ウヂュメポコ -Wudiume pocos-
ウヂュメポコとは直訳すれば「狭間の血」という意味で、東アフリカ共和国の遊牧民ドゥベドゥベ族の社会や伝統、風習を理解する上で非常に重要なキーワードです。
──清宮耕一. 新日日報 : 2015.9.20
ウヘロの前蹴りを受けて骨盤下部を複雑骨折した守衛の男──名をベンキといった──には妻がいたが子供はいなかった。子を望まなかったわけではない。ただ、子供が自分と同じ血を引くのであれば、この世に生まれて来ない方が幸せだろうと考えたのだ。
ドゥベドゥベ戦士が槍の穂先を野生のライオンから人間に向け始めた頃から、彼の体内に流れる血は彼の人生を困難なものにすることを運命づけた。キアモ・シンバ生まれの彼は即ち、純粋なドゥべドゥべ人ではない。氏族内の平等を建前とするキアモ・シンバにおいては、父がドゥべドゥべ人の誰かであること以外、幼子らには何も知らされない。母の血で「兄弟」達に優劣をつけない為だ。
その特異な家庭環境で育った彼ら『ウヂュメポコ』は、物心ついた頃から「純血」の戦士から侮蔑され、成人すれば技の練習台となり、時に性の捌け口にされることもある。彼らは決して同じドゥベドゥベ人とは見做されなかった。
不憫なことに、ウヂュメポコは純粋なドゥベドゥベ人に比べれば身体能力が有意に低いことがわかっている(注1)。この事実を前にすれば「優生」な者が純血主義に傾倒することになるのも無理からぬことではある。自らの属する集団が目に見えて弱体化していく様を、誰しもが指を咥えて看過できるわけではないということだ。
しかし、それは弱者の抑圧を合理化する道具として作用し、時にそれが「優生」な者自身を縛る鎖と化してしまうこともある。
《2001年1月3日13時05分、エベレレ・クランのキアモ・シンバ『慈悲の赤砂』》
「このキアモ・シンバには八百人ものウヂュメポコが暮らしてる。ほら、ビクビクしてないで堂々と彼らを見ろよ」
二階の窓から中庭ではしゃぐ子供たちを見て、ニャファドが寅清に言った。この日本人少年は「キアモ・シンバ内を散歩でもするか」というニャファドの思いつきに一も二もなく飛びついた。股間を大怪我したおじさんに面白半分でトドメを刺せと言われるくらいなら、散歩に付き合う方が幾分ましだと思ったからだ。寅清は渡された拳銃をニャファドに返せぬまま、彼に付き従うような形でキアモ・シンバ内をあちこち見学することとなったのである。
「ドゥベドゥベ戦士の子弟なら今この時間、一心不乱に猛勉強してる。欠伸しただけで師父に半殺しにされるから、まさに命がけの勉強だ。睡眠時間は一日に4時間あればましな方。トイレ休憩で数分仮眠をとって無理やり頭を働かせなきゃならない。そんな辛い勉強が終わっても次は血反吐を吐くほど厳しい戦闘訓練が始まる。骨折なんて日常茶飯事だ。親が二人とも名のあるドゥべドゥべ人だったばかりに僕たちは毎日地獄のような境遇で生きている」
ニャファドの苦労話が止まらない。寅清にとっては正直知ったことかと思わないでもないが、この小柄な黒人少年の筋肉の盛り上がりや皮下脂肪の少なさ、そして傷跡の多さは、それが誇張ではないことを物語っている。もっとも、身内に似たような奴がいるので、あまり驚きはないのだが。
「だが見ろよ、彼らウヂュメポコと来たら園庭でキャッキャと下手くそなフットボールに興じてみたり、コミックを読んだり、ビデオゲームの話をしたり。本当に羨ましいよ。ここはまるで天国だ」
初めは他人事のように聞き流していた寅清も、次第に極東の天国育ちである自分が何故だかとても怠惰なものに思えてきた。もし日本に帰れたら東大目指して死ぬほど勉強しよう、全中バスケで優勝しよう、漫画もゲームも卒業だ!不思議とそんな気になったのである。
「戦士の子はゲームとかしないのか?」と、寅清が何気なく尋ねた。
「しちゃいけないんだけど、最近は隠し持てるサイズのゲーム機があるだろ?それが数千ドルの高値で裏取引されてる。持っていることが大人にバレたら鞭打ち30発と3日間の睡眠禁止だってのに、皆よくやるよ」
