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叶えたかった捕虜の恋

作者: 立花翠乃

「どんなに苦難が待ち受けていようと、貫きたい愛に背を向けてはいけないよ。逃げてはいけない。都合よく解釈してはいけない。失ってからでは、どうにもならない想いは(おり)となるから」




愛する人を想い続け、その存在を探し続けた男の60年の話。





***




男は、かの戦争で捕虜となった。


極寒の地で、明日をも知れぬ日々を送る毎日。


言葉も分からぬ敵兵から向けられる嘲りの視線や蔑んでいるであろう異国語。


ある者は餓死、ある者は体罰死、そしてある者は自害した。


そのいずれかが、明日には…今日にでも己の身にふりかかるかもしれない。


そんな恐怖に怯え、耐えるなか、ひとりの少女と出会う。


その少女と男は、恋に落ちた。


監視の目を掻い潜り、密かに育まれた小さな恋。


ふたりで過ごす僅かな時間は、互いの立場や世界の情勢を忘れさせた。


言葉は通じなくとも、確かに芽生えた恋心。


最初はただ言葉を交わすだけ。


なんとか知り得た彼女の名前を、愛おしそうに口にする。


少しずつ距離が近付き、手を握り、口付けて…やがて体を重ねた。


愛し合う者同士に言葉はいらない。


必要なのは、互いが互いを愛しているという態度と行動。


小さく灯っていた感情は、やがて大きな灯火となっていく。


本来なら許されないであろう関係に、何度も引き返すこと、手放すことを理性で抑え込もうとしたけれど、芽生え、育つ感情を振り払うことなど出来なかった。



少しずつ鎮静化する戦況下、男はその地に留まることを決意する。


絶望しかなかった日々に光と希望をくれた少女の傍で、残りの人生を送りたいと思っていた。


けれど下されたのは母国への帰還。


戦友の遺品を家族へ届ける命を受けることとなった。


断ることも、逃げ出すことも出来たかもしれない。


けれどそれをしなかったのは、自分に愛する人が出来たから。


戦友は「妻と息子が待っている」と言っていた。


必ず生きて帰るんだ、と。


けれど儚く散ってしまったその最期を、自分が直接伝えてやりたかった。



「最期まで、彼はあなたたちを愛していた」



その事を、誰よりも親しかった自分が伝えたかった。


カタコトまで上達した言葉で、己の希望となってくれた存在に向き合う。



「必ず戻るから、その時は俺と結婚してほしい。愛してる」



その言葉に少女は涙を流し、寂しそうに、けれど笑いながら頷いた。



何度も口付け、愛し合う。


忘れないで。必ずまた会える。


そんな思いを互いに刻みつけ合うように。



「待ってる。必ず戻ってきて」



そう言って渡されたのは、少女のモノクロ写真。


一目惚れをした、大好きな笑顔がそこにはあった。


とんぼ返りとはいかないだろう。


それでも、必ず彼女のもとに戻る。


もしかしたら芽生えているかもしれない命のことも思い、強く抱き締めた。




***




母国に帰還後、戦友の家族のもとへと急いだ。


己の故郷は焼き尽くされ跡形もなかったが、戦友の家族は無事と聞いた。


自分には家族も親戚もいなくなったこの国だけれど、あの地に戻れば新しく家庭を築くことが出来る。


逸る気持ちを抑え、戦友の家族のもとへと急ぐ。






「……ありがとうございました」



幼い子供とふたり、憔悴した戦友の妻。


その姿に、残してきた愛しい存在が重なった。


