の意識が死に向けば今すぐにでも死ぬような状態。それが歩いて、立って、周囲を見回している。目玉も残っていないのに──!


 トジャキは自分の銃の残骸を見た。銃身全体が使い古されたスプーンのように湾曲し、螺旋を描いて歪んでいるように見える。これはアキモンベの炎を長時間眺めると発症する『カーズ』の症状に似ているが、あれは全てが歪んで見えてしまう病気だ。一部のものだけがそう見えるなど常識では考えられない。


「てめぇ…クソとションベンと死体にまみれてバケモノに転生しちまったのか」


 そのバケモノは、かつてのリーダーである。この人知を超えた出来事も、遠因としては自分にあった。


 とにかく昔から気に入らない奴だった。戦士の中にも大人になり切れない者はいる。いつまでも子供のように人を信用し、女のように戦いから逃げる。そんな宿舎時代から下に見ていた奴が小隊のリーダーに抜擢され、トジャキはその後塵を拝することになってしまった。看過できぬ事態である。


 そこで、敵を逃そうとしたと難癖をつけて(実際、何人か見逃そうとはしていた)、こいつ自身をこのゴキブリだらけのプールに叩き込んでやった。だが、その時もこいつは文句一つ言わずに粛々と従った。間違っているのは誰か、お前が一番わかっているだろう?そう言いたげな顔が憎たらしく、毎日徹底的に痛めつけた。屈辱を与えた。毒々しい液体の中で日に日に腐りゆくかつての仲間の肉体。自分は勝者であり、こいつは敗者である。それなのに、勝利の愉悦などはなかった。その敗者に感じていたものは、恐怖だった。


 全てを失い、残ったものは血と骨のみ。そんな敗者にしてやれることと言えば、一つしかない。


「死ねっ!」


 トジャキは腰にぶら下げたマチェーテを抜くと、元リーダーの首を一気に薙ぎ払った。確かな手応えはあったが、どういうわけか切断したのは自分の首だった。


 痩せっぽちの元リーダーは、放物線を描いて落下してきたトジャキの頭部をキャッチすると、それをバスケットボールのように小脇に抱えて空を見上げた。上空はアキモンベの炎で覆い隠されて真っ赤だった。赤い雨『ジャベーベ』が降るかもしれない。プールの中で一部始終を見ていたアブドゥルハミドは、ぽかんと口を開けたまま、胴体を失ったトジャキと目を合わせていた。




 小銃を構えた戦士たちとヌペペ博士が”肉なき者”を包囲したのはそれから間もなくのことであった。ヌぺぺはただ無言で、赤い夜空に同化している存在を眺めていた。幽霊の如く、何度見ても形がはっきり定まらない。戦士らも目を見開いて何度も目をこすっている。


「なんてこった…こりゃ悪霊の仕業か…?」

「違う。アレの仕業だ」


 ヌぺぺは人差し指を天に向けて言った。その指を今度は地に向け、皆に銃口を下げるよう命じた。この真っ赤な骸骨が危険な存在ではないという確信があったからだ。元より、この男がカーズを超越した今、銃弾で殺すことなどできない。


「彼は生きているんですか?」

「そこは生きて入れず、死して出られず。このパラドックスの外にいる存在だ」


 この学者お得意の謎かけである。こういうことばかり考えているから立派な大学を追放されちゃうんだろうなと戦士の一人は思った。


「この気が狂ったような施設は、こんなグロゾンビを生み出すために作ったんですか?」

「グロゾンビとは何だ!これはアキモンベを覗き込むための輝かしい第一歩なのだぞ」


 戦士らは揃ってため息をついた。まだここで寝泊まりしなければならないのか、と。



「ハハハハハ!」


 突如、アブドゥルハミドが高笑いした。一同は驚いてプールの中にいる男を見た。被験者がおかしくなったのだと皆が思った。それ自体は決して珍しいことではない。だが、そうではなかった。本当に嬉しくて笑ったのである。


 死の淵で励まし合った者同士に芽生えた奇異な感情。そして殺しても飽き足りぬほど憎んだ男の呆気ない最期。まともな思考能力の大半を失ってはいたが、これは本当に可笑しい。可笑しくてたまらない。狂信的で独善的な男は、初めて腹がよじれるほど笑った。


 ヌぺぺはアブドゥルハミドを一瞥すると、シャバーナイーンで拳銃を手中に出現させ、迷うことなく彼の額を撃ち抜いた。


「お前はいらん」


 世界で一番幸せな表情を浮かべた死体は、もはや絶望の海に沈むこともなく、ぷかぷかと浮かんでいる。ヌぺぺは手に持った拳銃を、今度は手を反対に回して消滅させた。高齢の戦士の中にはシャバーナイーンで出現させたものを逆に消すことができる者もいる。


 そしてヌぺぺは、今月中に死ぬと見ていた男の変わり果てた姿を仰ぎ、跪き、地に両手を着き、頭を垂れた。わけがわからないといった様子で、周囲の戦士らもそれに倣った。ヌぺぺが、訊ねた。


「moram, owa uwende?(神よ、いずこより?)」


 アキモンベの真っ赤な後光がぎらつく中、肉なき者はヌぺぺの方に頭を向けると、新たな歴史を告げた。


「bwa, owa mishimishi(我、ミシミシに至れり)」

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