悪 -nwemba-
「神の国より、カナズラ族への我々からのミレニアム・プレゼントだ」
──戦士シュツゲロ: ドゥベドゥベ民族自治戦線(DEAF)野戦司令官
西暦二〇〇〇年、人類の長い歴史の中で千年紀という節目を迎えられる者はそう多くない。それはただ暦の起算点をどこに置くかでキリのいい数字になるというだけのことなのに、人々はニュー・ミレニアムの到来という珍事に、言い様のない高揚感を感じていた。
東アフリカ共和国(REA)の首都セントラルタウンの市民も例外ではない。ナザレに神の子が誕生してから「太陽が地球の周りを」二千周もしたのだ。神が何らかの恩寵をもたらしてくれるだろうという淡い期待を信心深い人々が抱くのも無理はない。
同市の南北を隔てるアグンバ大通りには、そんな神の奇跡を信じて浮かれ騒ぐ市民たちが練り歩いていた。それぞれ手に思い思いの楽器を持ち、不調和な音楽を奏でている。楽器を持たぬ者はそこらに落ちている棒で壁や電柱を打楽器に見立てて鈍い打音を響かせていた。
日頃から熱心に教会に通い詰めているというペトラ・チャポラマンボさんは語る。
「二千年という節目に神様が何もなさらないはずがないじゃないの。きっとイエス様が復活して私たちをお導き給うに違いないわ」
イエス様への願いはありますか?という問い掛けに対して、チャポラマンボさんは笑って答えた。
──決まってるじゃない。ドゥベドゥベ族を皆殺しにしてもらうのよ。
近頃ダンスを習い始めたというチャポラマンボさんは、現地に伝わる伝統的な踊りを周囲に披露すると、宴に熱狂する群衆の中に消えていった。
同じ出来事に対して異なる境遇をもつ人々にも目を向けてみよう。たまたま同じ時期に、同じ都市に居合わせた二人の日本人少年である。
『ニュー・セントラルタウンホテル』の二一階スイートルームからミレニアムフェスティバルに浮かれる下界を見下ろす少年、寅清の眼差しは物憂げで諦観した色さえ伺えた。そんな弟の様子を見て、兄である清範が床に寝そべりながら言った。
「寅清、父のことなら心配いらない。この国の外国公館区は軍の厳重な警備下にある。外国人の身に万が一にも危険が及ばぬよう東アフリカ軍の人々が守って下さっているんだ」
その抑揚のないぶっきらぼうな口振りとは裏腹に、この十五歳の少年も内心では父の安否を思って気が気でないことが態度に出ていた。床に寝そべりながらベッドに両脚を乗せて腹直筋を鍛え上げている。そわそわしている時には精神を落ち着かせる為か、無意識的に筋力トレーニングを行う癖がこの少年にはあった。
兄に首を向けると、寅清が言った。
「俺たちが東アフリカ国際空港に到着したその日に英国大使館近くで銃撃戦騒ぎが起きたんだぞ。父さんも言ってたろ、この国は今世界で一番危険だから来るなって」
彼らの父・和夫は確かにそう言った。和夫は東アフリカ共和国(REA)の母語であるブニャ語の専門家として日本大使館に招かれている。
日本国と東アフリカ共和国の国交樹立より一五年、今後さらなる関係の深化を願って、今日は日本大使館でレセプションが行われている。著名な書道の先生を京都から招くなど、なかなかに趣向を凝らしたものであるらしい。
今頃は在REA日本大使館・大黒芳和公使(53)と、REA大統領ンナミア・モンガラ氏(44)との間で両国の友好関係が改めて確認されるとともに、インフラや教育環境の整備および開発支援について話を進めている頃だろう。
モンガラ大統領は国家予算の8割を着服するという前代未聞の汚職容疑で世界的に悪名高い人物である。支援金の一部、または全てがファーストレディであるプーワ氏の秘密口座へ入金されると知りつつ、その交渉の仲介を行うのが和夫の本日の任務となる。責任重大にして薄給、おまけにきわめて危険な職場である。
東アフリカ共和国──旧名ブニャニア王国は年中焼け付くような気候や、不安定な物価もさることながら、近年急激に悪化した治安情勢も相まって、外交官の赴任先としては最も不人気な国の一つとして知られる。懲罰人事とも囁かれる大黒氏の投げやりな勤務態度はすこぶる評判が悪く、彼の理不尽なパワハラに耐えることも大使館員たちが転職を考える理由の一つとなっていた。