早く戻ってやらなければ…そう思うも、簡単にはいかない現実がある。


簡単に海外に渡ることは許されず、まず渡航費もない。


故郷は焼き尽くされており、頼れる親戚もないなか、薄情と思われても早くその場を辞して生活の基盤を作るために行動せねばならない。


その機微に気付いたのか、戦友の妻から声がかかる。



「…暫くはこちらでお休みになってください」



それは、亡き夫の遺品を届けてくれた事への純粋な感謝。


故郷も家族もなくした男に、せめてと与えた温情。



「…ありがとうございます」



そして、生活の基盤が出来るまでの居候が始まった。




***




「また婚約者の方の写真を見てるんですか?」


「はい。自分の帰りを待ってくれていますから…早く会いたい」



戦友の妻は、男の笑みに『羨ましい』と思った。


過酷であった場所で密かに育まれた愛。


肌身離さず持ち歩くモノクロ写真を、これ以上なく大切にする姿。


チラリと目を横に向ければ、そこには今は亡き夫の写真がある。


けれど彼はもういない。


会うことも、抱き合うことも…名を呼ばれることも二度とない。



『必ず生きて戻る…妻と息子のもとに』



夫はそう言っていたと聞いた。


自分と息子のもとへ…必ず生きて戻るのだと。


けれどそれは叶わなかった。


仕方ない…そう納得しなければいけないことは分かっている。


それでも、溢れる寂しさは止めることが出来ない。



「…大丈夫ですか……」


「はい…すみません……」



もう何度、夫を想って泣いただろうか。


もう何度、夫の友に背を撫でられただろうか。



“さ み し い”



その感情が、日に日に膨れ上がる。


なぜ、目の前にいるのが夫ではないのだろう。


なぜ、夫は死ななければならなかったのだろう。


なぜ、慰めてくれるの手は夫のものではないのだろう。




いつものように背を撫でられ、自然と相手の背に手を回す。


何かを期待したわけではない。


それでも、包まれるように抱き締められて嬉しく思った。


夫が戦地へ赴いてから、自分を抱き締めてくれる人はいなくなり、まだ幼い息子を抱き締めるだけだった日々。


夫の友には、結婚を誓った異国の婚約者がいる。


同情から抱き締めてくれたのだと分かっていても、回した手に力を込め、胸に縋りついて嗚咽を漏らすことを止められなかった。



「…………」

「…………」



申し訳なく思い、僅か顔をあげるとぶつかる視線。


少しずつ近づく、近づける顔に、お互い抵抗は微塵もない。




二度と会えない夫を想い、ただその温もりを受け入れる。


私は夫を想うから、あなたは婚約者を想えばいい。



互いに隙間を埋め合おう。




***




「……っ…!!」



やがて訪れた体調の変化。


考えられるのはひとつしかない。


この頃には、寝所を共にすることが当たり前となっており、夜毎求め合う関係となっていた。


幾度となく体を重ねれば、生まれてしまう恋慕。


だがそれは、あくまでも一方的なものだった。


何度体を重ねようと、どれだけ慕う視線を向けようと、男が愛しげに顔を綻ばせるのはモノクロ写真の相手にだけ。


母親としてよりも女として振る舞う姿に幼い息子が嫌悪を示そうと、男への感情が抑えられない。


男は寝所を共にする相手の体調や体型の変化にも気付くことなく、ただ欲求を解消する為だけの行為として続け、やがて明らかに違和感を感じるようになって、漸く事実を知ることになった。



