表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
赤い地平線  作者: 原島としはる
10/23

柔道 -Djapondu Wrestling-

2018年の他殺による死亡者数は19,331人、合計特殊出生率(TFR)は6.0

──『東アフリカ共和国犯罪統計調査(2019年)』──

 嘉納治五郎によって講道館が日本に創設されてから120年、その武道の精神は世界の隅々にまで浸透し、数多の修練者を生み出した。中には我こそが歴代で最強の柔道家であると吹聴する大胆不敵な者もいただろう。そのような烈士たちが一世紀以上も技を競い合いながら、組織分裂の末に『柔道』を冠する亜流武術をほとんど生み出さなかったことは奇跡というしかない。


「戦士長、レフェリーはアンタがやってくれ」

「任せてもらおう」


 クチャリンコはふんどし姿のまま、柔道場中央へと歩み出た。そのカジュアルな出で立ちに柔道着姿の戦士らが何もリアクションしないところを見ると、何かアクシデントがあってあの格好なのではなく、普段からあの格好なんだなと清範は思った。


「両者、ジュードーの創始者、ケイノー氏に恥じぬよう勇敢に闘うがいい。始め!」


 初めて柔道のレフェリーというものを引き受けたクチャリンコが開始の号令を掛けた。瞬間、ベケマンチの岩石のような肉体はネコ科の動物のように跳躍し、丸太のような腕を伸ばすと、乱取りの相手である清範の左頬に右フックをめり込ませた。

 武道家にあるまじき不意を突かれた清範は体勢を立て直す暇さえ与えられず、返す左フックから髪の毛を掴んでの膝蹴りをみぞおちに喰らってしまい、そのまま無様に畳にうずくまってしまった。


「ベケマンチの技あり!」


 クチャリンコの技あり宣告にも清範は運が良かったなと安堵した。技ありならば一本で取り返せる。この審判は色々な意味で柔道にはそれほど詳しくないのだろう。ならばそれをチャンスとしなければならない。劣勢な時こそ、その人間の地力が試される。


 清範はよたつきながらも立ち上がり、相手を見据えた。あの筋肉バケモノを畳に沈めてやる。だが、依然、闘志に満ちた肉体に反して、その理性はしきりに降伏するよう清範に誘い掛けていた。


 理解を越える異常事態が起きると、脳は「恐怖」と呼ばれる感情を引き起こす。恐怖は考えつく限り最悪のシナリオを宿主に吹き込み、宿主の手脚を震わせて戦闘力を抑制するだろう。戦闘継続を断念させ、肉体を未知なる脅威から遠ざけるためだ。


 清範の心をそのように萎縮せしめた想定外の事態とは、極めて単純なものだった。


──打撃の威力がヤバすぎる。


 柔道は健全な競技として発展してきたスポーツである。しかしその修得者にとって、自分たちが努力の末に獲得してきた技術は、しょせん柔道の試合で勝つためのゲームテクニックでしかなく、本気で自分たちに危害を加えようとする相手に対しては無力である、などという考え方は到底受け入れられるものではない。彼らはいつでもこう考えるのである──柔道はボクシングよりも強い、柔道はK-1よりも強い──と。


 そんな世間知らずの傲慢さが「柔道は強いのだ」という根拠のないバイアスを生み、技に独善性と閉鎖性という毒を注入していく。それこそが彼らに驕心と壊滅的結果をもたらす「武の自己免疫疾患」の一因となっていることは皮肉と言うしかない。


「どうちたの?もっとぼくと遊んでよ」


 ベケマンチが幼児語で清範を煽り立てた。まさか柔道の試合で開始の合図と同時にいきなり殴り掛かってくるとは、さすがの清範も予想できなかった。殴られた部分の痛みはそれほどでもないのだが、精神への威力は絶大である。魂が肉体から弾き出されたような感覚だった。


──嫌になるなァ、全く。


 清範はベケマンチに対峙しながら、しみじみと思った。あの筋肉から繰り出された力任せの素人パンチは、部活でふざけて『山嵐』を受けた時に顔面から床に落ちた時の倍以上の威力だ。柔道の最も危険な技よりも、ただのパンチの方が痛いなんて柔道ってやっぱり弱いのかな。清範はここへ来て弱気な考えに屈しかけた。