和夫は、冬休みを返上して自分に会いに来ようとする二人の息子たちに「来るな」と言い放った。だが怖いもの知らずの中学生らは必死に頼み込んで無理やり承諾させた。来るなと言われれば行きたくなる、まさに命懸けの反抗期であった。
「なあ清範、アフリカって太陽が二つあるのか?」
二一階の巨大な窓から遠くを眺めていた寅清が、兄に尋ねた。
「なに言ってんだ」
兄は身体を起こすと、窓際に立つ弟の横に並んだ。弟も年齢にしては大柄だが、兄はそれに輪をかけて背が高かった。
「ホントだ、夕日が二つある。どうりで暑いわけだ」
太陽が地平線に沈みつつあるのに対して、南の遠くにうっすらと見える真っ赤な明かりは先程から微動だにしない。赤い太陽がアフリカの地平線を怪しく照らしていた。
「すげー」とだけ言うと清範は再び同位置に戻って床に寝転がり、腹直筋を鍛え始めた。兄にとっては太陽の数など最もどうでもいい事の一つだった。
西日を放つ太陽が地平線に沈んでいくとオレンジ色の大空は一気に青味を増していき、間もなく辺り一帯が真っ黒になった。それでもアグンバ大通りには祝祭に浮かれる人々を照らす眩い光がダイヤモンドのようにきらきらと輝いていた。
清範たちのいるホテルは東アフリカ共和国の中でも最も高い建造物の一つで、周囲に林立するビル群の頭上からその向こうに拡がる住宅街の生活感溢れる様子まで一望することができる。人の住む領域の先には、ただ暗黒だけが存在し、禽獣の類がさまよう弱肉強食の世界。そして、その遥か先に地平線を赤黒く染める禍々しい光が揺らめいていた。
あの赤い光はこの星の流す血のようであり、死そのものが具現化したもののようにも見える。我々は知らず知らずの内にあの死に向かって一歩また一歩と近づいているのだ…。
そんなことを考えていると寅清は不意に恐ろしくなり、人々の行き交う賑やかな市街地に慌てて視線を戻した。
外はお祭りで賑わっているというのに、一七時間ものフライトに耐えた結果、こんな狭い部屋にむさ苦しい兄と共に軟禁され、あの怪しげな光を眺めるだけ。一三歳の少年にとって退屈とは何よりも苦痛で耐え難く、不健康な考えに囚われる要因でもあった。
「明日は早朝からサファリに行くんだ。暇ならもう寝とけよ」
清範が言うと、寅清はため息をついた。
「今はホテルでお祭りを眺めるだけ、明日はジープから動物を眺めるだけ…」
寅清が窓ガラスに額を押し当てて、力なく言った。
「旅行なんてそんなもんだろ。名所に行ったという証拠の記念撮影、現地の人との薄っぺらいコミュニケーション、大して美味くもねえメシ、喜ばれもしないのに買わなきゃならねえ土産」
兄が何度も上半身を起こしながら言った。退屈しているのは彼も同じである。
「世界で一番危険な国に来たのに、安全なとこにずっといたんじゃ家にいるのと変わらねえじゃん。サファリなんて日本にもあるし」
「ドゥベドゥベ族の集落で"戦士"たちと一緒に歌って踊って狩りをするツアーもあるってよ」
「そんなの絶対つまんねぇよ。どうせ他の外人客と一緒にわけのわからねえダンス見せられて記念撮影して、終わりだ」
やたらと悲観的な弟に、兄は苦笑するしかなかった。
「じゃあ、その部族の一番強そうなヤツに喧嘩吹っ掛けてやるってのはどうだ?」
兄の提案に弟は一転して目を輝かせた。
「それ、絶対面白い。清範なら余裕で勝てるしな」
清範はつい最近、全国中学校柔道大会の90kg超級で優勝をかっさらい、将来のオリンピック出場は確実と目されている。来年四月には強豪校である神勝学園の柔道部に入部することも決定している。それだけに彼は身近な柔道関係者の他には畏れるものが何もない状態であり、時に礼を失する行為を敢えてすることもあった。
「ドゥベドゥベ族の戦士はライオンを槍で倒すんだってよ」
清範が思い出したように言った。
「寝てるライオンにそーっと近づいて一気にグサッとやるんだろ?そんなの俺だってできるし」
弟が鼻で笑った。
「じゃあお前、ライオンの役をやれ。俺は部族の人の前で、お前にケツを噛まれながら逃げ惑うドゥベドゥベ族戦士の真似をするから」
「ははは!さすがにそこまでされたらめちゃくちゃ怒るだろうな」
寅清が腹を抱えて笑った。旅先でのストレスが積み重なったせいか、お互い少し思考が好戦的になっていた。
「父さんも、怒るかな?」