「……すまない」



子を身籠った現実に、男は頭を下げた。


それが意味することはひとつだけ。


男は戦友の妻との間に、なにひとつ築くつもりはなかった。


だが既に子は育っており、産む以外の選択肢はない。


絶望ともとれる顔をする男に感じたのは、【愉悦】。


これでもう、男が離れることはない。


所詮、異国の婚約者など現実的ではなかったのだ。


そう心のうちに独りごち、項垂れる男に視線を向ける。



「……傍に…いてください…」



その言葉に、男は何も答えなかった。




***




婚姻届を提出し、人の夫となった男。


もうあと僅かで生まれてくるであろう我が子に、情はなかった。


己の子を孕み、生むのは異国の婚約者だと思っていた。


けれど現実は、欲に溺れ、それに甘んじたもの。



「…………」



ひとり、モノクロ写真の婚約者に名を呟く。


いくつも掛け持つ日雇いで金を貯め、いずれ許可がおりればすぐにでも向かうつもりでいた。


けれど情勢がそれを許さない。


己の子を身籠る婚約者が待っていると訴えても許されなかった。


本当は、子がいるかどうか分からない。


けれど可能性がないわけではないのだ。


何年でも待つと言ってくれた彼女のもとに戻りたい。


そう涙ながらに、何度も訴えた。


しかし悉く退けられる申請。


その鬱憤を晴らすかのように、傍らの女を掻き抱いた。


向けられる視線の意味に気付いてからも、知らぬふりを貫いた。


その結果、女の腹はいつの間にか膨れ、そこに子がいると言う。


責任をとるかたちで婚姻したものの、戦友の子は養子としなかった。


溢れる愛情からの顛末であれば、互いに望んだかもしれない。


けれど現実はただの欲からおきたもので、幼い息子は男を父と認めず、男もまた、戦友の息子を自身の子とは出来なかった。





***




「おめでとうございます、男の子ですよ」



そう言って手渡された赤子を腕に抱く。


いつの間にか恋慕うようになった男の子供。


けれどその場に男の姿はない。


男は今日も、婚約者のもとに戻るための道筋を探している。



「早く諦めたらいいのにね……」



そう嘆息して、生まれたばかりの我が子に微笑んだ。






赤ん坊を連れて帰っても、生活は変わらなかった。


いや、ひとつだけ。


男が触れてくることがなくなった。


父親として、最低限の責任は取る行動はする。


けれどそれが気に入らない。


生活費として男が稼ぐのはごくごく僅か。


養うべき存在が出来ても、男の優先は婚約者に向けられる。


最小限の日雇いをこなしながら、渡航のための人脈作りに奔走する男。


相変わらずモノクロの写真を持ち続け、子よりも視線を向ける。


それでも、いつかは振り向いてくれるはず。


会えるかも分からない異国の婚約者よりも、生活を共にする自分のほうに、いずれ目を向けてくれるはず。


蜘蛛の糸のような、細く垂らされたものを必死で握っていればいい。




***




やがて、異国の地で起きたとされる騒動が伝わってきた。


婚約者がいるであろう、その地の者が虐殺されたという。


信じがたい情報に、男は狼狽えた。


真実かどうか、確かめる術もない。


ただ無事を祈り、一刻も早く婚約者のもとに戻りたかった。


けれど、僅か入ってくる情報は、徐々に真実味を増していく。



「…………」



元気でいるのだろうか。


生きているのだろうか。


もしも…もしも命絶えていたとしても、その場に行きたい。


自分の命も、彼女の傍で終わらせたい。


視線の先には、必ず戻ると告げた時のままの婚約者の姿。


あれから何年が過ぎたのだろう…


何をどうすればいいのか、もう分からない。



「……食事の支度ができました」



己の子を生んでも尚、他の女を追いかける姿を見続けてきた戦友の…今となっては自分の妻の存在に、少しだけ、心が傾く。


気が付けば、我が子は歩くまでになっている。


そうなるまで、がむしゃらに婚約者だけを追い続けたということ。



「あぁ……今いく……」



もう諦めるべきなのか。


そう思うも、婚約者の笑顔が忘れられない。


けれど、八方塞がりの状態で疲れてしまった。



「…無理しないで……」



そう優しく声をかけられて、温もりを求めた。


どれだけ掻き抱いても埋まらない。


どれだけ愛を囁かれても癒されない。


それでも、その瞬間だけは少しばかり心を誤魔化すことができる。


婚約者に抱くような思いはなくとも、ただ目の前の温もりを求めた。





そして幾つか季節が巡り、男の妻の腹に再び子が宿った。





