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赤い地平線  作者: 原島としはる
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武道家 -marshal artist-

勇猛な者は前線に出て皆死ぬ。我々は前線に出なかった者の子孫だ。

──クチャリンコ戦士長


東アフリカ共和国ドゥベドゥベ族戦士長による失言の一つ。ただし本人が言ったという証拠はない。

 武道家が「今日は体調が悪いから稽古を休みたい」などと言えば、あなたはどんな印象を持つだろうか?恐らくその武道家を無価値で口だけの見下げ果てた存在だと見なすのではないだろうか。武道家である以上、風邪を引いても怪我をしても稽古を休めないのだ。


 これは清範の師範である伊東守克氏が当時の清範へ口にした説教である。清範は意外にもサボり癖があった。しかし、彼にその才を見出した伊東が本格的に柔道の道へと進ませるために、とにかく練習にだけは参加するよう、武道という曖昧な言葉を用いて柔道家としての心構えを叩き込もうとしたのだ。ただのスパルタ指導を合理化する為の方便にも思えるが、この直情的な中学生には何か得心するものがあったようである。


 自己を鍛錬することそのものが清範の目標となった。稽古は試合の為にすることではないし、誰かの存在によって意味合いが変化するものでもない。もちろん、志を同じゅうする仲間はいても、目指すところは一人でしか到達できない場所にある。一人でいる時こそ休まず自己研鑽に励んでいなくてはならないということだ。伊東の言葉が、だから風邪や怪我をしないように常々心掛けろ、という意味合いであったことはもはや重要ではない。



 早朝、清範は部屋の壁に向かってゆらゆらと前後にステップを踏んでいた。壁といってもただのポリエステルであり、部屋といっても体育館ほどの広さのバラック内にこしらえた個室と呼べるかも微妙な空間である。周囲から漏れ聞こえてくるすすり泣きの声は、自分と同じく誘拐されてしまった少年少女による怨嗟の声なのかもしれない。考えようによっては非常に不気味な空間だが、清範にとってはセントラルタウンホテルのスイートルームよりは快適な環境だった。余計な飾りがないので練習に集中できるからだ。


 かれこれ15分くらいそうしているだろうか。波に揺れる小舟の上でバランスを取っているようにも見える。動作を百万回繰り返しても全て同じ動きができるように、意味があるのかどうか誰にもわからない動作を実際に百万回繰り返すのである。ここまでくるとストイックというよりパラノイアに近い。


「それは柔道の練習なのか?」


 突然、背後から聞き覚えのある声がした。練習の邪魔である。清範は無断で部屋に入り込んでいた人物を振り返りもせずに答えた。


「上半身を下半身に従わせる練習だ」

 清範が意味不明なことを口走った。思いつきのような練習法を何億回と繰り返したところで本当に彼が望むような効用があるという保証はない。だが、そこに突き進める清範だからこそ今の強さを手に入れることができたことも事実だった。

「ところで、あんたをこの部屋に招いた覚えはないぞ。ミスター徹甲重筋肉」


 清範が動きを止め、ベッド代わりのソファに腰掛けている男に向き直った。鋼鉄を穿つほどの筋肉を持つと自負するベケマンチという大男だ。坊主頭に鼻ひげを生やしたいかつい顔立ちと眼鏡の知的な感じが妙に似合っていて腹立たしい。ベケマンチは両手を組み合わせ、人差し指だけを立てながら、眼鏡の上からぎょろっとした視線を清範に向けていた。


「用が済んだらすぐに出ていくさ」

「筋肉が暑苦しいんだ。今出てけ」

「言ってくれるじゃねえか」ベケマンチが笑った。「ここに連れて来られた外国人は心細くて泣いて過ごす奴もいるが、お前は朝から脇目も振らず自主練習か。面白い奴だぜ」


 五輪代表選手に選抜されたこともある自分を二度も柔道技でぶん投げた中学生の肉体を見て、ベケマンチは考え込んだ。決して細いわけではないが、自分と比べればバオバブと竹くらいに太さが違う。腕に至っては自分の半分以下だ。柔道は技が重要だが、それにも限度はある。90kgほどの小男が165kgの大男に勝てるほど柔道技は万能ではないはずなのだが。


「何しに来たんだよ、ベケマンチ」

 人の部屋に勝手に侵入してきて無言で考え事をしている筋肉男に清範が呆れ気味に尋ねた。ベケマンチは清範が自分の通名を覚えていたことに少なからず驚いた。

「昨日のお礼に来たのさ。15歳のガキに負けっぱなしですっこんでちゃ面子が丸潰れだからな」


 ベケマンチ──本名ダダバブ・ドゥトゥワ。彼もまた柔道男子100kg超級東アフリカ共和国代表としてシドニー五輪を目指した歴然たるアスリートの一人である。とある事情で出場資格を取り消されなければ、十分に金メダルを狙えた実力者だ。ちなみに清範の師匠である伊東守克の後輩に当たる幅大治郎は1998年にパリでドゥトゥワに敗れている。遠い異国の地で誘拐された愛弟子がドゥトゥワと一緒にいると知れば、さぞや伊東は驚くに違いない。