「怒るに決まってるじゃん」
兄弟は部族や父の反応を頭の中で想像すると、顔を見合わせて声なく笑った。
「父さん、無事かな…」
「どうだろうな…」
寅清は父のいる日本大使館「ぽい」建物に目を凝らした。当てずっぽうである。そこは裁判所や検察庁などの司法機関が集中するエリアであり、外国公館エリアは彼らの部屋からは見えない場所に位置している。
今年の年末は例年と異なり、人通りの少ない司法機関エリアにも大勢の人々が練り歩いている。あれだけ人がいれば安全に違いない。人がたくさんいるというのはいつでも心強いものだ。それがポジティブなエネルギーに溢れた人々であるなら尚更に。父の安否などあまり心配する必要もなさそうだ。そんな何の根拠もない予想に安心して、寅清が視線をそこから外そうとした瞬間だった。
検察庁舎の前に停まっていた自動車が急に膨れ上がり、建物より大きな炎がゆっくりと上昇して、消えた。一秒ほど遅れて、地鳴りのような大きな音が客室にも届いてきた。現場の声は届かないが、同じ階にいる宿泊客の叫び声は寅清らにもよく聞こえた。
「な、なんだ今の音は?」
清範が慌てて床から飛び起きると、窓際へ駆け寄った。
「く、車がバクハツした!」
寅清が今見たことを兄に伝えた。検察庁の辺りはもはや黒煙と夕闇で何も見えない状態になっている。日本ではまず見ることのない、殺しを目的とした暴力行為を初めて目の当たりにした寅清は、今までの暖かい世界から弾き出されたような孤独感と心細さを感じた。
「大使館の近くか!?」
「わからない…」
「どけ!」
清範はショックを受けている寅清を押しのけて自ら確認しようとした。だが、やはり兄にも何も見えず、父が無事かどうか知ることはできない。
アグンバ通りの人々の動きが慌ただしくなった。大半の市民が今の大きな音は自動車爆弾テロによるものだとわかっているらしく、誰もが注意深く耳を澄まして、自分がこれからどうすべきか、自分の命が懸かった判断を慎重に下そうとしていた。判断を一歩間違えれば、二度と家族に会えなくなる。路肩に停まっている車両の周囲からは自然と人々が離れていった。
「大変なことになったな…」
清範が呟いた。しかし、その表情には差し迫った緊張感はなかった。確かに一大事ではある。だが一方で心のどこかに、この惨劇は自分たちにはあまり関係のない出来事だと高を括っている部分もある。自動車の破片や爆風で死亡した人々の中にまさか父がいるはずがないだろう。同様に、この安全な場所にいる限り、自分がテロの被害者になる可能性もないのである。
「とにかくここにいれば安全だ。父さんが帰ってくるまでじっとしていよう」
「さっきの爆発で父さんが死んでたらどうすんだよ?」
取り乱した弟に兄は努めて冷静に言った。
「いいか、父さんは今日誰と一緒にいたか思い出せ。この国の大統領だぞ。それこそ近づくことすら不可能なほど厳重な警備の中にいるんだよ。父さんは無事だ」
弟を落ち着かせる為の口上だが、清範自身も嘘を言ったつもりはない。そう。何も心配することはないのだ。
そんな清範の言葉を否定するかのように、今度は乾いた炸裂音が一斉にセントラルタウン中に轟いた。清範は慌ててアグンバ通りに視線を向けた。悪夢はまだ続いていたのである。
「あいつら、人を撃ってる…」
清範が唖然として言った。寅清は魂が抜けたように地上の暴力を眺めていた。銃声は鳴り止む様子がない。
ピックアップトラックの荷台に備え付けられたマシンガンを乱射する者。暗闇の中、マズルフラッシュがあちこちでちかちかと点滅すると、逃げ惑う人々が一人、また一人と倒れていった。
清範は全身の血が沸騰するような感覚に包まれた。しかしどうすることもできない。もしあの場にいたとして自分に何ができよう。今、自分にできることと言えば、一刻も早く犯人たちが満足して、立ち去ってくれるよう望むことだけだった。屈辱的である。「悪」に対して慈悲を乞うというのか。
「あいつら、許せん…」
二人の少年の心はたった五分間の出来事で歪に変化した──もう元の形には戻れないほどに。
兄弟のうち、片方は蒼白の、もう片方は紅潮した顔を真下に向けて拳を震わせている。寅清はテロリストを、清範はテロリストを止められなかった治安部隊と自分の無力さを、それぞれ憎んだ。