よくやるも何も、それは起こるべくして起きた反応である。子供たちを鍛えるという目的と、その為に自由を制限するという手段は本来相容れないものなのだ。今、彼らの分厚い大胸筋の中にあるものは強烈な自由への渇望に他ならず、彼らが強くなればなるほど、自らの自由を束縛する者への敬意は失われていくだろう。
とはいえ、たかがゲームの話だ、ドゥベドゥベ戦士も日本人のようにゲームに熱中するのである。寅清は不思議な安心感を覚えると同時に、東大を目指すことは早くも諦めた。
「ここは天国だ、勉強も稽古もしなくていい。いつまでもここにいたい」
ニャファドが羨ましげに、かつ幾許かの侮蔑を込めて言った。ここ、キアモ・シンバは戦士の子供にとってはただ散歩するだけでも楽しい場所なのかもしれない。だが、そこで暮らしているウヂュメポコの子供らにとっては傍迷惑な事態であるらしく、『二階から槍持ち野郎が来るぞ!』と独特のハンドサインで周囲に知らせ合うと、彼らは慌ててその姿を隠そうと躍起になった。教室に素早く逃げ込めた者は幸いで、その機を逃した者はせめて目立たぬようにと廊下の隅へと移動し、顔を引きつらせながら、壁や床のシミが気になるかのように振る舞っている。つい先程まで喧騒に包まれていた廊下や教室の周辺が打って変わって沈黙し、やがて誰一人として言葉を発しない異様な空間と化した。
年端のいかない子供らが無言で立ちすくむ中、謎の日本人を引き連れてやってきた眼鏡の少年戦士は、極めて無遠慮に彼ら一人ひとりの顔を覗き込んでいった。まるで博物館の蝋人形を不思議そうに覗き込む修学旅行生のようだ。人探しでもしているのだろうか。
自身の行動に眉をひそめている日本人少年を見て、ニャファドはくすくすと笑った。
「トレイキー、こいつらも14歳になれば自立した大人としてキアモ・シンバを出ていかなきゃならない。働かなければならないんだ。ところが、こいつらウヂュメポコは頭も悪いし、体も弱い。そんなヤツらの行く末を想像できるかい?」
率直すぎる話題に寅清は口をつぐんだ。学校が楽しい盛りの彼にとって、学業を修了した後のことなど現実感のない遠い未来の話でしかなく、そのようなことを真剣に考える機会もない。そして、それはこのエベレレ・クランのキャンプに生きるウヂュメポコの子供らも同じだ。
子供には有り余る時間がある。それはしばしば『可能性』などと表現されることもある。隣のヤツに成績で負けていても、クラスのリーダー格のアイツより身体が弱くても、時間だけは平等に与えられているはずだから、本気になればいつでも努力して挽回できる。だから、今日のところは楽しいことをして遊ぼう。
そう思っている内に、否…そう思った時にはもう強者と弱者の選別は終わっている。一日の終わりに三割の力を残したまま眠る者は、全生涯で七割の力しか出せぬままに、その一度きりの生を終えるのだ…。
彼らウヂュメポコの将来がどうなるか。ニャファドが何を云わんとするか気づかないほど鈍感ではないものの、キアモ・シンバを超える「天国」に生まれ育った人間として、それを口にすることは憚られる。寅清は目を伏せた。それが回答のようなものではあるが。
「ここに残って特定の戦士に仕える奴もいるが、大半の者は自由を求めて都市部へと出稼ぎに行く。でもまともな仕事にありつけるのはごく一部だ、失業率の高いこの国には、戸籍すらないドゥベドゥベ人を雇えるほどの余裕はないんだよ。結果、路上暮らしをする者や悪事に手を染める者だって出てくる。見ろよ、こいつらの中には大悪党の卵がいるかもしれないぜ」
ニャファドがウヂュメポコらを指差した。本人らを前にしてよく言うよ、と寅清は呆れる他なかった。言われ放題のガキどももビビってないでガツンと言い返してやればいいのに。
そう思った寅清は、彼らの伏し目がちな視線が自分に集中していることに今更気づいた。この視線に込められた感情は怒りか恨みか?いや、恐怖かも知れない。ビビられるのは何となく気持ちいいのだが、恐れる相手を間違えてないか?