──違う、痛みなんてどうでもいいんだ。相手を痛めつけることが武道の目的ではない。


 武道の技などというものは相手を制圧できるだけの効力があれば、技そのものには何も瑕疵はないのである。


「俺が使いこなせてないだけだ──柔道技の数々を」


 彼らドゥベドゥベ人の柔道は日本のものと若干ルールが異なるのだろう。日本とフランスの柔道、警察と実業団の柔道、清範の母校と修克中の柔道…それぞれが異なってはいるのに、どれも同じ柔道である。ドゥベドゥベ族柔道もまた同じだ。彼らの柔道は少し実践的で暴力的。警戒すべきは右フックか、それともパチキか?


 だが、柔道のような個人種目でグループ全体の相違点にばかり目を向け過ぎると足元を掬われる。見るべきは対戦相手──ベケマンチという、見るからにヤバそうな外見のオニイサン──である。


「さあ、人質のボクちゃん。僕を投げてごらん」


 ベケマンチはニコリともせず言うと、肩をいからせながらのしのしと清範に歩み寄った。さあ、君が大好きな柔道を楽しもう、と言わんばかりに、両手で彼の胸ぐらをゆっくりと掴んだ。ベンチプレス380kgを挙げるパワーモンスターが渾身の力を込めた釣り手である。清範の如き少年の未熟な筋肉ではびくともしない。その力の差を見せつける為のパフォーマンスであることは明白だった。仲間の柔道戦士らの表情にも人質少年への憐れみの色がありありと浮かんだ。


 その瞬間、ベケマンチの165kgの肉体が宙に浮き上がり、上下反転した。


「何だとっ!?」


 自慢の膂力で清範の両襟を捕えたまま、ベケマンチは突如として無重力状態に投げ出され、何が起きたか認識する間もなく広背筋から畳に落下した。未だ鳴り響いたことのない大きな衝撃音が柔道場全体に響き渡る。他の柔道戦士たちは声も出ない。


 俺が投げられただと!?そんな馬鹿なとベケマンチが畳から身体を引き起こそうとした時、呼吸ができなくなっている事に気づいた。今度は彼が巨大な身体を丸めて畳にうずくまる番だった。妙に口の中が不味いと思ったら、大量の黄色い胃液を吐き出していた。


「トモエ投げ!キヨヌリの一本!それまでッ!」


 道場が静まり返る中、クチャリンコが清範の右手を取ってキヨヌリの勝利を告げた。清範は未だかつて英語圏の人間が自分の名前をしっかり発音できたところを見たことがない。


──この人、俺が巴投げすることに気づいてたな。


 清範は自分の右腕を取って高く挙げている、でっかい審判を見上げた。ベケマンチの重心を後ろに崩そうとした時、清範の背後にいたクチャリンコが慌てて横に跳んで避けたのである。

 得体の知れない男だ、そう思って複雑な表情を浮かべている清範に、クチャリンコは小柄な女性一人分の背丈ほどもある腕を組んだ。


「うむ、しかし日本のジュードーでは膝蹴りやパンチがOKなんだな。さすがは柔道発祥の国だ」しみじみと言うと、戦士長は表情を曇らせた。「それはそれとして、柔道場の使用料として一日5ドルを支払って貰わなければならないのだが…」


 もう何から突っ込めばよいのか、清範にはわからなかった。


「待て!」

 ベケマンチが横隔膜を押さえながらクチャリンコに顔を向けた。


「戦士長、納得いかねぇ。こんな小僧にまぐれ勝ちされてそのまま逃げられちゃ、俺は笑い者だ」


 長い時を掛けて磨き抜かれた技は、常人には理解できない高みに到達する。それを受けた者は時として、ただ運によってのみ敗北したのだと錯覚することも珍しくはない。


「誰が逃げるかいっ!」

 血気に逸る清範を、クチャリンコが手で制した。


「キヨヌリはお前が余裕綽々で突っ張った腕に全体重をかけて体勢を崩した。前のめりになったお前の腹を両脚で蹴り上げ、お前は一回転し、背中から落ちた。全部お前が悪い。もしあれがキヨヌリのまぐれ勝ちなら、お前は畳にストマックスープを吐き出すこともあるまいて」そう言うと、クチャリンコは神妙な面持ちで腕を組んだ。「畳の清掃料金として50ドル頂こう」