「大人も大変だな」

 清範はしみじみと言った。負けてカッコ悪いから仕返しに来たなどという単純な話でなく事情がありそうなのはわかる。だが言葉に若干の皮肉を込めているのは言うまでもない。オッサン、いい歳して何やってんだ、と。


「悪いが、何と言われようとやらなきゃならねぇんだ。腕の一、二本は覚悟してもらうぞ」


 大人の事情など国や環境によって異なる。喧嘩に勝ったの負けたの、確かに見苦しい。文明人の考えることではない。だが全ての人類に共通しているのは「喧嘩はしたくないのに、喧嘩には負けたくない」ということだ。


 ベケマンチがソファから立ち上がった。身長202cm体重165kg、まともに戦えばどんな技でも無効化してしまう規格外の体格である。その巨大な岩石が肩をいからせながら清範を壁際に追い詰めた。グヂパッパの時にも感じた強烈な圧力がこの男にも十分に備わっている。


「問答無用だな。OBの高橋さんみたいだ」


 清範は右脚を後ろに下げて、身構えた。ベケマンチは少し笑みを見せながら眼鏡を外して、後ろのソファへ放り投げた。戦闘開始である。お互い平静を装ってはいるが、どちらも口の中はカラカラで、横隔膜もぎゅっと握り潰されたように収縮している。無様に負けることへの不安がそうさせていた。


 こんな無意味な喧嘩に付き合わなくても…。そんな考えが清範の胸の内にも湧き上がる。だが、今回もまた強烈な戦意によってそれを打ち消した。自分の取り柄はこれしかないのである。清範は他者と会話で打ち解けられるほど世渡り上手ではない。逆説的ながら、相手を打ち負かせ得る力のみが相手と通じ合う唯一の手段だった。笑顔を浮かべて当たり障りのないお世辞を言い合うよりも、怪我をさせ、お互い傷つけ合う方が、彼にとって友好的な結果に繋がることが多いのである。


「何度でもぶん投げてやる」


 清範が両手を挙げて構えた。上に何も着ていないのに、襟を取られないようガードしているのは柔道家の性か。


──こいつ、サウスポーだったか?


 清範の左足が前に出ている。もちろんこのレベルの選手ならば左右両方の稽古もしていて不思議はないのだが、昨日の乱取りではここまで違和感を感じなかった。スイッチによる奇襲技でも狙っているのだろうか。


「俺はな、シドニー五輪に出られるはずだったんだ」


 ベケマンチの手が清範の首に伸びた。拳は握られていない。喧嘩殺法で来ると思われたが、意外にもグラップリングにおける組手争いで始まった。それならば清範にも対処できる。相手の手を払い除けて、逆にこちらが相手の腕を捕るのだ。ただし、動き回る相手の腕を直接掴むことは実際にはほぼ不可能で、お互い何か別の狙いがあることは明白だった。


「ドーピング検査にでも引っかかったのか?」

「馬鹿野郎、そン時はシラフだったよ」


 不意に清範の上体が沈み、前に出していた左足を更に一歩前に進めた。先ほどの練習で見せていた動きだ。後ろ足で全身を蹴り出し、下半身が先に前進する。0.2秒の間に起きたこの動作によって、追い詰めているはずのベケマンチが僅かに距離を詰められる結果となった。


──ん、これは…?


 清範の下半身は前進を終えた。強力な脚の筋肉で前進した下半身によって、清範の重心はやや後方に傾いている。この体勢は非情に不安定であり、下半身45kgほどのエネルギーが安定を求めて清範の身体を伝っていく。出遅れた上半身にである。


 上半身に乗せるものは一つしかない。清範の脚から腰、腰から肩甲骨、肩甲骨から肩、肩から肘、肘から手首へと、移動する毎に重みを増していくエネルギーが、最終的に到達したのは──握られた拳骨であった。


──打撃か!


 清範の拳骨がベケマンチの顎を捉えた。バラック全体に骨の割れるような打撃音が響き渡り、周囲の部屋で朝からすすり泣いていた者たちも今は押し黙って耳をそばだてている。


 右ストレート。多少力任せなところはあるが、打撃が絶望的に下手な者が多い柔道出身者にしては上手く体重を利用した柔軟なパンチである。ベケマンチの当たり所によってはここで勝負が決まっていたかもしれない。しかし──。


「痛ってぇッ!」


 壊れたのは清範の拳と手首だった。凶器となる拳骨や力を伝える手首の関節は長年の鍛錬によって徐々に強化される。本格的に鍛えたわけではない清範の柔らかい拳骨は、自らのパンチの重みに耐え切れなかった。


「俺も一応戦士のはしくれだからな。構え方でそいつがストライカーかグラップラーかの違いくらいはわかる。お前のは我流で練習してきたストライカーの悪い部分が全部出ていた。お前が壁に向かって一人でゆらゆら練習してた時からパンチ狙ってるなって気付いてたんだよ」

「マジかよ。その割には思い切りアゴ殴れたぞ」

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