その時、寅清は自分の手に握られていたものを思い出した。旧ソ連の軍用拳銃トカレフ──のデッドコピー品──である。なぁんだ、これにビビっていたのか。寅清は乾いた笑いを漏らした。ニャファドが知らぬ間に自分を護衛替わりに使っていたのである、笑う他ない。
拳銃を身体のどこかに隠そうと奮闘している寅清を尻目に、ニャファドは歩みを遅くし、何かを見つけた様子で、遂には止まった。目立たないよう窓の外に顔を向けていた一人のウヂュメポコ少年を認めると、彼の目の前に立ったのである。
戸惑う少年に、ニャファドは「素敵なヘアスタイルだね」と言った。頭部の左半分から伸びた三本の長い三つ編みが、三段のサークレットとなって、剃り上げられた右頭部を彩っている。斬新すぎるヘアスタイルは時に厄介事を自ら呼び寄せてしまうこともあるだろう。彼らの周囲から他のウヂュメポコらが無言で遠ざかっていった。
「君だな」
「な、なにがだよ…?」
蛇に睨まれた蛙となったウヂュメポコ少年は戸惑いつつも、戦士に白々しくへつらおうとはしなかった。なかなかに神経が図太いことが見て取れる。相手は東ア南部一帯を武力で支配するドゥベドゥベ戦士の子であり、彼らに話し掛けられた者は普通、敵意のない証として気弱な表情を浮かべるものなのだ。
ドゥベドゥベ戦士の思想『ハチャナ』では、強者を前にして己の無力を嘆く者を「弱者」と定めている。いささか婉曲した表現ではあるが、これは通常、いかに非力であっても自己を憐れみさえしなければ強者になり得るという訓戒と解釈される。ニャファドは、この切れ長の目をしたウヂュメポコ少年に何かを確信した様子を見せた。
「君さ、僕らと一緒に散歩でもしないか。誰も来ない、静かな場所まで」
十二歳の少年が口にする言葉にしては随分と含みのある、ねちっこい物言いである。ニャファドに限らず、戦士そのものがこのように持って回った言い回しを好む傾向があった。
「あんたらの『呼び出し』を断ったらどうなるかは十分知ってるさ。ただ、こっちはあんたが思ってるほど能天気で暇を持て余しているわけじゃないんでね、用事ならなるべく手短に頼むよ」
こちらもまた年齢に不相応な言い回しで、変わった頭の少年が応えた。冷たい視線をニャファドと寅清に向けている。特に、外国人のくせに自分たちを拳銃で威嚇しようとしている若い東洋人には一際冷たい視線を送っていた。
「そんなに長くはならないから心配しなくていいよ、”ドゥカティ”」
ニャファドが唐突にイタリアのバイクメーカーの名を口にすると、ウヂュメポコ少年の表情に一瞬だけ緊張の色が走った。
注1:その『ウヂュメポコ』ですら、他人種に比べれば壮健で大柄である。