「だったら俺の実力負けでいい。50ドルも後で払う。だが再試合を認めてくれ。このままでは俺は”終わる”」


 懇願するベケマンチと、金が先だと譲らないクチャリンコを見かねて清範も割って入った。


「戦士長さん、俺からも頼む!再試合をやらせてくれ。俺は彼に俺の"柔道"が本当に通じるのか知りたいんだ。彼に敬意を払い、彼に礼儀を尽くし、そしてブン投げる!」

「口の減らないガキめ!だったら俺だって正々堂々やってやるよ!制限時間なんていらねぇ、一本先取でどうだ、小僧!」

「うむ、では負けたヤツが清掃料金60ドル全額支払うというのはどうだ?勝負にも力が入り、面白かろう」


 三者協議の結果、どちらが清掃費の70ドルを支払うかの賭け試合という形で再戦が行われることになった。冷静でいられる者が最終的に得をするという良い例である。


「両者、心ゆくまで技を尽くし合うがいい。始めッ!」


 戦士長の号令が掛かるや否や、ベケマンチが顔面をガードで固めながら拳を握ってにじり寄ってきたため、清範はさすがに怒りを覚えて、このギャングのような男を一喝した。


「試合してくれる相手に対して『お願いします』の一言も言えないのか!」

「るせえ!これから殺そうって相手に何をお願いすんだッ!」

 ベケマンチは清範の股間を狙って後ろ脚を蹴り上げてきた。が、何かしらの奇襲を警戒していた清範は後ろ足を一歩引いただけでそれを躱した。空振りしたベケマンチの蹴脚が虚しくびよよよよんとゴム棒のようにしなっていた。


「むぅ…」


 クチャリンコが唸った。ベケマンチのあからさまな金的攻撃に対してではなく、清範の安定した体幹にである。他の柔道着戦士たちは清範の反射速度にどよめいたが、それが身体能力ではなく技術の賜物であると知っていたのは、その場にいる者の中ではクチャリンコ一人だけだった。


 奇襲を封じられた当のベケマンチはかなり焦っていた。股間蹴りが失敗するなど柔道でなくとも物笑いの種である。彼のような見せかけを重視する人々にとっては実際、勝負に負けることよりも周りからのリスペクトを失うことの方が怖いのだ。

 だが、真剣勝負の最中にそんなことを気にする半端者が、人間の限界を超えた集中力を持つ相手に対峙して、隙を隠し通せるはずはない。事実、清範は既に致命的な弱点を相手に見出していた。


 ベケマンチの額から滝のような汗がしたたり落ちる。それはいつものようなアナボリック・ステロイドの過剰投与によるものではない。いつ攻撃に踏み切るのか一切読めない清範の表情や足捌きにベケマンチの精神は八方塞がりに陥っていたのである。

 彼の柔道はどっしりと構えて相手を威圧しながらミスを待つスタイルだが、相手はどんなに移動しても重心が崩れない。これではいつまで待っても攻撃のイニシアティブが彼の手に渡ってこない。摺り足の一歩一歩ですら清範のそれは膨大な時間を費やして磨き抜かれた「技」であり、それを読める者がいるならば、同じく「技」を修得した者以外にあり得ない。クチャリンコは膠着状態の続く二人に消極的指導を与えはしなかった。


 巧者と対峙した時に感じる手詰まり感。ベケマンチの精神は、芸術的なまでに洗練された技を前に降伏の白旗をちらつかせていた。彼は、その気弱な心を筋肉で強制的に駆り立てた。


──お前が本物なら躱してみやがれ!俺の徹甲重筋肉、バルクエネルギー・フルチャージ!