***




「おじいちゃん、そのひとだぁれ?」



そう問われた男の手には、1枚のモノクロの写真。


己の子には向けられなかった愛しい思いだが、孫には抱いていた。


その愛しい孫に問われ、躊躇いもなく言葉にする。



「この人は、おじいちゃんの愛する人なんだ」



その意味を完全に理解するには幼すぎる孫だが、祖父が常に持ち歩くモノクロ写真は【大切なもの】なのだと分かっている。



「もう、この世にはいないかもしれないけれど…ずっとずっと大切な人なんだよ」


「ふぅん……おばあちゃんじゃなくて?」



真っ直ぐな問いに、男は困ったように微笑むだけ。





男は自身の子をふたり持とうと、婚約者を探し続けた。


正規の仕事には就かず、極貧とも言える生活になっても。


その皺寄せは子供たちにも及び、幼い頃から新聞配達で生計を助け、義務教育以上を父親に望むことは出来ないと判断した子供たちは、中学を卒業すると、早々に就職の道を選び進み、各々の生活と家庭を築いていった。


父親が異国の婚約者を忘れられずにいたせいで、母親から八つ当たりのように暴力を受けたことも多かった。


そのことに、憤りを覚えたこともある。


父親は自分勝手。


そう思いながらも、どこか呆れ、どこか羨ましくも思えた。


身を焦がし、たったひとりの女性をひたすらに追い求め続ける父親の姿に、大人になった息子たちは思うところもある。


それでも、母親の前でモノクロの写真を愛おしげに見つめるのだけはやめてほしいと嘆息するが。


しかも悪びれる様子もなく、孫に「大切な人」と言い放つ。


突き刺さるような母親の視線に、居心地が悪くなってしまう。




***




男は、認知症となり家族を忘れても、モノクロの写真だけは離さなかった。


その姿に、息子と孫は行動を起こす。


どうにか婚約者の存在を確認できないか。


たとえ会うことは叶わなくとも。



大使館、テレビ局、新聞社……思い付く限りに協力を願った。


けれど返される言葉は皆一様に同じもの。



『ご協力は出来かねます』



それはそうだろう。


もう60年近くも前の話で、かつての噂が真実なら虐殺が行われている。


そんな地に住んでいたであろう、ひとりの少女の行く末など、素人の一般人が探し当てることなど出来るはずがない。



「ここまでくると…会わせてやりたかったな……」



思わず漏れ聞こえた声に、孫も小さく頷いた。


男はもう長くない。


日々小さくなる呼吸に、何もしてあげられない焦燥感を抱いてしまう。



いい夫ではなかった。


いい父親ではなかった。



それでも何故か、人望はあった。


多くの人が男を慕い、足を運んだ。


その姿しか知らない孫にとっては、優しくて大好きな祖父だったのだ。


そんな祖父が、思い続けてきた婚約者。


その歪とも言える状況に、違和感も嫌悪感も抱いたことはない。


ただただ……すごい……と捉えていた。









「私は出ないわ」



祖母は祖父の葬儀に参列することを拒否した。


死ぬまでほかの女性を想い続けた夫の葬儀など、そうだろう。


前夫の息子は参列するものの、親族としてではない。




「親父のしでかした結果だからな…」



多大なる皺寄せを受けてきた息子ふたりは、棺に納められた父親にそう言葉をかけ……眉を下げて笑った。


困った父親だ…と。



家族だけのその場で、男にとっての長子が遺品を棺に納める。



「せめてあの世で再会してくれ」



そっと枕の下にすべりこませ、蓋を閉じた。


それがなんなのか、その場の誰もが分かっていたが、誰も何も言わない。


祖母にとっては面白くないだろう。


けれど60年。


必ず戻ると誓った約束は守れなかったが、その思いは確かだった。


だからこそ、男の家族は、宝物を持たせてやることに決めたのだ。


絶望の地で手に入れ、何もかもを忘れても手離さなかったもの。


古びた1枚のモノクロ写真。


棺に納められた遺品はそれだけ。


けれどきっとそれでよかった。




「幸せになれよ……親父」




最愛の人と共に焼かれ、きっと本望だろう。


過酷な人生だった筈なのに、そう言える父の姿に、娘はこっそり感動した。








おじいちゃん。


最愛の人には会えましたか?




こうやって書き記すと、ホントにダメな男。

けれど憎めないのは、婚約者に向ける想いに嘘がなかったから…なのだろうか。

祖父は本当に、優しい人でした。

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