 意を決したベケマンチが清範の奥襟を取ると、相手の上半身を怪力で抱え込み、左に振った。清範の頭蓋骨が万力のようなパワーで砕けそうになる。ベケマンチは雄々しく叫んだ。


「行くぞ!徹甲重筋肉、大外刈り!!!」


 巨大惑星が彗星にぶつかればひとたまりもない。ベケマンチの巨躯が軽量な清範の肉体を押し潰していく。惑星ベケマンチの巨大質量によって彼の組み手には重力が発生しており、小惑星『きよのり』の上半身は大きくスイングバイした。


 遂にこのクソガキの重心を崩してやったぞ!あとは300kgを押し上げられるこの豪脚でこのガキの身体を根こそぎ刈り取ってやる!ベケマンチは300kgのフルパワーで脚を突き出した。


 その時、ベケマンチは己の重大な過失に気が付いた。いや、相手が清範だからこそ問題の重大性が明るみに出たとも言える。


──刈脚を返す瞬間だけは、どんな巨大なパワーでもゼロになる!


 ベケマンチの背筋に冷たいものが走り、重筋肉が硬直する。懸念は現実となった。刈脚を返す瞬間、300kgのパワーで突き出した脚が振り子のように端で停止した。力の入っていない筋肉など贅肉と変わらない。清範は最初からそこを狙っていた。

 相手の全ての力が失われる、その僅かな一瞬を待って、清範が刈脚を逆に刈り取った。技なき力など清範の敵ではなかった。


 ベケマンチの肉体がその場で後ろにひっくり返った。畳が割れるほどの受け身は、彼の徹甲重筋肉に魚雷が炸裂したかのような衝撃音を道場に響かせた。


「大外返し!見事な一本だ!…大丈夫か?お前」


 クチャリンコが畳で呆然としたまま天井を眺めているベケマンチを心配げに覗き込んだ。

 力が技に負けた。人生の全てをパワーに捧げてきたベケマンチにとって、この敗北はただ柔道の試合で負けたということ以上の意味を持っていた。

「ところで、徹甲重筋肉(Armor-piercing heavy muscle)とは何のことだ?」

 クチャリンコの質問に、追い打ちはやめろと清範や柔道戦士らが顔を伏せた。




 借りた柔道着は洗って返そうとしたが、ベケマンチはいらないの一点張りで、清範は自分の身代金で道着を買い取った。ベケマンチに金が渡るかどうかは送金役のクチャリンコ次第である。もっとも、ベケマンチは道着代もいらないと言っていたが。

 他人の道着を着るのはあまり気分のいい行為ではないが、更衣室のロッカーを開け放った瞬間、元々自分が着ていたTシャツの方が臭かったことに初めて気がついた。そういえばこのシャツ、例の汚水場の空気がたっぷり染み込んでたんだよな…。


 清範は買い取った柔道着を背中に担ぎ、クチャリンコらのいる柔道場へと戻った。清範の筋骨隆々とした上半身はむき出しのままであった。

「シャツは捨てた」

「思考が我々に似てきたな」


 クチャリンコが柔道戦士らを見渡してから道場を退出すると、清範も一礼してそれに続こうとした。だが、清範は三人の柔道戦士らから離れて一人ベンチプレス台に腰掛けているベケマンチに近づき、握手の手を差し出した。この男は巴投げで敗れてから自ら再試合を申し出てきた。柔道に掛ける情熱は本物だった。


「ありがとうございました、本当に勉強になりました。もし良ければまた試合しましょう」

 本気で技を競った者同士が健闘を讃え合う。清範の知る世界では、それで全てが終わるはずだった。徹甲重戦士は力なく首を上げた。

「いい試合だったな。だが、もう俺に構うな。あっちへ行け」


 ここは力による均衡的調和を尊ぶ世界であり、争いを避けるための表面的な調和などは存在しなかった。あるのは強者と弱者のヒエラルキーによる秩序のみである。戦争の敗者は勝者に友情など感じるはずもなく、また勝者は敗者の復讐を常に警戒しなければならない。清範らが育った世界とはあまりに異質な世界である。


 ドゥベドゥベ族優生思想のカリスマ論客である戦士シュツゲロのドラ息子が、15歳の日本人少年に無様に敗北したという醜聞を止める事はもはや敵わない。柔道着に身を包んだ他の三名の戦士たちがベケマンチに向ける視線は想像以上に冷たいものだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